文禄元年3月26日

文禄の役: 豊臣秀吉が朝鮮出兵の指揮をとるため京都から肥前名護屋へ向け出発。

豊臣秀吉が朝鮮半島への出兵準備のため京都から肥前名護屋へ出発した出来事。
1592年3月26日(文禄元年3月26日/新暦5月7日)、豊臣秀吉が朝鮮出兵の総司令官として京都を出発し、肥前名護屋城へ向かいました。 この出兵は“文禄の役”と呼ばれる朝鮮侵攻の先駆けで、日本の大名たちから数万の軍勢を集結させた大規模な軍事行動でした。 秀吉は名護屋に前線基地を築き、補給路整備や戦略会議を行う拠点としました。 彼の朝鮮出兵は東アジアの国際秩序を揺るがし、後の日朝交渉や朝鮮半島情勢に深刻な影響を及ぼしました。 また、この遠征は日本国内でも重税や兵役動員を招き、社会的な負担が増大しました。
1592年 文禄 3月26日 文禄の役 豊臣秀吉
1763年

インディアン戦争: ポンティアック戦争が始まる。

北アメリカで先住民指導者ポンティアックの率いる反乱が発生したインディアン戦争の開始。
1763年5月7日、五大湖周辺のオジブワ族指導者ポンティアックが率いる先住民連合が、イギリス軍に対する反乱を正式に開始しました。 この“ポンティアック戦争”は、フレンチ・インディアン戦争後の英国の植民地政策に不満を持つ諸部族が結束した大規模な抵抗運動です。 ポンティアックはあらゆる手段を用いて要塞都市デトロイトを包囲し、イギリス軍を長期にわたり苦しめました。 反乱の激化を受け、イギリス政府は1763年10月に植民地境界を定めた“宣言書”を発布し、開拓者の進出を一時的に制限しました。 この戦争は北アメリカ大陸における先住民と欧州系入植者の関係や植民地行政のあり方に大きな転換点をもたらしました。
1763年 インディアン戦争 ポンティアック戦争
1915年

第一次世界大戦: ルシタニア号事件。乗客1198人が死去。その内、米国人が139人。

第一次世界大戦中、英国客船ルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され、多数の犠牲者が出た。
1915年5月7日、第一次世界大戦下、大西洋を航行中の英国客船ルシタニア号がドイツ潜水艦U-20の魚雷攻撃を受けて沈没しました。 この攻撃により乗客乗員1198人が死亡し、うち米国人は139人を数えました。 ルシタニア号の撃沈は中立国市民の死傷という点で国際的非難を浴び、世論を揺るがしました。 アメリカ国内では対独感情が一気に高まり、最終的に同国の参戦に向けた世論形成に大きな影響を与えました。 また、民間船舶の安全保障や海上戦術の在り方を問い直す契機ともなりました。
1915年 第一次世界大戦 ルシタニア号事件
1942年

第二次世界大戦 珊瑚海海戦: 翌5月8日にかけ、日米両海軍の間で史上初めて航空母艦部隊同士が戦う海戦が行われる。

1942年5月7日から8日にかけて、史上初の航空母艦同士による大規模海戦、珊瑚海海戦が行われた。
珊瑚海海戦は第二次世界大戦太平洋戦線における重要な転換点の一つである。 日本艦隊とアメリカ艦隊の航空母艦部隊が互いに直接対峙し、史上初の航空戦中心の海戦として知られる。 戦闘はオーストラリア北東沖の珊瑚海で行われ、両軍は艦載機を用いて攻撃を展開。 物理的に艦同士が姿を確認することはなく、すべて空中からの攻撃で戦われた。 結果的に日本軍は戦術的には成功したものの、戦略的にはポートモレスビー上陸作戦を断念するなど影響を受けた。
1942年 第二次世界大戦 珊瑚海海戦 5月8日 航空母艦
1945年

第二次世界大戦ドイツの降伏文書: フランスのランスで連合国軍司令長官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍とドイツ国防軍作戦部長アルフレート・ヨードル将軍が降伏文書に調印。ドイツが無条件降伏。

1945年5月7日、フランス・ランスでアイゼンハワー将軍とヨードル将軍がドイツ降伏文書に調印し、欧州での戦闘が終結した。
ドワイト・D・アイゼンハワーは連合国軍最高司令官として、アルフレート・ヨードルがドイツ国防軍作戦部長として両者が署名。 調印はフランス北部ランスの連合国司令部で行われ、無条件降伏の意思を明確化した。 この文書は即時停止を求めるもので、翌5月8日には正式に戦闘が停止しVE(ヴィクトリー・イン・ヨーロッパ)デーとなった。 降伏調印によりナチス・ドイツの戦争行為は終焉を迎え、多くの捕虜が解放されるなどヨーロッパ復興の第一歩となった。 戦後の国際秩序再編や冷戦構造の形成にも大きな影響を与えた歴史的瞬間であった。
1945年 ドイツの降伏文書 英語版 フランス ランス 連合国 ドワイト・D・アイゼンハワー ドイツ アルフレート・ヨードル
1954年

第一次インドシナ戦争: ディエンビエンフーの戦い終結。

1954年5月7日、第一次インドシナ戦争の最大規模の戦闘の一つ、ディエンビエンフーの戦いが終結した。
ディエンビエンフーの戦いはベトナム北西部で行われ、フランス軍は要塞化した陣地で持久戦を挑んだ。 ホー・チ・ミン率いるベトミン軍は山岳地帯を活かした包囲作戦でフランス軍を圧倒。 約2カ月に及ぶ激戦の末、1954年5月7日にフランス軍は降伏し、軍事的敗北を喫した。 この敗北がジュネーヴ協定につながり、インドシナ地域の分割と冷戦体制下の勢力均衡に影響。 フランス植民地支配終焉の象徴的事件として、後のベトナム戦争への伏線ともなった。
1954年 第一次インドシナ戦争 ディエンビエンフーの戦い
1999年

コソボ紛争・アライド・フォース作戦: NATO軍がユーゴスラビアの中華人民共和国大使館を誤爆。

NATO軍がコソボ紛争中に誤って中国大使館を爆撃した。
1999年5月7日、コソボ紛争中のNATO軍空爆「アライド・フォース作戦」において、誤ってユーゴスラビアの首都ベオグラードにある中国大使館が爆撃された。 この事件で3名の中国人記者を含む多数の民間人が死亡し、中国国内で大規模な抗議行動が発生した。 NATOは地図情報の誤りを理由に公式に謝罪したが、両国間の緊張は一時的に高まった。 国際法や戦時下の民間人保護の在り方が問われる事態となり、後の軍事作戦ルール見直しに影響を与えた。 この爆撃事件は冷戦後の国際政治における調査責任と法的制約の象徴的事例とされている。
1999年 コソボ紛争 アライド・フォース作戦 中華人民共和国
1999年

ギニアビサウ内戦: ギニア・ビサウ大統領ジョアン・ヴィエイラが退陣し、ポルトガル大使館へ避難。

ギニアビサウ内戦で大統領が退陣し大使館へ避難した。
1999年5月7日、ギニアビサウ内戦の混乱の中で、当時の大統領ジョアン・ヴィエイラが退陣しポルトガル大使館へ退避した。 内戦は1998年に軍事クーデターが発端となり、政府軍と反乱勢力が衝突していた。 退陣と避難は内部対立の決定的な転機となり、国際社会による和平交渉の加速を招いた。 ヴィエイラ氏は避難後に亡命生活を送ることとなり、その後の政権交代と選挙へとつながった。 この出来事は西アフリカ地域の政治不安定化と国際的な介入の在り方を象徴する。
ギニアビサウ内戦 英語版 ギニア・ビサウ ジョアン・ヴィエイラ