553年
第2コンスタンティノポリス公会議が開会。
553年、ローマ帝国東西教会の神学的論争を調停するため、第2コンスタンティノポリス公会議が開会しました。
第2コンスタンティノポリス公会議は東西教会の教義論争を解決するために開かれました。皇帝ユスティニアヌス1世の後継者の支援の下で開催され、教父会議として重要な役割を果たしました。当時の教会はネストリウス派などの異端問題を巡って分裂の危機にありました。本会議では聖書解釈や教義の統一が図られ、キリスト教世界の結束に寄与しました。歴史的には皇帝権力と教会権威の関係を象徴する出来事とされています。
553年
第2コンスタンティノポリス公会議
治承4年4月9日
以仁王が平氏追討の令旨を発する。
1180年、以仁王が平氏討伐を全国の武士に呼びかける令旨を発しました。
以仁王(もちひとおう)は平清盛が勢力を強める平氏政権に対抗するため、各地の源氏や有力武士に平氏追討を命じる令旨を発しました。これにより源氏方の武士が蜂起し、いわゆる「以仁王の令旨」は源平合戦の端緒となりました。平氏支配に不満を抱く武士たちがこれに応じ、全国的な反乱が広がりました。やがて源義仲や源頼朝らが立ち上がり、治承・寿永の乱へと発展しました。本令旨は日本中世史における武士の台頭と政治権力の変動を象徴する出来事です。
1180年
治承
4月9日
以仁王
平氏追討の令旨
1260年
クビライがモンゴル帝国第5代皇帝(ハーン)に即位。
1260年、クビライ・カアンがモンゴル帝国の第5代皇帝(ハーン)に即位しました。
クビライはチンギス・カンの孫にあたり、モンゴル帝国の諸王家内で繰り広げられた継承争いを制して第5代ハーンに登り詰めました。中国側では元朝の創始者として知られ、北京(当時の大都)を都と定めて国号を改める基盤を築きました。彼の即位はモンゴル帝国の東西分裂を深める一因ともなりましたが、後の東方支配の強化につながりました。クビライの治世下で交易路や行政制度が整備され、東西文化交流が飛躍的に進展しました。歴史的には元朝の成立と中国支配の本格化を予感させる重要な節目とされています。
1260年
クビライ
モンゴル帝国
ハーン
1640年
イングランドで短期議会が閉会。
1640年、チャールズ1世が招集した短期議会が閉会しました。
短期議会(Short Parliament)は王権強化を図っていたチャールズ1世がスコットランド遠征費用を調達するために召集した議会です。しかし王への不信感から議事は紛糾し、わずか三週間で解散されました。議会側は財政改革や宗教問題の解決を要求し、チャールズ1世との対立が深まりました。この閉会がきっかけとなり、後に長期議会(Long Parliament)やイングランド内戦へと発展しました。当時の政治状況を象徴する事件として、議会と王権の緊張が高まる一因となりました。
1640年
短期議会
1789年
フランスで、聖職者・貴族への課税を審議する三部会がルイ16世臨席の下で開会。
1789年、ルイ16世の臨席のもと三部会が開会し、聖職者・貴族への課税問題を審議しました。
三部会(エタ・ジェネラル)はフランスの身分制を基礎とする代表機関で、聖職者・貴族・第三身分から構成されていました。財政危機に直面したルイ16世が特権身分への課税を議論するために召集し、約175年ぶりの開催となりました。しかし身分ごとの拍手制をめぐり第三身分が不満を爆発させ、後に国民議会を宣言して革命への道を開く契機となりました。この集会はフランス革命の序章と位置づけられ、旧制度の崩壊と近代民主主義の胎動を示す歴史的瞬間です。
1789年
三部会
ルイ16世
1925年
衆議院議員普通選挙法改正法が公布され、25歳以上の男子に選挙権が認められる。
1925年5月5日、衆議院議員普通選挙法改正法が公布され、25歳以上の男子に選挙権が認められた。
1925年5月5日、普通選挙法改正により25歳以上の男子に衆議院選挙の選挙権が認められました。
これ以前は高い納税要件が課されており、選挙権は裕福層に限られていました。
改正法は大正デモクラシーの流れを受けた民主化運動の成果とされています。
ただし女性にはまだ参政権が認められず、完全な普遍選挙には至りませんでした。
新たに拡大した有権者層は政党活動や選挙戦術の多様化を促しました。
1925年
衆議院議員普通選挙法
選挙権
1940年
第二次世界大戦: ドイツに占領されたノルウェー亡命政府がロンドンで発足。
1940年5月5日、ドイツ占領下のノルウェー亡命政府がロンドンで発足。
1940年5月5日、ナチス・ドイツに占領されたノルウェーの亡命政府がロンドンで組織されました。
国王ハーコン7世と首相ヨハン・ニョガードスヴォルドが政府要員として参加しました。
亡命政府はBBCを通じて祖国へのメッセージを発信し、レジスタンス運動を支援しました。
イギリスや他の連合国からの承認を受け、対独抵抗の正統政府として機能しました。
彼らの活動はノルウェー解放と戦後再建への道を開く重要な役割を果たしました。
1940年
第二次世界大戦
亡命政府
ロンドン
1949年
欧州評議会創設。(欧州評議会のヨーロッパ・デー)
欧州評議会が創設され、ヨーロッパ統合の一歩が踏み出されました。
1949年5月5日、欧州評議会が正式に創設されました。
この組織は人権尊重と法の支配を促進するために設立された初の汎ヨーロッパ機関です。
創設当初は10か国が加盟し、加盟国間の協力と対話を重視しました。
毎年5月5日は「ヨーロッパ・デー」として欧州評議会の記念日に定められています。
その後の欧州連合(EU)形成にも影響を与え、政治・文化両面で統合を進展させました。
1949年
欧州評議会
ヨーロッパ・デー
1950年
タイ王国国王ラーマ9世が戴冠
タイ王国のプミポン国王(ラーマ9世)が正式に戴冠しました。
プミポン・アドゥンヤデートは1946年にタイ王となった後、正式な戴冠式を迎えました。
1950年5月5日、バンコクの王宮で盛大な儀式が行われました。
国民や要人が参列し、タイの伝統行事と仏教的儀礼が組み合わされました。
ラーマ9世は在位中に社会福祉や農村開発など幅広い改革を推進しました。
戴冠はタイ王室の安定と国家統一の象徴とされました。
1950年
タイ王国
ラーマ9世
1955年
西ドイツが主権の完全回復を宣言。
西ドイツが占領統治から解放され、正式に主権を回復しました。
第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の占領下に置かれていました。
1955年5月5日、西ドイツ(連邦共和国)は再武装と国家主権の完全回復を宣言。
パリ条約により連合国との占領統治協定が終了しました。
西ドイツは国際連合にも加盟し、独立国家としての道を歩み始めました。
この主権回復は冷戦期のヨーロッパ政治に大きな影響を与えました。
1955年
西ドイツ
主権
1970年
カンプチア王国民族連合政府樹立。
1970年5月5日、クメール・ルージュとシハヌーク元国王派による「カンプチア王国民族連合政府」が北京で樹立されました。
1970年、ロン・ノル将軍率いる政変で追放されたシハヌーク元国王は
クメール・ルージュと手を結び、北京で連合政府(GRUNK)を樹立しました。
カンプチア王国民族連合政府は国際的に亡命政権として認知され、
内戦下のカンボジアでロン・ノル政権に対抗する政治的拠点となりました。
中国や北ベトナムの支援を受け、武装勢力と協力して反政府活動を展開、
1975年の政権奪取まで存続しました。
東南アジア冷戦構造を象徴する政治連合の一つです。
1970年
カンプチア王国民族連合政府
1983年
中国民航機韓国着陸事件。
1983年5月5日、中国民航機が韓国・ソウルに不時着陸し、外交的緊張が生じました。
1983年5月5日、北京から広州へ向かっていた中国民航機が
突如機内の乗客によりハイジャックされ、韓国・ソウルの金浦空港に着陸しました。
韓国当局は直ちに機内を封鎖し、ハイジャック犯を拘束しましたが、
乗客や乗員は無事保護されました。
この事件は中韓間の外交問題に発展し、両国政府間で協議が行われました。
最終的に乗員乗客は中国へ送還され、ハイジャック犯は韓国で裁判を受けました。
航空機の安全保障と国際関係の脆弱さを浮き彫りにしました。
1983年
中国民航機韓国着陸事件