1450年

ティムール朝君主アブドゥッラティーフが暗殺される。

1450年5月9日、ティムール朝の君主アブドゥッラティーフが暗殺され、後継争いが激化しました。
ティムール朝は14世紀から中央アジアを中心に広大な領域を支配した帝国です。 アブドゥッラティーフはその中で君主として即位しましたが、1450年5月9日に暗殺されました。 暗殺の背景には王族や貴族間の権力闘争があり、その死は帝国の政治的安定を大きく揺るがしました。 この事件によって後継者争いが深刻化し、領土の分裂や勢力の後退を招いたとされています。 帝国の運命を左右した重要な転換点の一つです。
1450年 ティムール朝 アブドゥッラティーフ
寛保2年4月6日

江戸幕府の成文法「公事方御定書」が完成。

江戸幕府が裁判や訴訟の基準を定める成文法『公事方御定書』を完成させました。
1742年5月9日、徳川吉宗の改革の一環として『公事方御定書』が完成しました。 この法令は裁判手続きや訴訟の運用基準を明文化し、幕府の司法権を整備する目的で作成されました。 全国の奉行所に適用され、裁判の公平性と統一性を高める役割を果たしました。 その後も長期間にわたり基礎法典として利用され、幕藩体制の維持に寄与しました。 日本の法制史において重要な位置を占める成文法です。
1742年 寛保 4月6日 江戸幕府 公事方御定書
1877年

ルーマニアがオスマン帝国からの独立を宣言。

ルーマニア公国がオスマン帝国からの独立を公式に宣言しました。
1877年5月9日、ルーマニア公国内閣がオスマン帝国からの独立を正式に宣言しました。 この宣言はロシア・トルコ戦争(露土戦争)の最中に行われ、国際的にも注目を集めました。 独立宣言により、ルーマニアは主権国家としての地位を確立し、後の近代国家建設の基礎を築きました。 翌1878年のベルリン会議で他の列強からも独立が承認される流れとなりました。 東ヨーロッパにおけるナショナリズムの高まりを象徴する出来事です。
1877年 ルーマニア オスマン帝国
1883年

日本の県として富山県、佐賀県、宮崎県が再置される。

富山県、佐賀県、宮崎県が再度都道府県として設置されました。
1883年5月9日、明治政府の行政区画再編により富山県、佐賀県、宮崎県が再置されました。 これは1871年の廃藩置県以来の県域整備の一環で、地方行政の効率化を目的としていました。 各県は従来の藩の管轄地域を基に設置され、地方の自治体制が整備されていきました。 これにより近代的な地方行政制度が確立し、中央集権体制の強化が図られました。 現在の県域の原型となった重要な転換点です。
1883年 富山県 佐賀県 宮崎県
1901年

オーストラリア・メルボルンで初の国会(オーストラリア連邦議会)が開かれる。

オーストラリア連邦の最初の議会がメルボルンで招集されました。
1901年5月9日、オーストラリア連邦成立後初めての議会がメルボルンの王立展示館で開かれました。 エドワード7世の代理としてゴーフィン卿が開会の辞を述べ、6つの州から選出された議員が出席しました。 この議会は憲法に基づく立法権を発揮し、全国統一の法整備を進める役割を担いました。 首都キャンベラ移転前の暫定首都としてメルボルンが中心的な政治拠点となりました。 オーストラリアの民主主義と連邦制度の起点です。
1901年 オーストラリア メルボルン オーストラリア連邦議会
1915年

中華民国の袁世凱政権が日本の対華21カ条要求を受諾する。

袁世凱政権が日本の『対華21か条要求』を受け入れ、国際的批判を浴びました。
1915年5月9日、中華民国臨時大総統の袁世凱は日本からの21か条要求を受諾しました。 この要求は関東州と南満州鉄道権益の永続化など、中国主権を大きく侵害する内容でした。 国内外から強い反発が起こり、中国のナショナリズムが高揚するきっかけとなりました。 結果として袁世凱政権の権威は低下し、その後の北洋政府の混乱を助長しました。 中国現代史における外交的屈辱の象徴です。
1915年 中華民国 袁世凱 対華21カ条要求
1936年

第二次エチオピア戦争: イタリアが東アフリカの3つの植民地をあわせてイタリア領東アフリカを樹立し、その皇帝にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が就任。

1936年、イタリアがエチオピアを征服し、3つの東アフリカ植民地を統合してイタリア領東アフリカを樹立。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がその皇帝に就任。
第二次エチオピア戦争でイタリア軍は1935年からの侵攻を経て、1936年5月9日に3つの占領地域(エリトリア、ソマリランド、アビシニアの一部)を統合し、イタリア領東アフリカを成立させた。 この新植民地の最高位にはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が皇帝として君臨した。 イタリアはファシスト体制の下、植民地経営を強化し、現地住民に対する厳しい支配を行った。 国際連盟はこの侵略を非難したが、実効的な制裁を欠いたためイタリアの行動を抑えられなかった。 この出来事はアフリカにおける帝国主義の象徴となり、後の第二次世界大戦にも影響を与えた。
1936年 第二次エチオピア戦争 イタリア イタリア領東アフリカ ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
1946年

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の退位によりウンベルト2世がイタリア王に即位。

1946年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が退位し、息子のウンベルト2世がイタリア王に即位した。
第二次世界大戦後の混乱期、連合国との協力に批判のあったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は1946年5月9日に退位を表明した。 これにより、最後のイタリア王ウンベルト2世が王位を継承し、短期間ながらイタリア王国の象徴として君臨した。 ウンベルト2世の在位期間はわずか1か月余りで、同年6月にイタリア共和国への移行を決定する国民投票が実施された。 王制の廃止はイタリアの政治体制に大きな転換をもたらし、現代イタリアの共和制成立につながった。 この出来事は戦後ヨーロッパの王政と民主主義の相克を象徴する歴史的転換点とされる。
1946年 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 ウンベルト2世 イタリア王
1949年

モナコ大公ルイ2世が死去。孫のレーニエ3世が即位。

1949年5月9日、モナコ大公ルイ2世が逝去し、孫のレーニエ3世が新たに即位しました。
ルイ2世は1910年にモナコ大公位を継承し、公国の安定と発展に努めました。1949年5月9日に在位39年で逝去し、孫のレーニエ3世が26歳で即位しました。レーニエ3世は在位期間中、公国の経済多角化や観光振興を推進しました。1956年にはハリウッド女優グレース・ケリーと結婚し、国際的な注目を集めました。在位56年の長期政権を通じて、モナコは豊かで安定した小国家としての地位を確立しました。
1949年 モナコ ルイ2世 レーニエ3世
1950年

フランス外相ロベール・シューマンが、フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼産業の共同管理を提唱。(シューマン宣言)

1950年5月9日、シューマン外相がフランスと西ドイツの石炭・鉄鋼産業共同管理を提唱しました。(シューマン宣言)
1950年5月9日にフランス外相ロベール・シューマンが発表したシューマン宣言は、戦後のヨーロッパ復興と和平を目的とし、フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼産業を共同管理する構想を示しました。その1年後に設立された欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)は、欧州統合の最初の機関として機能し、今日のEUの礎を築きました。宣言は仏独間の長年の対立を和解に導き、冷戦期の西ヨーロッパ安全保障を促進しました。ECSCの成功はその後の欧州経済連合構想にも影響を与えました。現在5月9日は「ヨーロッパデー」としてEU加盟国で祝われています。
1950年 ロベール・シューマン シューマン宣言
1955年

西ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に加盟。

1955年5月9日、西ドイツがNATOに加盟し、国際安全保障体制への参加を果たしました。
1955年5月9日、西ドイツは北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、主権国家として国際安全保障体制に組み込まれました。これにより西ドイツは1954年のパリ条約発効を経て正式に再軍備を行い、連邦軍(ブンデスヴェーア)を創設しました。冷戦下の東西対立において、西ヨーロッパの防衛ライン強化に寄与しました。NATO加盟はまた、欧州諸国との政治的・軍事的結束を深化させる契機となりました。同時にドイツ国内の主権回復にもつながりました。
1955年 西ドイツ 北大西洋条約機構
1956年

日本とフィリピンとの間で第二次世界大戦の戦争賠償協定を締結。20年間で5億5000万ドル(日本の戦争賠償と戦後補償参照)。

1956年5月9日、日本とフィリピンが第二次大戦の戦争賠償協定を締結し、20年で5億5000万ドルを支払うことを決定しました。
1956年5月9日、日本とフィリピンの間で第二次世界大戦に関する戦争賠償協定が締結されました。日本は20年間で総額5億5000万ドルを賠償金として支払うことを約束しました。賠償金はフィリピン国内のインフラ整備や農業振興など復興事業に活用されました。協定は両国関係の正常化とアジア地域の安定に寄与し、安全保障外交の一環とも位置づけられました。現在まで両国は経済・文化面での連携を深めています。
フィリピン 戦争賠償 日本の戦争賠償と戦後補償