慶長16年3月28日

豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛。二条城で会見する。

豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛し、二条城で初めて会見した。
慶長16年3月28日(1611年5月10日)、豊臣秀頼は将軍徳川家康の招きに応じて上洛した。 二条城において秀頼と家康は初めて対面し、両者の和睦と政権構造を確認する重要な機会となった。 この会見を通じて徳川氏は豊臣氏との共存を図り、政権安定を図る意図を示した。 一方で豊臣氏側は家康の許可を得ることで大名としての体面を保とうとした。 両家の緊張緩和はその後の大坂の陣まで続いたが、最終的な抗争は避けられなかった。
1611年 慶長 3月28日 豊臣秀頼 徳川家康 二条城
1768年

イギリス王ジョージ3世を批判する記事を書いたかどでジョン・ウィルクスが監獄に収監、軍は収監に抗議する群衆に発砲し7名の死者を出す。

ジョージ3世を批判したジョン・ウィルクスが収監され、抗議集会に軍が発砲し7名が死亡した事件。
1768年5月10日、イギリスの議会誌『North Briton』第45号でジョージ3世を批判したジョン・ウィルクスが逮捕・収監された。 ロンドンではウィルクス支持者が自由放任を求め集会を開き、数千人が議会前に結集した。 駐屯していた軍隊は治安維持を名目に集会を解散させようとしたが、衝突が発生。 銃撃により少なくとも7名の死者が出て世論は騒然とし、自由と専制の問題が大きく議論された。 この事件はイギリスにおける言論の自由運動の先駆けとなり、イギリス政治史に大きな影響を与えた。
1768年 イギリス王 ジョージ3世 ジョン・ウィルクス
1774年

ルイ16世がフランス王に即位。

ルイ16世がフランス王に即位し、近代フランス史の波乱の時代が始まった。
1774年5月10日、ルイ15世の死去によりルイ・オーギュスト(後のルイ16世)がフランス王位を継承した。 即位当初は改革志向を示し、啓蒙思想の影響を受けた顧問を登用したが、財政難の打開には至らなかった。 王政改革の失敗と貴族階級との衝突が国内不安を増大させ、後のフランス革命の遠因となる。 ルイ16世は国政運営に慎重だったが、改革案は議会と対立し停滞した。 その在位期間中、社会・経済の格差問題が深刻化し、1789年の革命勃発を迎えることになる。
1774年 ルイ16世 フランス王
1796年

フランス政府転覆を計画したフランソワ・ノエル・バブーフらが逮捕される。

バブーフらがフランス政府転覆計画を疑われ逮捕され、反乱陰謀が露呈した。
1796年5月10日、革命後のフランスで元将校フランソワ・ノエル・バブーフが政府転覆を目的とした陰謀を企てたとして逮捕された。 バブーフは急進的な平等主義を掲げ、富裕層や政府要人の排除を目指して同志を募っていた。 当局は彼の計画を未然に察知し、全国規模の捜査によって多くの共謀者を拘束した。 この事件は『平民党の陰謀』として後世に語られ、フランス革命後の政治的不安定さを象徴した。 バブーフは翌1797年に処刑されたが、その急進的平等主義は後の社会思想に影響を与えた。
1796年 フランソワ・ノエル・バブーフ
1804年

ウィリアム・ピット(小ピット)がイギリスの18代首相に就任。

若年ながらウィリアム・ピットがイギリスの18代首相に就任し、政界に旋風を巻き起こした。
1804年5月10日、28歳のウィリアム・ピット(小ピット)がイギリスの首相に就任した。 在任中、ナポレオン戦争期に対仏同盟の維持や財政改革に取り組み、内政の安定を実現した。 彼のリーダーシップは後世に『ピットの黄金時代』とも称される政治的成功をもたらした。 海軍拡張や国債発行による資金調達を行い、ヨーロッパにおけるイギリスの影響力を強化した。 健康悪化により1806年に辞任したが、その政策はイギリス政治に大きな足跡を残した。
1804年 ウィリアム・ピット
1871年

フランスとプロイセン王国の間で「フランクフルト講和条約」調印。普仏戦争が終結。

1871年5月10日、普仏戦争を終結させるフランクフルト講和条約が調印されました。
普仏戦争(1870–1871年)の講和交渉として、フランスとプロイセン王国を中心とするドイツ諸邦がフランクフルトで条約を締結しました。フランスは巨額の賠償金支払いとアルザス・ロレーヌ地方の割譲を余儀なくされました。条約成立によりプロイセン王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国の成立が正式に宣言されました。この講和はヨーロッパの勢力地図を書き換え、フランスとドイツの長期的な敵対関係を生む契機となりました。また、この条約は第一次世界大戦へと至る複雑な外交関係の一端としても位置づけられています。
1871年 フランス プロイセン王国 フランクフルト講和条約 普仏戦争
1895年

三国干渉: 日本が遼東半島を清に返還。

1895年5月10日、三国干渉により日本は遼東半島を清に返還しました。
日清戦争後の下関条約で日本が獲得した遼東半島について、ロシア・ドイツ・フランスの三国が共同で日本に圧力をかけました。日本は国力の限界を理由に遼東半島の割譲を清国に返還し、国民の強い反発を招きました。三国干渉は日本の対外強硬論を助長し、軍備拡張と近代産業育成を急がせました。これが日露戦争やその後の東アジア情勢に大きな影響を与える一因となりました。国内では外交政策のあり方を問う声が高まり、明治政府の改革にも波及しました。
1895年 三国干渉 遼東半島
1922年

キングマン・リーフがアメリカ領となる。

1922年5月10日、キングマン・リーフがアメリカ領として編入されました。
アメリカ合衆国は太平洋中西部に位置する無人の珊瑚礁、キングマン・リーフを領土に編入しました。航行拠点としての価値が認められ、沿岸警備隊が定期的な巡回を開始しました。戦時中には補給基地や偵察地点として利用され、その後は海洋生物の調査拠点となりました。現在は海洋保護区に指定され、希少なサンゴや海洋生物を保護する場として重要視されています。遠隔地ではあるものの、環境保全と科学研究の面で注目を集める地域です。
1922年 キングマン・リーフ
1924年

ジョン・エドガー・フーヴァーがFBI長官に就任、1972年の死去に至るまで在任し続ける。

1924年5月10日、ジョン・エドガー・フーヴァーがFBI長官に就任しました。在任期間は48年に及び、1972年まで務め上げました。
ジョン・エドガー・フーヴァーは1917年に司法省に入省し、当初の捜査局(BOI)のエージェントとして勤務していました。1924年5月10日にFBI長官に任命され、同局を近代的な全国治安機関へと改革しました。在任中は犯罪捜査技術の標準化や国家犯罪情報センターの設立を推進し、FBIの権限を大きく強化しました。しかしその一方で、共産主義者や政治的異論を持つ市民への監視活動が批判を招くこともありました。フーヴァーは約48年間にわたり長官職を務め、在任期間は米国史上最長記録となりました。1972年に死去するまでFBIを統率し、法執行機関の象徴的存在となりました。
1924年 ジョン・エドガー・フーヴァー FBI 1972年
1932年

アルベール・ルブランがフランスの大統領に就任。

1932年5月10日、アルベール・ルブランがフランス第三共和政の大統領に就任しました。
アルベール・ルブランは1871年に生まれ、弁護士や軍事大臣などを歴任した政治家です。1932年5月10日にフランス第三共和政の大統領に選出され、国民議会での承認を経て就任しました。在任中は経済危機や政党対立の緩和を図ろうと試みました。1936年には人気の高かった人民戦線政権と協力し、社会改革法案の成立に関わりました。また、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、国家総動員体制の構築をサポートしました。1940年のドイツ軍侵攻を受けて退任し、後にヴィシー政権が成立しました。
1932年 アルベール・ルブラン フランスの大統領
1933年

ドイツ各地で、ナチスによる「非ドイツ的」な著作物の大規模な焚書が公開で行われる。

1933年5月10日、ナチス政権下のドイツ各地で非ドイツ的とみなされた著作物の公開焚書が行われました。
1933年5月10日にドイツ国内の大学や広場で、ナチス青年団や親衛隊が非ドイツ的と判断した書籍を大規模に焚書しました。この行為は文化省と教育省も後押しし、ユダヤ人作家や共産主義者、社会主義者らの著作が標的となりました。最大規模の焚書式はベルリンのオペラ広場で行われ、数万冊の書籍が炎に包まれました。ナチスはこれをプロパガンダとして利用し、「ドイツ文化の純粋性」を強調しました。しかし学術界や海外の知識人からは激しい非難が巻き起こり、ドイツの文化政策への懸念が高まりました。焚書事件は表現の自由に対する重大な侵害であり、ナチスの全体主義的統制の象徴として歴史に刻まれました。
1933年 ドイツ ナチス 焚書
1936年

マヌエル・アサーニャがスペイン第二共和政の大統領に就任。1939年4月まで。

1936年5月10日、マヌエル・アサーニャがスペイン第二共和政の大統領に就任しました。
マヌエル・アサーニャは1880年に生まれ、共和主義者として政治活動を続けてきました。1931年の共和政樹立後は内相や副大統領を歴任し、広範な支持を集めました。1936年5月10日に大統領に就任し、人民戦線政府を代表する国家元首として政権に携わりました。しかし同年7月には軍部の反乱が勃発し、スペイン内戦が勃発しました。アサーニャは共和国側を支持しつつも、戦争の激化と内部対立により指導力を問われました。最終的に1939年のフランコ勝利によって共和国政府は崩壊し、アサーニャは亡命生活を余儀なくされました。彼の在任期間はスペイン現代史において激動の時期と重なり、大きな波紋を呼びました。
マヌエル・アサーニャ スペイン第二共和政 1939年