天正3年4月2日

石山合戦: 石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵。

石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵し、石山合戦が再燃した。 信長包囲網に異議を唱えた本願寺勢の攻防戦が本格化。
天正3年4月2日(1575年5月10日)、石山本願寺の法主顕如は織田信長に対し反抗し再挙兵した。 顕如率いる本願寺勢は石山(現在の大阪市中央区)に本拠を置き、信長の包囲網に挑んだ。 織田軍は鉄砲隊や長篠の戦い後の戦術を持ち込んで攻勢を強めたが、要塞化された石山を攻略できず長期戦となる。 この石山合戦は本願寺と織田氏の抗争の一端であり、後の一向一揆にも影響を与えた。 戦いは11年に及び、結果的に本願寺は和議を結ぶまで抵抗を続けた。
1575年 天正 4月2日 石山合戦 石山本願寺 顕如 織田信長
1796年

イタリア戦役: ロディの戦いが行われる。

ナポレオン率いるフランス軍がロディの戦いでオーストリア軍を撃破し、北イタリア制圧の端緒を開いた。
1796年5月10日、第一次イタリア遠征中のナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がロディ郊外でオーストリア軍と衝突した。 狭い橋を巡る攻防戦で、フランス軍は大胆な突撃により防御線を突破した。 この戦術的勝利はフランス軍の士気を大いに高め、北イタリア制圧への足がかりとなった。 戦闘は数時間で終結し、双方の死傷者は合わせて約1,000名に及んだとされる。 後にロディの橋はナポレオンの英雄的功績を象徴する地となった。
イタリア戦役 ロディの戦い
1857年

インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こる。

インド大反乱(セポイの乱)が勃発し、英東インド会社に対する武装蜂起が始まった。
1857年5月10日、デリーを皮切りに英東インド会社支配に反発したセポイ(インド兵)らが蜂起し、インド大反乱が勃発した。 反乱は北インド各地に広がり、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立して蜂起軍を鼓舞した。 イギリス軍は増援を送り込み、反乱鎮圧に向けて大規模な作戦を展開した。 反乱は数ヶ月にわたる激戦となり、死傷者は数十万にのぼるとされる。 鎮圧後、インドの統治は英東インド会社からイギリス本国政府へ移管され、帝国支配体制が確立した。
1857年 インド インド大反乱
1940年

第二次世界大戦: ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入。ドイツ軍の黄色作戦が始まる。

1940年5月10日、ドイツ軍がオランダ・ベルギーへ侵攻し、いわゆる「黄色作戦」が開始されました。
1940年5月10日、ドイツ軍は「黄色作戦」と呼ばれる戦略計画のもと、オランダとベルギーへ同時侵攻を開始しました。快速を誇る装甲師団がアルデンヌの森を突破し、連合国軍の防線を奇襲しました。オランダでは空挺作戦により主要都市が短期間で制圧され、ベルギーでも迅速な攻勢が展開されました。連合国側は戦線の再編を余儀なくされ、フランス戦役に移行する契機となりました。侵攻開始からわずか数週間で両国は降伏し、ドイツ軍は西部戦線を一気に支配下に置きました。この作戦は空陸一体の電撃戦戦術の代表例として評価され、近代戦の新しい形を示しました。
第二次世界大戦 ドイツ オランダ ベルギー 黄色作戦
1940年

第二次世界大戦: イギリス軍がアイスランドに侵攻。

1940年5月10日、英国軍がアイスランドに侵攻し、戦略拠点として占領を開始しました。
第二次世界大戦中の1940年5月10日、英国はドイツ軍のアイスランド侵攻を懸念し、アイスランドに対する占領作戦「オペレーション・フォーク」を実施しました。少数の部隊が首都レイキャビクに上陸し、現地政府から大きな抵抗なく占領を完了しました。戦略的に重要な大西洋航路や気象観測地点を確保するための行動であり、同盟国の安全保障に貢献しました。その後、アメリカ軍もアイスランド駐留を引き継ぎ、全大戦期を通じて島は連合国の前進基地として機能しました。アイスランド住民との協力体制も築かれ、占領は比較的平穏に進行しました。これにより大西洋横断航路の安全性が向上し、連合国の補給線維持に寄与しました。
アイスランドに侵攻