701年
元号に大宝を制定。これ以降元号は1日も途切れていない。
701年、日本で元号「大宝」が制定されました。
以来、元号制度は一度も途切れることなく続いています。
中国の歴史に倣い、天皇の治世を象徴する元号制度が整備されたのは、持統天皇時代の大宝元年です。
大宝制定は、律令政治の確立を目指す動きの一環であり、政府の統治システムを強化しました。
元となる元号の変更は、天皇の即位や改元儀礼の重要性を示すものでした。
この改革以降、約1300年以上にわたり日本の元号は一度も途切れることなく継続されました。
現代でも元号は公文書や日常生活の基準として用いられ、文化的な意義を持っています。
701年
大宝
1791年
ポーランド王国でヨーロッパ初の近代的成文憲法である5月3日憲法が成立する。
1791年、ポーランド王国でヨーロッパ初の近代成文憲法「5月3日憲法」が成立しました。
政治改革を目指した画期的な一歩です。
ポーランド・リトアニア共和国の混乱を払拭し、国家主権を確立するために制定されました。
5月3日憲法は絶対主義と共和制の要素を併せ持ち、議会の権限強化や市民権の拡大を図りました。
当時のヨーロッパでは初となる近代的成文憲法として高く評価され、啓蒙思想の影響を受けています。
制定当日は国民的な祭典が開かれ、多くの市民が憲法の成立を祝いました。
しかし、隣国ロシアやプロイセンの干渉により、その後の政治的混乱は続くこととなりました。
現在でもポーランドでは記念日として祝われ、国家の民主主義発展の象徴とされています。
1791年
ポーランド王国
5月3日憲法
慶応4年4月11日
江戸城が明治政府軍に無血開城。旧暦3月13日、3月14日に、勝海舟と西郷隆盛が会談し、徳川慶喜の故郷水戸への謹慎、軍艦・兵器の引渡しなどで合意。4月4日に橋本実梁と柳原前光が勅使として江戸城に入城し、この日、正式に明渡しが行われた。
江戸城が無血開城し、明治政府軍に引き渡されました。
勝海舟と西郷隆盛の会談が歴史的合意を生んだ瞬間です。
旧暦慶応4年3月13日(新暦5月3日)に江戸城無血開城が行われました。
これは徳川慶喜の謹慎および軍艦・兵器の引き渡しを含む合意で、主として勝海舟と西郷隆盛によって取りまとめられました。
橋本実梁と柳原前光が勅使として城内に入り、正式な明渡しが執り行われました。
この開城により、江戸は大規模な戦闘を避けて無血で明治政府の手に渡りました。
徳川幕府の終焉を告げ、日本の近代国家形成への道を開いた重要な転換点です。
市民の被害を最小限に留めた点でも評価され、維新史上屈指の和平交渉として知られています。
1868年
慶応
4月11日
江戸城
無血開城
勝海舟
西郷隆盛
徳川慶喜
橋本実梁
柳原前光
1939年
インド国民会議の分派としてスバス・チャンドラ・ボースが全インド前進同盟を結成。
1939年、スバス・チャンドラ・ボースが全インド前進同盟を結成しました。
インド独立運動に新たな動きをもたらした組織です。
インド国民会議の中で急進的な独立派として知られたボースは、党内での方針対立から分派を決意しました。
全インド前進同盟は社会主義的な理念を掲げ、英国からの即時独立を目標としました。
結成大会には多くの青年活動家が参加し、全国的な組織拡大を図りました。
ボースは後にドイツや日本と連携して自由インド仮政府の樹立も試み、そのリーダーシップは高く評価されます。
現在でもインド独立史における重要な一章として位置づけられています。
インド国民会議
スバス・チャンドラ・ボース
全インド前進同盟
1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
1946年、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷しました。
戦時犯罪を裁く歴史的な国際法廷の始まりです。
第二次世界大戦後、日本の戦争指導者を対象に連合国が設置した裁判です。
旧ソ連を除く11か国の判事団が参加し、A級戦犯を審理しました。
東京裁判は国際法と軍事法の適用範囲、戦争責任の解釈に大きな議論を呼びました。
1948年まで続き、28名の被告に対して死刑・懲役刑が言い渡されました。
現在も戦後処理や国際司法制度の礎として研究対象となっています。
1946年
極東国際軍事裁判
1947年
日本国憲法施行。
日本国憲法が施行され、平和主義や基本的人権の尊重が法的に確立されました。
GHQの占領下で1946年に制定された日本国憲法が、1947年5月3日に施行されました。
天皇を「日本国の象徴」と位置付ける象徴天皇制や、戦争放棄を定めた第9条が特徴です。
国民主権や三権分立、基本的人権の尊重など民主主義の原則が明文化されました。
施行以降、日本は平和国家としての歩みを進め、国際社会での独自の位置を築いていきます。
現在も世界で最も長く続く成文憲法として知られています。
1947年
日本国憲法
1950年
吉田茂首相が、全面講和論を唱える南原繁東大総長を「曲学阿世の徒」とラジオ演説で批判。
吉田茂首相が南原繁東大総長を激しく批判し、戦後政治に論争を巻き起こしました。
1950年5月3日、吉田茂首相はラジオ演説で南原繁東京大学総長を「曲学阿世の徒」と呼びました。
南原総長は第二次世界大戦後の講和を全面論として唱えており、吉田首相の意向と対立していました。
この発言は戦後日本の外交政策を巡る議論を過熱させ、学界やマスメディアでも大きな論争となりました。
学問の独立性や政治との距離をめぐる問題提起としても注目され、現代の学者と政治家の関係にも示唆を与えています。
結果的に吉田政権の講和方針が維持される形となりました。
1950年
吉田茂
南原繁
東大
1970年
言論出版妨害事件: 創価学会の池田会長が、創価学会と公明党の分離を本部総会で表明。
創価学会の池田大作氏が学会と公明党の分離を宣言し、政治と宗教の関係に議論を呼び起こしました。
1970年5月3日、創価学会の池田大作会長が本部総会で創価学会と公明党の分離を表明しました。
これにより、宗教法人と政党との関係を曖昧にしない姿勢が示され、政教分離の原則が問われました。
当時「言論出版妨害事件」と呼ばれる一連のトラブルのなかでの宣言であり、国内外で大きな注目を集めました。
学会内部や公明党支持者の間で意見が分かれ、その後の公明党の政治活動にも影響を及ぼしました。
政治と宗教の距離をめぐる議論の一里塚となった重要な出来事です。
1970年
言論出版妨害事件
創価学会
公明党
1975年
アメリカ海軍の航空母艦「ニミッツ」が就役。
ニミッツ(CVN-68)が1975年5月3日に就役し、核動力空母の先駆けとして米海軍の戦力を大きく強化しました。
ニミッツ(CVN-68)はアメリカ海軍初のフル核動力航空母艦として設計された。
1975年5月3日、バージニア州ニューポート・ニューズ造船所で就役式が行われた。
命名は太平洋艦隊司令長官を務めたチェスター・ウェニッツ提督に因む。
全長約332m、排水量約10万トンを誇り、艦載機運用能力を大幅に向上させた。
ニミッツ級はその後10隻以上が建造され、現代の米海軍空母打撃群の中核を担っている。
1975年
ニミッツ