1429年
オルレアン包囲戦: ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍が、イギリス軍を撃破し、オルレアンを解放。
ジャンヌ・ダルクの指揮でオルレアン包囲戦に勝利し、都市を解放した。
百年戦争中の1429年、ジャンヌ・ダルクはオルレアン包囲戦で英雄的な活躍を見せました。
フランス軍はイギリス軍の包囲を打破し、市民と連携して防衛線を突破しました。
この勝利によりフランス軍の士気は大いに高まり、宗教的熱狂が支持を得ました。
ジャンヌは「オルレアンの乙女」と称され、後にフランス王太子シャルル7世の戴冠に道を開きます。
歴史的転換点となったこの戦いは、百年戦争の流れを変える重要な勝利として知られています。
1429年
オルレアン包囲戦
ジャンヌ・ダルク
オルレアン
1846年
米墨戦争: パロ・アルトの戦い。
パロ・アルトの戦いでアメリカ軍が勝利し、侵攻路を確保した。
1846年、米墨戦争の初期段階でパロ・アルトの戦いが行われました。
アメリカ陸軍はゼカリア・テイラー将軍の指揮下で最新の火砲戦術を駆使しました。
メキシコ軍は守備に努めたものの、射程の長いアメリカ砲兵の前に敗北しました。
この勝利によりアメリカ軍はテキサスから北メキシコへの侵攻路を確保しました。
戦いは米墨戦争の流れを決定づけ、後のメキシコシティ占領へとつながりました。
1846年
米墨戦争
パロ・アルトの戦い
1861年
南北戦争: リッチモンドがアメリカ連合国(南軍)の首都となる。
南北戦争中の1861年、アメリカ連合国(南軍)は首都をバージニア州リッチモンドに定め、戦略上の重要拠点としました。
南北戦争は1861年から1865年まで続きました。5月8日、南部連合は首都をリッチモンドに移しました。リッチモンドは産業と交通の要衝であり、南軍の政治・軍事の中枢となりました。対して連邦政府はワシントンD.C.を拠点としました。リッチモンドの選定は南部諸州の結束を象徴するものでした。戦争終結まで首都の役割を果たし続け、最終的に北軍による包囲戦の標的となりました。
1861年
南北戦争
リッチモンド
アメリカ連合国
1942年
第二次世界大戦・珊瑚海海戦: ポートモレスビーを攻略しようとした日本海軍と連合国海軍の間で史上初の航空母艦同士の海戦が発生、日本側は連合国空母1隻撃沈、1隻大破の戦果を得るが上陸作戦中止。(海戦は戦術的勝利)
1942年、史上初の航空母艦同士の海戦となる珊瑚海海戦が行われました。
1942年5月8日、第二次世界大戦中に日本海軍と連合国海軍が珊瑚海で衝突しました。従来の艦砲戦とは異なり、航空母艦から発進した艦載機同士が戦闘を行う初の海戦でした。日本側は連合国の空母1隻を撃沈、1隻を大破する成果を上げましたが、目標のポートモレスビー上陸作戦は中止を余儀なくされました。戦術的には日本軍の勝利とされる一方、戦略的には前進作戦が頓挫し、太平洋戦線の局面を転換させる契機となりました。この海戦は航空母艦の重要性を世界に示し、以降の海戦の戦法に大きな影響を与えました。
1942年
第二次世界大戦
珊瑚海海戦
ポートモレスビー
日本海軍
連合国
1942年
第二次世界大戦: 民間人1,300人以上が乗った客船大洋丸が米潜水艦の雷撃により沈没。
1942年、民間人を乗せた客船大洋丸が米潜水艦の攻撃で沈没し、多数の犠牲者が出ました。
1942年5月8日、第二次世界大戦中に日本の客船大洋丸が約1,300人以上の民間人乗客を乗せ航行中、米潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。大洋丸は海外在留邦人の送還や物資輸送を担っていた民間船でした。沈没によって多数の婦女子や高齢者を含む多くの民間人が津波のように広がる混乱の中で犠牲となりました。戦時下の海上交通の危険性を浮き彫りにし、後方の疎開・避難活動に深い衝撃を与えました。日本国内でも戦時輸送船の防護強化が課題となり、護衛戦隊の編成が急務とされました。
第二次世界大戦
大洋丸
1944年
アメリカ海軍の航空母艦「タイコンデロガ」が就役。
1944年5月8日、エセックス級航空母艦タイコンデロガが就役し、第二次世界大戦の太平洋戦域で活躍しました。
USSタイコンデロガ(CV-14)はエセックス級航空母艦の一隻として建造されました。
1944年5月8日にワシントン州ブレマートンで正式に就役し、太平洋戦域へ投入されました。
マーシャル諸島やマリアナ沖海戦、硫黄島、沖縄などの主要作戦に参加し、計7つの戦功星を獲得しました。
戦後は予備役に編入された後も練習空母や展示艦として利用され、1973年に退役しました。
その後予備艦隊に登録されましたが、最終的に解体され歴史を刻みました。
1944年
タイコンデロガ
1945年
第二次世界大戦: 前日のドイツの降伏文書調印を受け、ヨーロッパの西部戦線で停戦。(VEデイ、ヨーロッパ戦勝記念日)
1945年5月8日、西部戦線でドイツ軍の停戦が発効し、VEデイとして記念されました。
1945年5月7日、フランスのランスでドイツ側が無条件降伏文書に調印しました。
調印は現地時間5月7日夕刻に行われ、発効は翌8日23時01分(中央ヨーロッパ夏時間)に設定されました。
これにより西部戦線での実質的な戦闘行為が停止し、連合国側はVEデイ(ヨーロッパ戦勝記念日)を祝いました。
この日付はアメリカやイギリスで特に重要視され、各地で祝賀行事が催されました。
戦後ヨーロッパ復興の第一歩となった歴史的瞬間です。
1945年
ドイツの降伏文書
英語版
西部戦線
ヨーロッパ戦勝記念日
1945年
第二次世界大戦: ベルリン郊外のカルルスホルストにてソ連のゲオルギー・ジューコフ将軍とドイツのヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印し、独ソ戦が終結。(ソ連による戦勝記念日は翌5月9日)
ベルリン郊外カルルスホルストで1945年5月8日、独ソ戦の終結を宣言する降伏文書が調印されました。
ソ連元帥ゲオルギー・ジューコフとドイツ元帥ヴィルヘルム・カイテルがベルリン郊外のカルルスホルストで降伏文書に調印しました。
この調印により東部戦線での戦闘が正式に終了し、独ソ間の武力衝突は幕を閉じました。
ただしソ連側は時差の関係で翌5月9日を戦勝記念日と定め、現在も『戦勝記念日』として祝われています。
西部戦線の停戦(VEデイ)からわずか数時間後に実施された調印であり、ヨーロッパ全域の戦争終結を象徴しました。
東西両勢力の調停過程やその後の冷戦構造形成にも影響を与えた重要な出来事です。
ベルリン
ゲオルギー・ジューコフ
ヴィルヘルム・カイテル
独ソ戦
5月9日