治承4年4月9日

以仁王が平氏追討の令旨を発する。

1180年、以仁王が平氏討伐を全国の武士に呼びかける令旨を発しました。
以仁王(もちひとおう)は平清盛が勢力を強める平氏政権に対抗するため、各地の源氏や有力武士に平氏追討を命じる令旨を発しました。これにより源氏方の武士が蜂起し、いわゆる「以仁王の令旨」は源平合戦の端緒となりました。平氏支配に不満を抱く武士たちがこれに応じ、全国的な反乱が広がりました。やがて源義仲や源頼朝らが立ち上がり、治承・寿永の乱へと発展しました。本令旨は日本中世史における武士の台頭と政治権力の変動を象徴する出来事です。
1180年 治承 4月9日 以仁王 平氏追討の令旨
1862年

メキシコ出兵: プエブラの会戦。メキシコ軍がフランス軍を撃退。(シンコ・デ・マヨ)

1862年、メキシコ軍がプエブラで仏軍を撃退し、シンコ・デ・マヨとして知られています。
プエブラの会戦は仏西戦争(メキシコ内戦)の最中に起きた重要な戦闘です。メキシコ大統領ベントゥーラ・フアレス率いる軍がフランス帝国軍を市街地で迎え撃ち、数的に劣勢ながら堅牢な防御線で撃退に成功しました。この勝利はメキシコの士気を大いに高め、対外侵略に対する民族意識を象徴する出来事となりました。現在でも5月5日はシンコ・デ・マヨ(メキシコ独立とは別の記念日)として祝われ、多くの祝祭行事が行われています。
1862年 メキシコ出兵 プエブラの会戦 シンコ・デ・マヨ
1864年

南北戦争: 荒野の戦いが始まる。

1864年、南北戦争中の荒野の戦いが始まりました。
荒野の戦い(Battle of the Wilderness)はバージニア州で行われた激戦です。ユリシーズ・グラント将軍率いる北軍とロバート・E・リー将軍率いる南軍が密林地帯で衝突し、両軍合わせて5万人以上の死傷者を出しました。地形の制約から大規模な戦術機動は難しく、消耗戦となりました。戦闘後、グラントは継続攻勢を主張し、戦略の転換点となりました。この戦いは南北戦争後期の苛烈な消耗戦を象徴し、アメリカ史に大きな爪痕を残しました。
1864年 南北戦争 荒野の戦い
1921年

第一次世界大戦戦勝国によるロンドン講和会議で、ドイツに対し1,320億マルクの賠償金支払い受諾を要求(ロンドン最後通牒)。

1921年5月5日、ロンドン講和会議でドイツに対し1,320億マルクの賠償金受諾を要求(ロンドン最後通牒)。
1921年5月5日、第一次世界大戦の戦勝国がロンドン講和会議でドイツに対し1,320億マルクの賠償金支払い受諾を要求しました。 これはヴェルサイユ条約で定められた賠償金を具体化する最終通牒と位置づけられました。 過重な賠償金負担はドイツ経済を圧迫し、後の政治的不安定化を招く要因となりました。 ドイツ国内では深刻なハイパーインフレーションが進行し、社会不安が高まりました。 この講和条件は国際連盟の調停能力や戦後秩序の脆弱性を浮き彫りにしました。
1921年 第一次世界大戦 ドイツ
1936年

第二次エチオピア戦争: イタリアがエチオピアの首都アディスアベバを占領。戦争が終結。

1936年5月5日、イタリアがエチオピアの首都アディスアベバを占領し、第2次エチオピア戦争が終結。
1936年5月5日、ムッソリーニ率いるイタリア軍がエチオピアの首都アディスアベバを占領しました。 これにより1935年に始まった第二次エチオピア戦争は正式に終結しました。 イタリアは植民地支配を展開し、アビシニア帝国は滅亡の危機に瀕しました。 国際連盟は制裁を試みたものの、実効的な阻止には至りませんでした。 占領はアフリカにおける植民地的対立と第二次世界大戦勃発への伏線となりました。
1936年 第二次エチオピア戦争 イタリア エチオピア アディスアベバ
1940年

第二次世界大戦: ドイツに占領されたノルウェー亡命政府がロンドンで発足。

1940年5月5日、ドイツ占領下のノルウェー亡命政府がロンドンで発足。
1940年5月5日、ナチス・ドイツに占領されたノルウェーの亡命政府がロンドンで組織されました。 国王ハーコン7世と首相ヨハン・ニョガードスヴォルドが政府要員として参加しました。 亡命政府はBBCを通じて祖国へのメッセージを発信し、レジスタンス運動を支援しました。 イギリスや他の連合国からの承認を受け、対独抵抗の正統政府として機能しました。 彼らの活動はノルウェー解放と戦後再建への道を開く重要な役割を果たしました。
1940年 第二次世界大戦 亡命政府 ロンドン
1941年

第二次世界大戦: イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となっていたエチオピアで、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が首都に再入城。

エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が、イタリア占領から解放された首都アジスアベバへ再入城した歴史的凱旋です。
1936年にイタリア軍がエチオピアを占領し、ハイレ・セラシエ1世は亡命しました。 1941年の東アフリカ戦線で連合軍(イギリス軍など)がイタリア軍を撃破。 同年5月5日、皇帝は首都アジスアベバへ凱旋し、独立回復の象徴となりました。 この凱旋はエチオピア国民の士気を大いに高め、国際的にも注目を集めました。 以後、ハイレ・セラシエ1世は国の近代化と再建に尽力しました。
1941年 イタリア領東アフリカ ハイレ・セラシエ1世
1945年

第二次世界大戦: カナダ軍・イギリス軍により、ナチス占領下のオランダ・デンマークが解放される。

カナダ軍とイギリス軍がナチス占領下のオランダとデンマークを解放しました。
1945年初頭から連合軍は西ヨーロッパの解放作戦を展開していました。 5月5日、カナダ軍とイギリス軍がオランダとデンマークの主要都市からナチスドイツ軍を駆逐。 解放された住民は連合軍を歓迎し、多くの都市で祝賀ムードが広がりました。 この解放作戦はヨーロッパ大陸でのナチス支配終焉を加速させました。 戦後両国は復興に向けて歩みを始め、欧州統合の礎ともなりました。
1945年 オランダ デンマーク
1945年

第二次世界大戦: 日本から飛来した風船爆弾の不発弾がアメリカ・オレゴン州で爆発し、民間人6人が死亡。第二次大戦でのアメリカ本土での唯一の死者となる。

日本から飛来した風船爆弾の不発弾がオレゴン州で爆発し、6人の民間人が犠牲となりました。
日本軍は気球に爆弾を搭載し、太平洋上でアメリカ本土を攻撃する心理戦を展開していました。 1945年5月5日、オレゴン州に漂着した風船爆弾が不発かと思われていた矢先に爆発。 この爆発により6人の民間人が死亡し、アメリカ本土での唯一の戦時被害者となりました。 事件後、米政府は風船爆弾の情報統制を行い、パニックの拡大を防ごうとしました。 この出来事は戦争の新たな脅威として戦後の安全保障議論にも影響を与えました。
風船爆弾 オレゴン州
1945年

熊本県・大分県境にB 29が墜落。米兵4人が殺害され、残り6人も九州帝国大学で生体解剖される。(九州大学生体解剖事件)

熊本・大分県境でB-29が墜落し、米兵が殺害・生体解剖される衝撃的な事件が起きました。
1945年5月5日、熊本県と大分県の県境付近で米軍爆撃機B-29が事故で墜落しました。 救助に向かった米兵4人が地元民により殺害され、残る6人は九州帝国大学で生体解剖されました。 いわゆる「九州大学生体解剖事件」は戦時中の極端な行為として戦後大きな問題となりました。 この事件は日本側の情報統制により長らく公にされず、戦後の国際裁判でも取り上げられませんでした。 真相解明と犠牲者への補償問題は戦後何十年にもわたり論争を呼びました。
熊本県 大分県 B-29 九州帝国大学 九州大学生体解剖事件
1970年

カンプチア王国民族連合政府樹立。

1970年5月5日、クメール・ルージュとシハヌーク元国王派による「カンプチア王国民族連合政府」が北京で樹立されました。
1970年、ロン・ノル将軍率いる政変で追放されたシハヌーク元国王は クメール・ルージュと手を結び、北京で連合政府(GRUNK)を樹立しました。 カンプチア王国民族連合政府は国際的に亡命政権として認知され、 内戦下のカンボジアでロン・ノル政権に対抗する政治的拠点となりました。 中国や北ベトナムの支援を受け、武装勢力と協力して反政府活動を展開、 1975年の政権奪取まで存続しました。 東南アジア冷戦構造を象徴する政治連合の一つです。
1970年 カンプチア王国民族連合政府
1980年

駐英イラン大使館占拠事件: イギリス陸軍の特殊部隊SASが大使館に突入し、犯人6人のうち5人を射殺、人質26人を解放。

1980年5月5日、ロンドンのイラン大使館占拠事件で英国特殊部隊SASが突入し、犯人のうち5人を射殺、人質26人を救出しました。
1980年4月30日に始まった駐英イラン大使館占拠事件は、5日目に終結しました。 イランの過激派組織が大使館を襲撃し、26人の人質を取って立てこもりました。 5月5日未明、英陸軍SAS(特殊空挺部隊)が建物に突入し、 犯人6人のうち5人を射殺、人質全員を無事救出しました。 SASの迅速かつ精密な作戦は世界中で称賛され、 対テロ特殊部隊の評価を高める契機となりました。 この成功は「ニムロッド作戦」と呼ばれ、以降の対テロ戦術に大きな影響を与えました。
1980年 駐英イラン大使館占拠事件 イギリス陸軍 SAS