1768年

イギリス王ジョージ3世を批判する記事を書いたかどでジョン・ウィルクスが監獄に収監、軍は収監に抗議する群衆に発砲し7名の死者を出す。

ジョージ3世を批判したジョン・ウィルクスが収監され、抗議集会に軍が発砲し7名が死亡した事件。
1768年5月10日、イギリスの議会誌『North Briton』第45号でジョージ3世を批判したジョン・ウィルクスが逮捕・収監された。 ロンドンではウィルクス支持者が自由放任を求め集会を開き、数千人が議会前に結集した。 駐屯していた軍隊は治安維持を名目に集会を解散させようとしたが、衝突が発生。 銃撃により少なくとも7名の死者が出て世論は騒然とし、自由と専制の問題が大きく議論された。 この事件はイギリスにおける言論の自由運動の先駆けとなり、イギリス政治史に大きな影響を与えた。
1768年 イギリス王 ジョージ3世 ジョン・ウィルクス
1900年

皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と九条節子(後の貞明皇后)が結婚。

1900年5月10日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と九条節子(後の貞明皇后)が結婚しました。
明治期の宮中行事として厳粛に執り行われた婚礼は、皇室儀礼の伝統を色濃く残すものでした。両殿下は正式な婚礼衣装を身にまとい、宮中の祝宴や儀式において国の慶事として祝福されました。結婚報道は新聞や写真で広く伝えられ、国民の注目を集めました。嘉仁親王は大正天皇として即位するまでの間、貞明皇后とともに皇室の公務や社会福祉事業に参加しました。両殿下の結婚は明治から大正への時代の移り変わりを象徴する一コマとも言われています。
1900年 大正天皇 貞明皇后
1908年

アメリカ・フィラデルフィアの教会で世界初の「母の日」を実施。

1908年5月10日、フィラデルフィアの教会で世界初の母の日が実施されました。
アンナ・ジャーヴィスが母への感謝を表す日を提唱し、教会で記念礼拝が行われました。参加者はカーネーションを贈り、母親への愛情と尊敬を示しました。翌年にはこの運動が全米に広がり、1914年には議会で公式祝日として制定されました。母の日は国際的にも普及し、現在では多くの国で5月第2日曜に祝われています。家族の絆を再確認する日として、ギフトやカード交換の習慣が定着しました。
1908年 母の日
1923年

早稲田大学で軍事研究団が発足。直後に学内対立が生じて早稲田大学軍事研究団事件に発展。

1923年5月10日、早稲田大学で軍事研究団が設立され、直後に学内対立が生じました。後に「早稲田大学軍事研究団事件」として知られています。
1923年5月10日に早稲田大学内の有志学生が軍事研究団を結成しました。研究団は軍事戦略や兵学の研究を目的としており、一部の学生から支持を受ける一方で反対意見も根強く存在しました。団体の設立直後、平和主義を唱える学生との対立が激化し、学内で大規模な論争となりました。大学当局は両派の調停を試みましたが、最終的には軍事研究団側への処分や活動制限が行われました。これにより「早稲田大学軍事研究団事件」と呼ばれる事態に発展し、メディアでも大きく取り上げられました。事件は戦間期の大学における政治的対立の象徴とされ、学内外に大きな影響を与えました。
1923年 早稲田大学 早稲田大学軍事研究団事件
1952年

北陸放送開局。本州日本海側最初の民間放送ラジオ局。

本州日本海側初の民間放送ラジオ局、北陸放送が開局しました。
1952年5月10日、北陸地方で初の民間ラジオ局として北陸放送が開局しました。本社を富山県に置き、地域情報やニュース、文化番組を中心に放送を開始しました。当時、地方における情報伝達は限られており、地元住民にとって貴重な窓口となりました。新局は地域密着の姿勢で農業・漁業レポートや生活情報番組を展開し、暮らしに密着した放送を提供しました。以後、テレビ放送やネットワーク展開を進め、北陸地域の重要なメディアとして成長しました。
1952年 北陸放送 本州 日本海側 民間放送
1984年

グリコ・森永事件: 報道機関に「かい人21面相」から「グリコ製品に毒物を混入した」との脅迫状が送られる。(兵庫青酸菓子ばら撒き事件)

1984年5月10日、グリコ・森永事件で「かい人21面相」を名乗る犯人から毒物混入の脅迫状が報道機関に送付され、社会に衝撃を与えました。
名古屋の菓子メーカー・江崎グリコを狙った誘拐・脅迫事件『グリコ・森永事件』の一環で、 同年5月10日に『かい人21面相』を名乗る犯人がグリコ製品への毒物混入を示唆する脅迫状を各報道機関に送付。 これにより製品回収や広範な捜査が行われ、消費者の不安が高まりました。 事件は長期間にわたりメディアを騒がせ、社会不安の象徴ともなりました。 現在も未解決事件として語り継がれ、企業の危機管理の教訓となっています。
1984年 グリコ・森永事件 グリコ 兵庫青酸菓子ばら撒き事件
1987年

帝銀事件の死刑囚平沢貞通が獄中で病死。

1987年5月10日、帝銀事件の死刑囚であった平沢貞通が獄中で病死しました。
1948年に発生した帝国銀行本店襲撃事件(帝銀事件)で15人もの命を奪った平沢貞通は、 1960年に死刑判決が確定した後、長年東京拘置所で収監されていました。 その後、刑は執行されずに拘禁生活を続けていましたが、1987年5月10日に獄中で病死。 正式な刑の執行を前にしたまま生涯を閉じ、未解決のまま残された事件の議論を再燃させました。
1987年 帝銀事件 平沢貞通
2004年

日本の皇太子徳仁親王が記者会見で人格否定発言を行う。

2004年5月10日、日本の皇太子徳仁親王が記者会見で自身の人格を否定する趣旨の発言を行い、波紋を広げました。
同年5月10日に行われた記者会見で、徳仁親王は公務に関する質問に対し『私の人格を否定されているように感じた』と発言。 この表現が『人格否定発言』として各メディアで大々的に報道され、皇室の言動に初めて大きな注目が集まりました。 発言そのものは謝罪や撤回には至りませんでしたが、皇室と報道の関係性に対する議論を呼び、 以降の取材姿勢や公的発言の在り方に影響を与えました。
2004年 皇太子徳仁親王 記者会見 人格否定発言
2004年

Winnyの開発者が京都府警に逮捕。

2004年5月10日、ファイル共有ソフトWinnyの開発者が著作権法違反容疑で京都府警に逮捕されました。
Winnyは金子勇博士によって開発されたP2P型ファイル共有ソフトで、多くの利用者を獲得。 しかし、著作権侵害ファイルの共有を助長したとして、2004年5月10日に京都府警が金子氏を逮捕。 この事件はソフトウェア開発者の責任範囲やネットワーク利用の法的問題を浮き彫りにし、 インターネットの自由と規制のバランスに関する議論を全国規模で巻き起こしました。
Winny