天正3年4月2日

石山合戦: 石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵。

石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵し、石山合戦が再燃した。 信長包囲網に異議を唱えた本願寺勢の攻防戦が本格化。
天正3年4月2日(1575年5月10日)、石山本願寺の法主顕如は織田信長に対し反抗し再挙兵した。 顕如率いる本願寺勢は石山(現在の大阪市中央区)に本拠を置き、信長の包囲網に挑んだ。 織田軍は鉄砲隊や長篠の戦い後の戦術を持ち込んで攻勢を強めたが、要塞化された石山を攻略できず長期戦となる。 この石山合戦は本願寺と織田氏の抗争の一端であり、後の一向一揆にも影響を与えた。 戦いは11年に及び、結果的に本願寺は和議を結ぶまで抵抗を続けた。
1575年 天正 4月2日 石山合戦 石山本願寺 顕如 織田信長
慶長16年3月28日

豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛。二条城で会見する。

豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛し、二条城で初めて会見した。
慶長16年3月28日(1611年5月10日)、豊臣秀頼は将軍徳川家康の招きに応じて上洛した。 二条城において秀頼と家康は初めて対面し、両者の和睦と政権構造を確認する重要な機会となった。 この会見を通じて徳川氏は豊臣氏との共存を図り、政権安定を図る意図を示した。 一方で豊臣氏側は家康の許可を得ることで大名としての体面を保とうとした。 両家の緊張緩和はその後の大坂の陣まで続いたが、最終的な抗争は避けられなかった。
1611年 慶長 3月28日 豊臣秀頼 徳川家康 二条城
1768年

イギリス王ジョージ3世を批判する記事を書いたかどでジョン・ウィルクスが監獄に収監、軍は収監に抗議する群衆に発砲し7名の死者を出す。

ジョージ3世を批判したジョン・ウィルクスが収監され、抗議集会に軍が発砲し7名が死亡した事件。
1768年5月10日、イギリスの議会誌『North Briton』第45号でジョージ3世を批判したジョン・ウィルクスが逮捕・収監された。 ロンドンではウィルクス支持者が自由放任を求め集会を開き、数千人が議会前に結集した。 駐屯していた軍隊は治安維持を名目に集会を解散させようとしたが、衝突が発生。 銃撃により少なくとも7名の死者が出て世論は騒然とし、自由と専制の問題が大きく議論された。 この事件はイギリスにおける言論の自由運動の先駆けとなり、イギリス政治史に大きな影響を与えた。
1768年 イギリス王 ジョージ3世 ジョン・ウィルクス
1773年

ボストン茶会事件: イギリスで茶法が成立。

1773年 ボストン茶会事件 茶法
1774年

ルイ16世がフランス王に即位。

ルイ16世がフランス王に即位し、近代フランス史の波乱の時代が始まった。
1774年5月10日、ルイ15世の死去によりルイ・オーギュスト(後のルイ16世)がフランス王位を継承した。 即位当初は改革志向を示し、啓蒙思想の影響を受けた顧問を登用したが、財政難の打開には至らなかった。 王政改革の失敗と貴族階級との衝突が国内不安を増大させ、後のフランス革命の遠因となる。 ルイ16世は国政運営に慎重だったが、改革案は議会と対立し停滞した。 その在位期間中、社会・経済の格差問題が深刻化し、1789年の革命勃発を迎えることになる。
1774年 ルイ16世 フランス王
1796年

フランス政府転覆を計画したフランソワ・ノエル・バブーフらが逮捕される。

バブーフらがフランス政府転覆計画を疑われ逮捕され、反乱陰謀が露呈した。
1796年5月10日、革命後のフランスで元将校フランソワ・ノエル・バブーフが政府転覆を目的とした陰謀を企てたとして逮捕された。 バブーフは急進的な平等主義を掲げ、富裕層や政府要人の排除を目指して同志を募っていた。 当局は彼の計画を未然に察知し、全国規模の捜査によって多くの共謀者を拘束した。 この事件は『平民党の陰謀』として後世に語られ、フランス革命後の政治的不安定さを象徴した。 バブーフは翌1797年に処刑されたが、その急進的平等主義は後の社会思想に影響を与えた。
1796年 フランソワ・ノエル・バブーフ
1796年

イタリア戦役: ロディの戦いが行われる。

ナポレオン率いるフランス軍がロディの戦いでオーストリア軍を撃破し、北イタリア制圧の端緒を開いた。
1796年5月10日、第一次イタリア遠征中のナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がロディ郊外でオーストリア軍と衝突した。 狭い橋を巡る攻防戦で、フランス軍は大胆な突撃により防御線を突破した。 この戦術的勝利はフランス軍の士気を大いに高め、北イタリア制圧への足がかりとなった。 戦闘は数時間で終結し、双方の死傷者は合わせて約1,000名に及んだとされる。 後にロディの橋はナポレオンの英雄的功績を象徴する地となった。
イタリア戦役 ロディの戦い
1804年

ウィリアム・ピット(小ピット)がイギリスの18代首相に就任。

若年ながらウィリアム・ピットがイギリスの18代首相に就任し、政界に旋風を巻き起こした。
1804年5月10日、28歳のウィリアム・ピット(小ピット)がイギリスの首相に就任した。 在任中、ナポレオン戦争期に対仏同盟の維持や財政改革に取り組み、内政の安定を実現した。 彼のリーダーシップは後世に『ピットの黄金時代』とも称される政治的成功をもたらした。 海軍拡張や国債発行による資金調達を行い、ヨーロッパにおけるイギリスの影響力を強化した。 健康悪化により1806年に辞任したが、その政策はイギリス政治に大きな足跡を残した。
1804年 ウィリアム・ピット
1824年

ロンドンでナショナル・ギャラリーが初公開される。

ロンドンにナショナル・ギャラリーが開館し、庶民にも美術作品が公開された。
1824年5月10日、イギリス政府設立のナショナル・ギャラリーが初めて一般公開された。 当初は38点の絵画コレクションでスタートし、ルーベンスやホルバインの作品が展示された。 無料公開を原則とし、庶民への芸術アクセスを広げる先駆的な試みとなった。 その後コレクションは急速に拡充され、世界屈指の美術館へと成長を遂げた。 この開館は公共美術館のモデルとなり、各国のナショナル・ギャラリー設立に影響を与えた。
1824年 ロンドン ナショナル・ギャラリー
1857年

インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こる。

インド大反乱(セポイの乱)が勃発し、英東インド会社に対する武装蜂起が始まった。
1857年5月10日、デリーを皮切りに英東インド会社支配に反発したセポイ(インド兵)らが蜂起し、インド大反乱が勃発した。 反乱は北インド各地に広がり、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立して蜂起軍を鼓舞した。 イギリス軍は増援を送り込み、反乱鎮圧に向けて大規模な作戦を展開した。 反乱は数ヶ月にわたる激戦となり、死傷者は数十万にのぼるとされる。 鎮圧後、インドの統治は英東インド会社からイギリス本国政府へ移管され、帝国支配体制が確立した。
1857年 インド インド大反乱
1869年

アメリカ合衆国で東西から建設された最初の大陸横断鉄道が接続される。

1869年5月10日、アメリカ本土横断鉄道の東西区間がユタ州プロモントリーで結ばれ、ゴールデンスパイクが打ち込まれました。
1869年5月10日、ユタ州プロモントリー台地でアメリカ東西両岸を結ぶ大陸横断鉄道の接合式が行われました。発注者のユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道が合同でゴールデンスパイクを打ち込み、完工を祝いました。これにより東部から西部への移動時間が数カ月から数日へと大幅に短縮され、米国の物流や移民の増加に寄与しました。完成した鉄道は商業や産業の発展を促し、新たなフロンティア開拓を可能にしました。この歴史的な偉業は写真や新聞記事で広く伝えられ、アメリカ国家の象徴的プロジェクトとして称賛を浴びました。工事には多国籍の労働者が従事し、その苦難と成果は後世の鉄道建設にも大きな影響を与えました。
1869年 アメリカ合衆国 最初の大陸横断鉄道
1871年

フランスとプロイセン王国の間で「フランクフルト講和条約」調印。普仏戦争が終結。

1871年5月10日、普仏戦争を終結させるフランクフルト講和条約が調印されました。
普仏戦争(1870–1871年)の講和交渉として、フランスとプロイセン王国を中心とするドイツ諸邦がフランクフルトで条約を締結しました。フランスは巨額の賠償金支払いとアルザス・ロレーヌ地方の割譲を余儀なくされました。条約成立によりプロイセン王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国の成立が正式に宣言されました。この講和はヨーロッパの勢力地図を書き換え、フランスとドイツの長期的な敵対関係を生む契機となりました。また、この条約は第一次世界大戦へと至る複雑な外交関係の一端としても位置づけられています。
1871年 フランス プロイセン王国 フランクフルト講和条約 普仏戦争