推古天皇12年4月3日

聖徳太子が十七条憲法を制定。

推古天皇12年4月3日に聖徳太子が十七条憲法を制定し、日本国家の基本理念を打ち立てた。
十七条憲法は604年(推古天皇12年)に公布された日本最古の成文法である。 仏教と儒教の教えを柱とし、天皇・国家への忠誠や官吏の心構えを示している。 第1条で和を尊ぶ精神を説き、国家安定の基礎とする理念が掲げられている。 その後の律令制度の形成に影響を与え、中央集権化を進める起点となった。 歴史資料としては古事記や日本書紀にもその記述が見られ、当時の政治思想を知る重要文書である。 現在も史学や法学の研究対象として高い評価を受けている。
604年 推古天皇 4月3日 聖徳太子 十七条憲法
1527年

ローマ略奪。

1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢がローマを襲撃し、多大な被害をもたらした。
1527年5月6日、スペイン・神聖ローマ帝国皇帝カール5世の軍勢がローマ市に侵攻した。 略奪軍は食糧確保の失敗から不満を抱え、破壊行為や民衆への暴行が相次いだ。 教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に籠城したが、食料不足により和平を余儀なくされた。 この事件はローマの文化遺産にも甚大な損害を与え、ルネサンスの終焉を象徴するとされる。 略奪後、教皇領は再建に着手するが、政治的影響は長期にわたりヨーロッパ勢力図を揺るがした。 後世では「ローマの悲劇」とも呼ばれ、近代戦争史の教訓として語り継がれている。
1527年 ローマ略奪
1542年

フランシスコ・ザビエルがポルトガル領インドの首府ゴアに到達。

1542年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがゴアに到達し、アジア布教の拠点を築いた。
1542年5月6日、ポルトガル船に乗ったフランシスコ・ザビエルがインド西海岸のゴアに上陸した。 ザビエルはこの地を布教基地と定め、アジア各地への宣教活動を展開する足がかりとした。 ゴアは当時ポルトガル東インド総督府の所在地となり、欧州勢力の交易拠点ともなった。 キリスト教布教に加え、ヨーロッパ文化や食物が持ち込まれることで地域社会にも変化が生じた。 ザビエルの活動は日本へのキリスト教伝播にも影響を与え、後の南蛮貿易と連動した。
1542年 フランシスコ・ザビエル ポルトガル領インド ゴア
1626年

オランダ西インド会社がマンハッタン島を買収しニューアムステルダムと命名。現在のニューヨーク。

1626年、オランダ西インド会社がインディアンからマンハッタン島を購入し、ニューアムステルダムと命名した。
1626年5月6日、オランダ西インド会社が先住民族のレナペ族からマンハッタン島を買収したと言われる。 取引額は公式記録では60ギルダーとも伝えられ、現在ではビーズや什器との交換ともされる。 島はニューアムステルダムと名付けられ、同社の北アメリカ貿易拠点として発展を始めた。 この地は後にイギリスの支配下でニューヨークと改称され、世界都市へと成長していく。 交易や移民の流入により多文化共生の基盤が築かれ、現代の国際都市としての原型が形成された。
1626年 オランダ西インド会社 マンハッタン島 ニューアムステルダム ニューヨーク
寛文11年3月27日

大老酒井忠清邸での審問において、仙台藩奉行原田宗輔が伊達宗重を斬殺。これに端を発し、原田宗輔、柴田朝意、蜂屋可広が死亡する伊達騒動が起こる。

寛文11年、仙台藩内で原田宗輔が伊達宗重を斬殺したことを発端に伊達騒動が勃発した。
1671年3月27日(寛文11年)、大老・酒井忠清邸での審問中、仙台藩奉行の原田宗輔が伊達宗重を斬殺した。 この事件は仙台藩内部の権力抗争に端を発し、原田や柴田朝意、蜂屋可広らも死亡する騒動となった。 幕府は事態を重く見て調査を行い、藩主伊達綱村の家臣団再編を命じた。 伊達騒動は藩内統制の弱さを露呈し、中央政府による地方自治管理強化の契機となった。 史料には詳細な記録が残り、江戸時代の藩政研究における重要な事例として扱われる。
1671年 寛文 3月27日 酒井忠清 原田宗輔 伊達宗重 柴田朝意 蜂屋可広 伊達騒動
1682年

ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に移り住む。

1682年、ルイ14世がフランス王宮をヴェルサイユへ移し、絶対王政の権威を示した。
1682年5月6日、太陽王ルイ14世は王宮をパリからヴェルサイユ宮殿へと正式に移転した。 ヴェルサイユ宮殿は豪華絢爛な建築と庭園で知られ、宮廷文化の中心地として発展した。 宮廷貴族は王に近い地で政務や社交を行うようになり、中央集権体制が強化された。 建築家ル・ヴォーや庭師ル・ノートルらの手による設計が、西欧宮廷文化に大きな影響を与えた。 この移住は絶対王政の象徴として後世に語り継がれ、ヨーロッパ中の宮殿建築にも模範となった。
1682年 ルイ14世 ヴェルサイユ宮殿
1757年

七年戦争: プラハの戦い。

1757年、七年戦争の一環としてプラハの戦いが行われた。
1757年5月6日、七年戦争でフリードリヒ2世率いるプロイセン軍とハプスブルク帝国軍がプラハ郊外で衝突した。 プロイセン軍は巧妙な戦術で防衛陣地を突破し、都市への道を切り開いた。 戦闘は激戦となり、多くの両軍兵士が戦死したが、プロイセン側の勝利に終わった。 プラハ占領によりプロイセンはオーストリア領の心臓部に進出し、戦局に大きな影響を与えた。 この後、冬季休戦や外交交渉が行われたものの、戦争はその後も数年続けられた。
1757年 七年戦争 プラハの戦い
1833年

カール・フリードリヒ・ガウスとヴィルヘルム・ヴェーバーがゲッティンゲンに電信機を設置。

1833年、ガウスとヴェーバーが世界初の実験的電信機をゲッティンゲンに設置した。
1833年5月6日、数学者カール・フリードリヒ・ガウスと物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーはゲッティンゲン大学に電信装置を設置した。 この装置は電流のオンオフを利用した簡易的な通信システムで、世界初の電気通信実験とされる。 ガウスとヴェーバーは40メートルのワイヤーを用い、信号伝達速度を測定する実験を行った。 研究成果は翌年の学会で発表され、後のモールス電信などの基礎理論となった。 この実験は電気工学と通信技術の発展に大きく寄与し、産業革命後の通信革命を先導した。
1833年 カール・フリードリヒ・ガウス ヴィルヘルム・ヴェーバー ゲッティンゲン 電信
1861年

南北戦争: アーカンソー州がアメリカ合衆国を脱退。

1861年、南北戦争勃発前にアーカンソー州が合衆国から脱退を宣言した。
1861年5月6日、アメリカ連合国(南部11州)が結成される前に、アーカンソー州議会が合衆国脱退を決議した。 南部諸州は主に奴隷制度維持を巡る対立から脱退を行い、北部との武力衝突へと発展した。 アーカンソー州は後に連合国側に加わり、戦場となる機会も多かった。 脱退宣言は南北戦争の拡大を示す重要な政治決定であり、戦争の長期化に拍車をかけた。 州民の間でも対立が深まり、戦後の再建期に向けた政治的混乱の種がまかれることとなった。
1861年 南北戦争 アーカンソー州 アメリカ合衆国
1887年

東京綿商社(後のカネボウ)設立。

1887年、東京綿商社として設立された企業が後に化粧品大手カネボウとなった。
1887年5月6日、創業者小林南風らにより東京綿商社が設立された。 当初は綿製品の輸入・販売を手がけ、国内繊維産業の発展に寄与した。 のちに社名をカネボウと改め、繊維事業から化粧品・医薬品分野へも進出した。 1916年にはカネボウ化粧品部門を創設し、高品質な製品で市場をリードした。 現在はグローバルブランドとして世界中で展開し、日本を代表する化粧品メーカーとなっている。
1887年 カネボウ
1889年

パリ万国博覧会が開幕。321mのエッフェル塔が公開される。

1889年にパリ万国博覧会が開幕し、象徴的なエッフェル塔(高さ321m)が公開されました。
1889年5月6日、フランス・パリで万国博覧会が開幕しました。\nこの博覧会の目玉として、当時世界一の高さを誇る321mのエッフェル塔が一般公開されました。\nエッフェル塔は建築家ギュスターヴ・エッフェル率いるチームによって設計され、展示会の玄関口としての役割を果たしました。\n完成当初は解体の予定もありましたが、その後パリの象徴として残され、観光名所となりました。\n博覧会は産業・技術・芸術の最新成果を紹介し、世界各地の文化交流を促進しました。
1889年 パリ万国博覧会 エッフェル塔
1891年

日本で松方正義が第4代内閣総理大臣に就任し、第1次松方内閣が発足。

1891年、日本で松方正義が第4代内閣総理大臣に就任し、第1次松方内閣が発足しました。
1891年5月6日、松方正義が日本の第4代内閣総理大臣に就任しました。\nこれにより、第1次松方内閣が正式に発足し、財政改革や行政刷新に取り組みました。\n松方正義は元大蔵大臣として財政再建に手腕を発揮し、その後の明治維新後の日本の近代化を支えました。\n内閣発足当初は政党勢力との調整が課題となり、議会政治の在り方が問われました。\nまた、日清戦争後の賠償金処理や国内産業振興なども重要な政策の一つでした。
1891年 松方正義 内閣総理大臣 第1次松方内閣