1274年
第2リヨン公会議が開会。
クレメンス5世が主導し、第2リヨン公会議が開会した宗教会議。東西教会の和解や十字軍再興が議論された。
1274年5月7日、教皇クレメンス5世がフランスのリヨンで第2リヨン公会議を開会しました。
この会議には東西教会の代表が参加し、1054年の東西分裂を解消するための和解交渉が始まりました。
和解案は一時的に合意に至りましたが、その後の政治的対立で実現には至りませんでした。
加えて、教皇は新たな十字軍遠征計画を提示し、イェルサレム奪回の必要性が強調されました。
会議は教会の権威を再確認すると同時に、中世ヨーロッパの宗教・政治に大きな影響を与えました。
1274年
第2リヨン公会議
1875年
樺太・千島交換条約締結。
日露間で樺太・千島交換条約が締結され、両地域の領有権が初めて確定した。
1875年5月7日、日本とロシア帝国は樺太・千島交換条約に調印し、国境線の確定を図りました。
条約により、樺太全島をロシア領とし、千島列島全域を日本領とすることが初めて正式に定められました。
この取り決めは、両国の北方領土問題の起点となる一方で、アイヌ民族など先住民の生活圏に大きな影響を与えました。
明治政府は条約を通じて国際的地位を高め、ロシアとの外交関係を安定させる狙いがありました。
しかし、20世紀以降も北方領土をめぐる論争は継続し、現在に至るまで国際問題として残存しています。
1875年
樺太・千島交換条約
1875年
新治県が茨城県と千葉県に分割・編入され、茨城県・千葉県が現在の形になる。
新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割・編入され、現在の県境が成立した。
1875年5月7日、廃藩置県後に設置されていた新治県が廃止され、その管轄地域が茨城県と千葉県に分割・編入されました。
これにより、両県の現在の行政区画が確定し、近代的な地方自治体の基礎が整備されました。
新治県は廃止前、現在の茨城南部と千葉北部を含む地域を管轄していましたが、短期間で消滅しました。
明治政府による地方統制の合理化政策の一環として実施され、全国的な県域再編の典型例となりました。
現在でも、この歴史的経緯は茨城・千葉両県の歴史として語り継がれています。
新治県
茨城県
千葉県
1932年
フランス大統領ポール・ドゥメールが暗殺される。
1932年5月7日、フランス大統領ポール・ドゥメールが暗殺され、ヨーロッパを震撼させた事件。
ポール・ドゥメールはフランス第三共和政の大統領として保守的政策を推進していた。
1932年5月6日、パリの書籍見本市でロシア系移民のパヴェル・ゴルグロフに射殺され、翌日死亡が確認された。
彼の暗殺は政治的不安を招き、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。
政府は国家緊急宣言を発令し、治安維持とテロ対策の強化を図った。
事件後、フランス国内では政治的過激主義への警戒が一層高まった。
1932年
ポール・ドゥメール
1936年
斎藤隆夫が帝国議会で粛軍演説。
1936年5月7日、陸軍大尉斎藤隆夫が帝国議会で粛軍演説を行い、軍部の政治介入を公然と主張した。
粛軍演説は軍部の政治力強化を目的とした主張で、当時の政党政治に大きな波紋を呼んだ。
斎藤隆夫は天皇親政を掲げ、政党政治の無力さを批判し軍の主導権を強調。
この演説は政党内外で批判と支持を同時に招き、政治と軍の対立構造を浮き彫りにした。
後の政治情勢に影響を与え、軍部の台頭と1936年2・26事件にもつながる要因の一つとされる。
日本の議会政治における軍部介入の象徴的事件として歴史に刻まれている。
1936年
斎藤隆夫
粛軍演説
1955年
最高裁が帝銀事件の平沢貞通被告の死刑判決に対する異議申立を棄却、死刑判決が確定。
1955年5月7日、最高裁が帝銀事件の平沢貞通被告の死刑判決に対する異議申立を棄却し、死刑判決が確定した。
帝銀事件は1948年に帝国銀行で発生した大規模な銀行強盗・毒物殺人事件。
被告の平沢貞通は一度死刑を宣告されたが、その後異議申立を行い審理が続いていた。
最高裁判所は原判決の法的妥当性を認め、1955年5月7日に異議申立を棄却。
これにより平沢被告の死刑判決が確定し、法廷闘争は最終段階を迎えた。
事件は証拠の信頼性や自白の任意性をめぐる論争を呼び、日本の刑事司法制度への疑問を投げかけた。
1955年
最高裁
帝銀事件
平沢貞通
死刑
異議申立
1974年
ヴィリー・ブラント西ドイツ首相が、東ドイツのスパイギュンター・ギヨームが連邦首相府の秘書となっていたギヨーム事件の責任をとり辞任。
西ドイツのブラント首相がスパイ事件の責任を負い、突如辞任した政治ショック。
1974年5月7日、ヴィリー・ブラント西ドイツ首相は、東ドイツのスパイ、ギュンター・ギヨームが連邦首相府の秘書に潜入していた「ギヨーム事件」の責任を取り突然辞任した。
当時、ブラント首相は東西ドイツ融和政策(東方外交)を推進しており、その要となる人物がスパイであったことは国内外に大きな衝撃を与えた。
事件発覚後、ブラントは首相府内への情報漏えいを防げなかった責任を認め、自ら政界から身を引く決断をした。
この辞任は西ドイツの政治に大きな空白を生み出し、後継者選びや冷戦下のドイツ再統一問題にも影響を及ぼした。
ギュンター・ギヨームは後に有罪判決を受け、東ドイツ軍情報部との関係が明らかになった。
1974年
ヴィリー・ブラント
西ドイツ首相
ギュンター・ギヨーム
連邦首相府
ギヨーム事件
1999年
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がルーマニアを訪問。ローマ教皇が東方正教会の信者が多数を占める国を訪問するのは1054年の東西教会の分裂以来初。
ヨハネ・パウロ2世が東西教会分裂以来初めて東方正教国を訪問した。
1999年5月7日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がルーマニアを訪問し、東西教会の分裂(1054年)以来初めて東方正教会多数派の国を公式訪問した。
訪問先の首都ブカレストでは数万人が集まり、両教会の和解を祈る合同礼拝が行われた。
教皇は歴史的な分裂を乗り越えるための対話と理解の重要性を説き、儀式で正教会の聖職者とも共に行進した。
この訪問はカトリックと正教会の和解プロセスを大きく前進させ、エキュメニカル運動に弾みをつけた。
また、訪問を通じてルーマニア国内の宗教的寛容と団結が促進された。
ヨハネ・パウロ2世
ルーマニア
東方正教会
東西教会の分裂
2000年
ウラジーミル・プーチンがロシア大統領に就任。
ウラジーミル・プーチンがロシア連邦大統領に正式就任した。
2000年5月7日、ウラジーミル・プーチンが正式にロシア連邦の大統領に就任した。
プーチンは前年12月に大統領代行に就いており、この選挙で正式な任期を獲得した。
彼の就任は旧ソ連崩壊後の混乱期を経たロシア政治の安定化を期待させた。
大統領就任後はチェチェン紛争の再燃や経済改革、エネルギー政策の強化に着手した。
プーチン政権の始まりは、21世紀のロシアにおける中央集権化と国際政治への影響力拡大の序章となった。
2000年
ウラジーミル・プーチン
ロシア
2008年
ドミートリー・メドヴェージェフがロシア連邦大統領に就任。
2008年5月7日、ドミートリー・メドヴェージェフがロシア連邦大統領に就任しました。
ドミートリー・メドヴェージェフは2008年3月の大統領選で勝利し、5月7日に正式に大統領に就任しました。
前任のウラジーミール・プーチンから権限を引き継ぎ、現代化と改革を掲げる政策を打ち出しました。
メドヴェージェフ政権は法制度の近代化やインターネット普及促進などを重点課題としました。
同時に、プーチン元大統領が首相に就く異例の「プーチン・メドヴェージェフ体制」が注目を浴びました。
任期中は世界的な金融危機への対応や南オセチア紛争への関与など多くの課題に直面しました。
ロシア政治における権力分担の象徴的存在として記憶されています。
2008年
ドミートリー・メドヴェージェフ
ロシア連邦大統領
2012年
ウラジミール・プーチン大統領が、4年ぶりに大統領に就任。
2012年5月7日、ウラジミール・プーチンが4年ぶりにロシア大統領に就任しました。
ウラジミール・プーチンは2000年から2008年まで2期連続で大統領を務めた後、首相に就任していました。
2012年3月の大統領選挙で勝利し、5月7日にクレムリンで就任式を挙行しました。
この就任はプーチン体制の継続を示し、国内外から注目を集めました。
発表された新政権の重点課題には経済改革や社会福祉の拡充が含まれていました。
プーチン大統領の復帰はロシア政治の安定と対外政策に大きな影響を与えました。
2012年
ウラジミール・プーチン
2018年
ウラジーミル・プーチンが4期目となるロシア大統領に就任。
2018年5月7日、ウラジーミル・プーチンが4期目のロシア大統領に就任しました。
2018年3月の大統領選挙でプーチンは70%以上の支持を得て圧勝しました。
5月7日にクレムリンのセントジョージホールで就任式が開催されました。
4期目からは任期が6年に延長され、2024年まで政権を維持することになりました。
国内では権力集中への懸念が指摘され、海外からも民主主義後退への批判がありました。
エネルギー政策や軍事強化を中心とした政権運営は継続される見通しです。
2018年
ロシア