1808年
スペイン独立戦争:スペインのマドリードで市民がフランスの占領に対し暴動。フランス軍が1,500人の市民を射殺。
マドリード市民がフランス軍の占領に抗議して蜂起し、多くの犠牲者を出したスペイン独立戦争初期の事件。
1808年5月2日、ナポレオン軍がスペインを占領したことに反発し、マドリードの市民が決起しました。
市民たちはイギリス支援への期待も抱きつつ、ストリートでフランス軍と衝突し抵抗を試みました。
これに対しフランス軍は厳しい鎮圧を行い、約1,500人の民間人を射殺したと伝えられます。
この事件はスペイン独立戦争(半島戦争)の発端となり、全国的な抗仏運動を触発しました。
市民の勇敢な抵抗はペドロ・ベラスケスなど数多くの画家たちにも題材を提供し、後世に記憶されました。
1808年
スペイン独立戦争
スペイン
マドリード
フランス
フランス
元治元年3月27日
天狗党の乱。筑波山で藤田小四郎ら62名が蜂起。
下野国で実施された農民や浪人による天狗党の乱が筑波山で発生。
1864年5月2日(元治元年3月27日)、自由民権運動の先駆けともいえる天狗党が筑波山において蜂起しました。
指導者の藤田小四郎を中心に約62名のメンバーが集まり、幕府の腐敗と重税に抗議しました。
しかし蜂起はすぐに鎮圧され、多くの同志が捕らえられ処罰を受けました。
天狗党の乱は江戸時代末期における地方反乱の一例として、後の尊王攘夷運動に影響を与えました。
この事件は地方勢力が政治に声を上げる先駆的な試みとして歴史に刻まれています。
1864年
元治
3月27日
天狗党の乱
筑波山
藤田小四郎
1945年
第二次世界大戦・ベルリンの戦い: 赤軍が総統官邸を占領。
赤軍がベルリン総統官邸を占領し、ナチス政権の終焉が目前となりました。
1945年5月2日、ソ連赤軍はベルリン市街戦の末にヒトラーの総統官邸(Reich Chancellery)を占領しました。この出来事はナチス政権の終焉を象徴し、市内の激戦地には戦闘の爪痕が色濃く残りました。占領時に掲げられた赤軍旗の映像は戦争終結の歴史的瞬間として世界に配信されました。総統官邸の占領は連合軍による欧州侵攻の最終段階を示す重要な戦果とされています。数日後の5月7日にはドイツ政府が無条件降伏を宣言し、ヨーロッパ戦線は終結へと向かいました。
1945年
第二次世界大戦
ベルリンの戦い
赤軍
総統官邸
1945年
第二次世界大戦: イタリア戦線の枢軸軍が連合軍に降伏。
イタリア戦線の枢軸軍が連合軍に降伏し、欧州南部の戦闘が事実上終了しました。
1945年5月2日、連合軍の春季攻勢によって圧迫されたイタリア戦線の枢軸軍が降伏文書に調印しました。枢軸軍はドイツ軍およびイタリア残存部隊から構成され、激しい山岳戦を繰り広げていましたが、物資不足と兵員の消耗が決定的となりました。この降伏によりイタリア北部の一帯での戦闘は終息し、西部戦線全体に残る抵抗勢力も急速に瓦解しました。多くの将兵が捕虜となり、戦後の処理として収容キャンプに送られました。この出来事はヨーロッパ戦線の終局を象徴する重要な局面でした。
イタリア戦線
2011年
ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害: パキスタン郊外のアボッタバードにて米軍が銃撃戦を展開。国際テロ組織アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが死亡。
2011年、アボッタバードで米軍がビン・ラーディンを殺害した作戦が行われた。
2011年5月2日未明、アメリカ海軍特殊部隊デルタフォースがパキスタン・アボッタバード郊外の施設を急襲しました。
この作戦により、国際テロ組織アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが射殺されました。
ビン・ラーディンは2001年の同時多発テロ事件の首謀者とされ、世界的な指名手配犯でした。
作戦は「ネプチューン・スピア」と名付けられ、高度に機密裏に計画されました。
この事件はテロとの戦いにおける重要な転機とされ、国際社会に大きな影響を与えました。
2011年
ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害
パキスタン
アルカイダ
ウサーマ・ビン・ラーディン
2018年
「バスク祖国と自由」が解散を宣言。
2018年5月2日、バスク地方の武装組織ETA(バスク祖国と自由)が正式に解散を宣言しました。
「バスク祖国と自由」(ETA)はスペイン・フランス両国のバスク地方の分離・独立を主張する武装組織です。
1959年に設立され、バスク地方の分離・独立を目指し武装闘争を続けてきました。
組織は爆弾テロなど多くの暴力行為を通じて注目を集めましたが、2011年に武装闘争の永久停止を発表。
その後、武装解除手続きを経て、2018年5月2日に正式に解散を宣言しました。
解散はバスク地方における和平プロセスの大きな節目となり、地域の安定化に寄与しました。
2018年
バスク祖国と自由