254年
ステファヌス1世がローマ教皇に即位。
3世紀半ば、ステファヌス1世がローマ教皇に即位し、初期キリスト教会の組織強化に尽力しました。
ステファヌス1世は254年にローマ教皇に選出され、教会法の整備や聖職者の規律強化を推進しました。
当時のローマ帝国内ではキリスト教迫害が続いていましたが、彼は信徒の結束を図り、教会組織の基礎を築きました。
在位期間は約7か月と短命でしたが、その改革精神は後世の教皇権確立に大きな影響を与えました。
カトリック教会では殉教者としても尊称され、歴史的にも重要な教皇の一人とされています。
254年
ステファヌス1世
ローマ教皇
元和3年4月8日
駿河・久能山から移された徳川家康の遺体が日光・奥院廟塔に改葬される。
徳川家康の遺体が久能山から日光東照宮奥院へ改葬された日です。
元和3年4月8日(新暦5月12日)、徳川家康の遺骸が駿河国久能山から日光山へと移されました。
日光東照宮奥院の廟塔に安置される一連の儀式は、江戸幕府の権威を象徴する国家的行事となりました。
江戸幕府はこの機会に日光東照宮を整備し、全国の大名や参詣者を惹きつける社殿として発展させました。
家康の神格化と幕府の正統性を示すうえで重要な出来事であり、その後の神社建築にも大きな影響を与えました。
現在も日光山一帯は世界遺産に登録され、多くの参拝者が訪れる名所となっています。
1617年
元和
4月8日
久能山
徳川家康
日光
1873年
スウェーデン王オスカル2世が戴冠。
スウェーデン王オスカル2世が正式に戴冠し、王位に就いた日です。
1872年に父カール15世の死去により王位継承者となったオスカル2世は、
1873年5月12日にストックホルムで戴冠式を挙行しました。
式典は伝統に則り華やかな行列や宗教儀式が行われ、
国王としての権威を内外に示す重要な機会となりました。
在位中のオスカル2世は工業化の推進や議会との協調を図り、
近代スウェーデンの基盤を築く役割を果たしました。
本日の戴冠はその歴史の幕開けを象徴しています。
1873年
オスカル2世
1925年
治安維持法が施行される。
国の思想統制を強化する『治安維持法』が施行されました。
1925年5月12日、日本で治安維持法が施行されました。
この法律は国家の基本的制度を変革しようとする思想や結社を取り締まり、共産主義運動などを厳しく規制するものでした。
以降、多くの政治活動家や労組指導者が弾圧され、言論や結社の自由が著しく制限される要因となりました。
国際情勢の緊迫化と相まって、昭和初期の政治統制強化を象徴する法律です。
制定当初からその運用範囲の広さが批判され、後に廃止まで政治弾圧手段として悪用されました。
1925年
治安維持法
1926年
ポーランドでユゼフ・ピウスツキらが五月革命をおこし政権を掌握する。
ユゼフ・ピウスツキらが五月革命を起こし、ポーランドでクーデターを成功させました。
1926年5月12日、ポーランドの元帥ユゼフ・ピウスツキは政権奪取を目的にワルシャワで五月革命(クーデター)を開始しました。
軍を動員して議会や政府機関を制圧し、わずか数日で実権を掌握しました。
ピウスツキの指導の下、『サンセーション』と呼ばれる半権威主義体制が築かれ、政党政治の混乱を収拾する一方で政治的自由が制限されました。
この体制は第二次世界大戦前夜まで続き、ポーランドの政治的安定と抑圧的統治の両面を示すものでした。
ピウスツキの影響力はリーダーシップと強権政治の象徴として歴史に刻まれています。
1926年
ポーランド
ユゼフ・ピウスツキ
1927年
ロンドンにあるソ連の貿易事務所アルコスをイギリス官憲が捜索。(アルコス事件)
ロンドンのソ連貿易事務所アルコスが英当局により捜索されました。
1927年5月12日、イギリス警察はロンドンにあるソ連貿易事務所『アルコス』を捜索しました。
当局は共産主義のスパイ活動の疑いをかけ、書類や通信設備を押収。
この『アルコス事件』は英ソ間の外交関係を一時的に悪化させ、互いに非難を繰り返す事態となりました。
事件後、貿易協定交渉にも影響が及び、冷戦前夜の緊張を象徴する出来事として位置づけられています。
ソ連側は強く抗議し、国際的な非難合戦に発展しました。
ロンドン
アルコス
アルコス事件
1937年
ロンドンのウェストミンスター寺院で英国王ジョージ6世の戴冠式が行なわれる。
ジョージ6世のイギリス王戴冠式がウェストミンスター寺院で行われました。
1937年5月12日、ロンドンのウェストミンスター寺院においてジョージ6世の戴冠式が挙行されました。
エドワード8世の退位に伴い兄アルバート殿下が国王として即位し、彼は王位を守り抜く決意を示しました。
戴冠式ではクラウン・ジュエルズの使用や大規模な行進が行われ、世紀の華やかな催しとなりました。
式典には英連邦各地から代表が参列し、伝統的な儀式が厳かに執り行われました。
新国王は後に第二次世界大戦期の英国の精神的支柱として評価され、その品位ある統治は国民に大きな安心感を与えました。
ジョージ6世の治世は国難の時期を乗り越える象徴として、英国王室の重みを再確認させました。
1937年
ウェストミンスター寺院
ジョージ6世
1938年
ドイツが満州国を承認。満独修好条約が締結される。
1938年、ナチス・ドイツが中国東北部の傀儡国家・満州国を正式に承認し、両国間で修好条約を締結しました。
1938年5月12日、ドイツは満州国を正式に承認しました。
満州国は1932年に日本により樹立された傀儡国家で、国際的には承認が限定的でした。
この承認はナチス・ドイツと日本帝国の国際的連携を示すもので、両国間の密接な関係を強調しました。
同日、『満独修好条約』が締結され、相互援助や経済協力の枠組みが取り決められました。
この条約は第二次世界大戦前の枢軸国間協力を象徴する重要な出来事とされています。
1938年
ドイツ
満州国
承認
1949年
冷戦: ソ連がベルリン封鎖を解除。
冷戦期、ソ連が約11ヶ月にわたるベルリン封鎖を解除しました。
1949年5月12日、ソ連は1948年6月から続いていたベルリン封鎖を正式に解除しました。
封鎖期間中、連合国は空輸作戦(ベルリン空輸)で西ベルリンへの物資供給を維持。
封鎖解除は西側陣営の団結力とロジスティクス能力を示す出来事となりました。
この事件は冷戦の激化と東西対立の象徴として歴史に残り、ドイツ分断体制を確立させる契機となりました。
翌年、西ドイツ共和国が成立し、東西ドイツの政治的緊張はさらに高まりました。
1949年
冷戦
ソ連
ベルリン封鎖
1958年
アメリカ合衆国とカナダの政府間協定が成立し、統合防衛組織・北アメリカ航空宇宙防衛司令部(ノーラッド)が発足。
米加両国間の防衛協力により、NORADが発足しました。
1958年5月12日、アメリカ合衆国とカナダは政府間協定に調印し、北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)を共同で発足させました。
NORADは北米大陸への侵入や攻撃を監視・防衛する統合指揮組織で、初の二国間軍事協力機関です。
冷戦下のソ連の脅威に対処するため、レーダー網や航空戦力を共同で運用。
現在も北米の航空宇宙領域を監視し、迎撃任務などの重要な役割を担っています。
米加両軍の緊密な連携を象徴する組織であり、国際防衛協力の先駆けとなりました。
1958年
アメリカ合衆国
カナダ
北アメリカ航空宇宙防衛司令部
2008年
ロシア連邦通信・情報技術・マスコミ分野監督庁設立。
2008年5月12日、ロシア連邦に通信・情報技術・マスコミ監督庁(ロスコムナゾール)が設立されました。
2008年5月12日、ロシア連邦大統領令により通信・情報技術・マスコミ分野監督庁(ロスコムナゾール)が創設された。
同庁はインターネットや放送、郵便、電気通信分野の監督権限を持ち、規制・検閲も担う。
従来の連邦通信局や情報庁の機能を統合し、デジタル時代の情報統制体制を強化した。
国内外のメディア企業や通信事業者は新たな許認可制度に従う必要が生じた。
設立以来、オンライン規制や個人情報保護などを巡る論争の中心的存在となっている。
ロシア連邦通信・情報技術・マスコミ分野監督庁
2022年
ロシアのウクライナ侵攻が欧州の安全保障を脅かしているとして、 フィンランドのサウリ・ニーニスト大統領とサンナ・マリン首相が、北大西洋条約機構(NATO)への加盟支持を表明した。
フィンランドの指導者がNATO加盟支持を表明し、安全保障政策を転換した。
2022年5月12日、フィンランドのサウリ・ニーニスト大統領とサンナ・マリン首相は、ロシアによるウクライナ侵攻が欧州の安全保障を脅かしていると声明。
両首脳は北大西洋条約機構(NATO)への加盟支持を公式に表明した。
これまで中立政策を維持してきたフィンランドにとって大きな転換となり、国際社会に衝撃を与えた。
加盟プロセスには国会承認や住民投票が必要であり、今後の審議が注目された。
ロシアとの国境を共有するフィンランドの動きは、北欧地域の安全保障環境に大きな影響を及ぼした。
ロシア
ウクライナ侵攻
フィンランド
サウリ・ニーニスト
サンナ・マリン
北大西洋条約機構