254年

ステファヌス1世がローマ教皇に即位。

3世紀半ば、ステファヌス1世がローマ教皇に即位し、初期キリスト教会の組織強化に尽力しました。
ステファヌス1世は254年にローマ教皇に選出され、教会法の整備や聖職者の規律強化を推進しました。 当時のローマ帝国内ではキリスト教迫害が続いていましたが、彼は信徒の結束を図り、教会組織の基礎を築きました。 在位期間は約7か月と短命でしたが、その改革精神は後世の教皇権確立に大きな影響を与えました。 カトリック教会では殉教者としても尊称され、歴史的にも重要な教皇の一人とされています。
254年 ステファヌス1世 ローマ教皇
1364年

ポーランド最古の大学・ヤギェウォ大学設立。

クラクフに設立されたポーランド最古の大学、ヤギェウォ大学が創立された日です。
ヤギェウォ大学(ヤギェウォ・アカデミア)は、カジミェシュ3世大王の命により1364年に創設されました。 神学や法律、医学など多様な学問分野を擁し、中世ヨーロッパの学術交流の中心的役割を果たしました。 ルネサンス期には人文主義の影響を受け、文化・科学の発展を促進。 現在もクラクフ大学として、ポーランド有数の総合大学の地位を維持し続けています。
1364年 ポーランド ヤギェウォ大学
1551年

ペルーに南北アメリカ大陸最古の大学・王立リマ大学(現 国立サンマルコス大学)設立。

南北アメリカ大陸最古の大学の一つ、王立リマ大学(現サンマルコス大学)が設立された日です。
1551年、スペイン王カルロス1世の勅許を受け、ペルーのリマに王立リマ大学が創設されました。 同大学は現在の国立サンマルコス大学の前身であり、アメリカ大陸における高等教育の草分け的存在です。 神学・法学・医学などの学科を設置し、植民地統治に必要な人材育成に貢献しました。 また南北アメリカ地域の学術・文化の中心地としての役割を担い、現代に至るまで教育機関として発展を続けています。
1551年 ペルー 国立サンマルコス大学
天正4年4月14日

石山合戦: 織田信長方が石山本願寺を包囲。

織田信長が石山本願寺を包囲した石山合戦が始まった日です。
1576年5月12日(天正4年4月14日)、織田信長は本願寺勢力を制圧するため石山本願寺への包囲を開始しました。 この戦いは長期化し、本願寺門徒と織田軍の対立が続く顕著な事例となりました。 石山合戦は、戦国時代の宗教勢力と統一政権の衝突を象徴し、大阪・石山本願寺が舞台となりました。 後の顕如上人との和議まで10年以上に及ぶ抗争が続き、信長の全国統一事業への障壁となりました。 当時の戦略・兵站の様相を知るうえでも重要な合戦です。
1576年 天正 4月14日 石山合戦 織田信長 石山本願寺
1588年

ユグノー戦争: ギーズ公アンリ1世がパリに入城し、アンリ3世が逃亡。(バリケードの日)

「バリケードの日」として知られる、ギーズ公アンリ1世がパリを掌握した日です。
1588年5月12日、カトリック教徒の指導者ギーズ公アンリ1世はパリ市民と共にバリケードを築き、アンリ3世を市外へ退去させました。 この事件はユグノー戦争(宗教戦争)の一幕で、ヴァロワ朝王権の弱体化を示す象徴的事件となりました。 アンリ1世は母カトリーヌ・ド・メディシスの後ろ盾を得て行動し、パリの支配権を掌握。 その後、政治的緊張はさらに高まり、フランス内戦の激化につながりました。 当時の市民運動と軍事力の融合を考えるうえで重要な転換点です。
1588年 ユグノー戦争 ギーズ公アンリ1世 アンリ3世
元和3年4月8日

駿河・久能山から移された徳川家康の遺体が日光・奥院廟塔に改葬される。

徳川家康の遺体が久能山から日光東照宮奥院へ改葬された日です。
元和3年4月8日(新暦5月12日)、徳川家康の遺骸が駿河国久能山から日光山へと移されました。 日光東照宮奥院の廟塔に安置される一連の儀式は、江戸幕府の権威を象徴する国家的行事となりました。 江戸幕府はこの機会に日光東照宮を整備し、全国の大名や参詣者を惹きつける社殿として発展させました。 家康の神格化と幕府の正統性を示すうえで重要な出来事であり、その後の神社建築にも大きな影響を与えました。 現在も日光山一帯は世界遺産に登録され、多くの参拝者が訪れる名所となっています。
1617年 元和 4月8日 久能山 徳川家康 日光
1689年

ウィリアム王戦争: イングランド王ウィリアム3世がアウクスブルク同盟側について参戦。

ウィリアム3世が大陸ヨーロッパの連合軍側に参戦し、ウィリアム王戦争が本格化した日です。
1689年5月12日、イングランド王ウィリアム3世(オレンジ公)はルイ14世に対抗してアウクスブルク同盟側に参戦しました。 この参戦により、イギリスは欧州大陸の勢力均衡に本格的に介入し、9年戦争の一環としてフランスと対峙。 同盟は神聖ローマ帝国、オランダ共和国、イングランドなど複数国で構成され、ルイ14世の拡張政策を抑える狙いがありました。 海軍力と新興勢力としてのイギリスの参戦は、戦争の帰趨を左右しました。 ウィリアム3世の決断は英国の国際秩序への関与を深める転機ともなりました。
1689年 ウィリアム王戦争 ウィリアム3世 アウクスブルク同盟
1797年

ノアの反乱起こる。

1797年 ノアの反乱
1863年

南北戦争: レイモンドの戦い。

南北戦争中、ミシシッピ州レイモンドで北軍と南軍が激突したレイモンドの戦いが行われた日です。
1863年5月12日、南北戦争の一環であるヴィックスバーグ作戦中にレイモンドで戦闘が発生しました。 北軍のジェームズ・B・マクファーソン将軍率いる部隊が南軍のジョン・C・ペンバートン将軍軍と衝突。 北軍は決定的な勝利を収め、ヴィックスバーグ包囲戦への道を切り開きました。 この戦いはミシシッピ川制圧の鍵を握り、連合国軍(北軍)の戦略的優位を確立する上で重要でした。 同作戦は後の南北戦争の帰趨を大きく左右する転換点となりました。
1863年 南北戦争 レイモンドの戦い
1865年

南北戦争: パルメット農場の戦いが始まる。

南北戦争最後の戦闘とされるパルメット農場の戦いが始まった日です。
1865年5月12日、テキサス州ブラウンズヴィル近郊でパルメット農場(Palmito Ranch)の戦いが勃発しました。 アメリカ連合国(南軍)と北軍の間で行われ、公式には南北戦争終結後に起きた最後の戦闘とされています。 南軍はこの戦闘で勝利を収め、戦略的には大規模な影響はなかったものの象徴的な出来事となりました。 両軍の兵力は限定的であり、遠隔地での小規模衝突でしたが、戦争の歴史的結末を語るうえで欠かせないエピソードです。 この戦いはアメリカ史上最後の南北戦争戦闘として記憶されています。
1865年 パルメット農場の戦い
1873年

スウェーデン王オスカル2世が戴冠。

スウェーデン王オスカル2世が正式に戴冠し、王位に就いた日です。
1872年に父カール15世の死去により王位継承者となったオスカル2世は、 1873年5月12日にストックホルムで戴冠式を挙行しました。 式典は伝統に則り華やかな行列や宗教儀式が行われ、 国王としての権威を内外に示す重要な機会となりました。 在位中のオスカル2世は工業化の推進や議会との協調を図り、 近代スウェーデンの基盤を築く役割を果たしました。 本日の戴冠はその歴史の幕開けを象徴しています。
1873年 オスカル2世
1917年

岡山県で「済世顧問設置規程」が公布され、現在の民生委員制度の前身にあたる済世顧問制度が発足した。

岡山県で民生委員制度の前身となる済世顧問制度が発足しました。
1917年5月12日、岡山県では『済世顧問設置規程』が公布され、地域福祉の推進を目的とした済世顧問制度が正式に始まりました。 この制度は住民の生活相談や福祉支援を担うもので、地域の社会福祉向上に寄与しました。 後に制定される民生委員制度は、この仕組みを発展させたものであり、 昭和23年の民生委員法制定に至るまで、地方自治体の福祉活動の基盤となりました。 戦後の福祉ネットワーク構築における先駆的モデルと評価され、 今日の地域福祉制度の礎を築いた出来事として知られています。
1917年 岡山県 民生委員 済世顧問制度