敏達14年3月30日

仏教排斥を唱える物部守屋が、崇仏派の蘇我馬子が大野丘(甘樫丘)北方に建造した仏塔を焼打ちする。蘇我・物部戦争(丁末の役)の端緒。

物部守屋が蘇我馬子の仏塔を焼き討ちし、仏教を巡る大規模な氏族抗争が始まった事件です。
6世紀の日本では蘇我氏と物部氏が仏教の受容を巡り対立していました。 585年3月30日(敏達14年)、物部守屋は甘樫丘北方に蘇我馬子が建立した仏塔を焼き討ちしました。 この行動が蘇我・物部戦争(丁末の役)の発端となり、両氏族の武力衝突が激化します。 仏教を支持する蘇我氏と排斥を主張する物部氏の対立は、後の日本の宗教政策にも大きな影響を及ぼしました。 この事件を契機に蘇我氏は勢力を拡大し、仏教文化の定着が進みました。
585年 3月30日 仏教 物部守屋 蘇我馬子 甘樫丘 丁末の役
1471年

薔薇戦争: テュークスベリーの戦い。

薔薇戦争の重要な会戦で、ヨーク派がランカスター派に決定的な勝利を収めた戦いです。
1471年5月4日、イングランド南西部のテュークスベリー近郊で大規模な戦闘が行われました。 エドワード4世率いるヨーク派が、ヘンリー6世を支持するランカスター派を撃破。 戦闘は数時間で終結し、多くのランカスター派指導者が戦死または捕縛されました。 この勝利によりエドワード4世の王位が安定し、薔薇戦争の帰趨を決する一因となりました。 戦後、ランカスター派の抵抗勢力は急速に衰退しました。
1471年 薔薇戦争 テュークスベリーの戦い
天正12年3月24日

沖田畷の戦い。 島津家久、有馬晴信軍が龍造寺隆信軍に勝利。大将・隆信を始め龍造寺家の武将が多く討死する。

島津・有馬連合軍が龍造寺軍を破り、龍造寺隆信ら有力武将を失った戦いです。
1584年3月24日、九州の肥前国沖田畷(現在の佐賀県吉野ヶ里町付近)で戦われた合戦です。 島津家久と有馬晴信が連合して龍造寺隆信の軍勢に挑み、大勝利を収めました。 隆信本人を含む多くの龍造寺家の武将が討死し、龍造寺氏の勢力は大きく衰退しました。 この戦闘は薩摩の島津氏が九州制覇の足掛かりを得る契機となり、地域の勢力図を塗り替えました。 戦術的巧妙さと連携の良さが勝敗の決め手となった重要な一戦です。
1584年 天正 3月24日 沖田畷の戦い 島津家久 有馬晴信 龍造寺隆信
1942年

第二次世界大戦・ニューギニアの戦い: 珊瑚海海戦が始まる。

1942年5月4日、太平洋戦争の重要海戦・珊瑚海海戦が開始されました。
珊瑚海海戦は史上初めて航空母艦同士が航空機を主力として戦った海戦で、1942年5月4日にオーストラリア北東沖で開戦しました。日本軍はミッドウェー攻略の支援を目指し、連合軍はオーストラリアの要地を防衛するために迎撃隊を編成しました。互いに航空機を用いた攻撃と防御を繰り返し、双方に損害を出しつつも戦略的には連合軍が日本の進撃を阻止することに成功しました。この戦いは太平洋戦争の大きな転換点となり、航空戦力の重要性を世界に示しました。
1942年 第二次世界大戦 ニューギニアの戦い 珊瑚海海戦
1993年

国際連合カンボジア暫定統治機構の文民警官として派遣されていた高田晴行が、武装ゲリラの襲撃を受けて殉職。

1993年5月4日、UNTACの文民警官として派遣されていた高田晴行氏がゲリラ襲撃で殉職しました。
1993年5月4日、カンボジアの内戦終結後に展開された国連暫定統治機構(UNTAC)で文民警官を務めていた高田晴行氏が武装ゲリラに襲撃され命を落としました。 高田氏は平和維持と市民保護のために巡回任務を行っていたところ、突然の襲撃に巻き込まれ即死。 UNTACはカンボジアで実施された初の大規模国際平和維持活動として注目されていましたが、この事件は活動の危険性を改めて浮き彫りにしました。 翌年にはカンボジアで国連管理下の選挙が行われ、国家再建への第一歩が踏み出されました。
1993年 国際連合カンボジア暫定統治機構 高田晴行