1450年

ティムール朝君主アブドゥッラティーフが暗殺される。

1450年5月9日、ティムール朝の君主アブドゥッラティーフが暗殺され、後継争いが激化しました。
ティムール朝は14世紀から中央アジアを中心に広大な領域を支配した帝国です。 アブドゥッラティーフはその中で君主として即位しましたが、1450年5月9日に暗殺されました。 暗殺の背景には王族や貴族間の権力闘争があり、その死は帝国の政治的安定を大きく揺るがしました。 この事件によって後継者争いが深刻化し、領土の分裂や勢力の後退を招いたとされています。 帝国の運命を左右した重要な転換点の一つです。
1450年 ティムール朝 アブドゥッラティーフ
寛保2年4月6日

江戸幕府の成文法「公事方御定書」が完成。

江戸幕府が裁判や訴訟の基準を定める成文法『公事方御定書』を完成させました。
1742年5月9日、徳川吉宗の改革の一環として『公事方御定書』が完成しました。 この法令は裁判手続きや訴訟の運用基準を明文化し、幕府の司法権を整備する目的で作成されました。 全国の奉行所に適用され、裁判の公平性と統一性を高める役割を果たしました。 その後も長期間にわたり基礎法典として利用され、幕藩体制の維持に寄与しました。 日本の法制史において重要な位置を占める成文法です。
1742年 寛保 4月6日 江戸幕府 公事方御定書
1846年

米墨戦争: レサカ・デ・ラ・パルマの戦い。

米墨戦争の初期戦闘の一つ、レサカ・デ・ラ・パルマの戦いが行われました。
1846年5月9日、米墨戦争中のレサカ・デ・ラ・パルマの戦いが勃発しました。 アメリカ軍のザカリー・テイラー将軍率いる部隊がメキシコ軍を攻撃し、激戦の末に勝利しました。 この勝利はアメリカ軍にとって戦況を大いに有利に進める契機となり、西部進出の動きを後押ししました。 一方、メキシコ側は大きな損失を被り、士気の低下を招きました。 米墨戦争全体の転換点とも評される重要な戦闘です。
1846年 米墨戦争 レサカ・デ・ラ・パルマの戦い
1876年

上野公園の開園式。日本初の公園に指定。

日本初の公園として上野公園の開園式が行われました。
1876年5月9日、東京・上野に日本初の公園として認定された上野公園の開園式が開催されました。 開園式には政府関係者や文化人が参加し、西洋式公園のモデルとして整備されました。 桜並木や散策路、動物園の前身となる施設が設置され、市民の憩いの場として親しまれました。 それまで寺社の境内に限られていた公園文化が広がるきっかけとなりました。 現在も多くの観光客が訪れる東京の名所です。
1876年 上野公園 公園
1877年

ルーマニアがオスマン帝国からの独立を宣言。

ルーマニア公国がオスマン帝国からの独立を公式に宣言しました。
1877年5月9日、ルーマニア公国内閣がオスマン帝国からの独立を正式に宣言しました。 この宣言はロシア・トルコ戦争(露土戦争)の最中に行われ、国際的にも注目を集めました。 独立宣言により、ルーマニアは主権国家としての地位を確立し、後の近代国家建設の基礎を築きました。 翌1878年のベルリン会議で他の列強からも独立が承認される流れとなりました。 東ヨーロッパにおけるナショナリズムの高まりを象徴する出来事です。
1877年 ルーマニア オスマン帝国
1883年

日本の県として富山県、佐賀県、宮崎県が再置される。

富山県、佐賀県、宮崎県が再度都道府県として設置されました。
1883年5月9日、明治政府の行政区画再編により富山県、佐賀県、宮崎県が再置されました。 これは1871年の廃藩置県以来の県域整備の一環で、地方行政の効率化を目的としていました。 各県は従来の藩の管轄地域を基に設置され、地方の自治体制が整備されていきました。 これにより近代的な地方行政制度が確立し、中央集権体制の強化が図られました。 現在の県域の原型となった重要な転換点です。
1883年 富山県 佐賀県 宮崎県
1901年

オーストラリア・メルボルンで初の国会(オーストラリア連邦議会)が開かれる。

オーストラリア連邦の最初の議会がメルボルンで招集されました。
1901年5月9日、オーストラリア連邦成立後初めての議会がメルボルンの王立展示館で開かれました。 エドワード7世の代理としてゴーフィン卿が開会の辞を述べ、6つの州から選出された議員が出席しました。 この議会は憲法に基づく立法権を発揮し、全国統一の法整備を進める役割を担いました。 首都キャンベラ移転前の暫定首都としてメルボルンが中心的な政治拠点となりました。 オーストラリアの民主主義と連邦制度の起点です。
1901年 オーストラリア メルボルン オーストラリア連邦議会
1911年

清が幹線鉄道国有化令を発布する。

清朝政府が幹線鉄道の国有化を宣言し、鉄道保護運動が始まりました。
1911年5月9日、清朝は国内の主要幹線鉄道を国有化する法令を公布しました。 国有化の目的は財政難の解消と鉄道建設費用の確保でしたが、各地の資本家や地主の反発を招きました。 これを契機に四川、湖南などで鉄道保護運動が発生し、最終的に1911年の辛亥革命へとつながりました。 鉄道国有化問題は清朝の統治能力の限界を露呈し、革命の火種となった重要事象です。 中国近代史における転機とされます。
1911年
1915年

中華民国の袁世凱政権が日本の対華21カ条要求を受諾する。

袁世凱政権が日本の『対華21か条要求』を受け入れ、国際的批判を浴びました。
1915年5月9日、中華民国臨時大総統の袁世凱は日本からの21か条要求を受諾しました。 この要求は関東州と南満州鉄道権益の永続化など、中国主権を大きく侵害する内容でした。 国内外から強い反発が起こり、中国のナショナリズムが高揚するきっかけとなりました。 結果として袁世凱政権の権威は低下し、その後の北洋政府の混乱を助長しました。 中国現代史における外交的屈辱の象徴です。
1915年 中華民国 袁世凱 対華21カ条要求
1923年

文部省臨時国語調査会が常用漢字表を発表。

文部省が初の常用漢字表を制定し、教育現場での漢字使用基準を示しました。
1923年5月9日、文部省臨時国語調査会は正式に『常用漢字表』を発表しました。 表には1,962字の漢字が選定され、教育や公文書での統一基準として示されました。 これにより学校教育で教える漢字の範囲が明確化され、書籍・新聞などの出版にも影響を与えました。 戦後の改定を経て現代まで続く漢字政策の礎を築いた出来事です。 日本語教育と文化の標準化に大きな役割を果たしました。
1923年 文部省 常用漢字
1926年

リチャード・バードが航空機により初めて北極点上空に到達。

1926年、リチャード・バードが航空機を使用して初めて北極点上空に到達した歴史的な飛行偉業。 探検と航空技術の進歩を象徴する出来事。
1926年5月9日、アメリカの海軍軍人・探検家リチャード・E・バードは航空機を用いて北極点上空への飛行を敢行し、世界で初めて北極点を上空から通過したと報告した。 この飛行には厳しい寒冷やホワイトアウトの危険が伴ったが、バード達は高度な気象観測と航法技術を駆使して成功を収めた。 彼の北極飛行は新聞やラジオで世界中を駆け巡り、航空探検の可能性を示した。 この偉業は後の北極探査のみならず、極地における航空ルート開発の礎となった。 バードはこの功績で国際的な名声を得、探検家としての地位を確立した。
1926年 リチャード・バード 北極点
1926年

東京・銀座の松屋デパートで日本初の高層ビルからの飛び降り自殺。

1926年、銀座の松屋デパート高層ビルから飛び降り自殺が発生。日本初のビル飛び降り自殺として社会に衝撃を与えた。
1926年5月9日、東京・銀座の松屋デパートで、日本初とされる高層ビルからの飛び降り自殺事件が発覚した。 当時、近代的な高層建築物が少なかった日本での出来事は大きな関心を集めた。 被害者の身元や動機は当時詳報されず、新聞はセンセーショナルに報じた。 この事件は都市部における自殺問題や社会的不安の象徴として議論を呼んだ。 以後、高層ビルの安全対策や悲劇防止策の必要性が指摘されるようになった。
東京 銀座 松屋デパート 日本 飛び降り自殺