長寛2年4月10日

平清盛の三女平盛子が関白藤原基実の妻となり、北政所を称する。

平清盛の娘・平盛子(後の北政所)が関白藤原基実と結婚し、政権内での平氏と摂関家の同盟関係を象徴する出来事。
平盛子は平清盛の三女として生まれ、公家社会において高い地位を持つ藤原家との婚姻を通じて、平氏政権の権威を補強しました。 関白・藤原基実の正室となったことで、北政所と呼ばれ、摂関家と武家政権の結びつきを象徴する存在となりました。 この婚姻は平清盛が朝廷内での権力基盤を固める戦略の一環であり、摂関家との同盟強化に寄与しました。 北政所の称号は以後摂関家の正妻に与えられる名誉ある称号として定着していきました。 当時の貴族社会における政治的婚姻の重要性を示す事例として語り継がれています。
1164年 長寛 4月10日 平清盛 平盛子 藤原基実 北政所
1536年

イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンが反逆罪・不義密通の容疑で逮捕。同月19日に処刑。

ヘンリー8世の王妃アン・ブーリンが反逆罪と不義密通の容疑で投獄・処刑された劇的な出来事。
アン・ブーリンはヘンリー8世の2番目の王妃として王位継承を巡る重要な役割を担っていました。 しかし1536年5月2日、反逆罪と不義密通の容疑で逮捕され、宮廷内の政治的駆け引きの犠牲となりました。 裁判では複数の男性と不倫関係があったとされる証言が取り沙汰され、信頼を失ったとされます。 同年5月19日にロンドン塔で首を落とされ、その悲劇的な最期はイギリス王室史に大きな衝撃を与えました。 アン・ブーリンの死は宗教改革と王権強化の潮流の中で起こり、後のイングランド国教会の成立にも影響を与えました。
1536年 イングランド ヘンリー8世 アン・ブーリン
1885年

ベルギー国王レオポルド2世がコンゴ自由国を設立。

レオポルド2世がアフリカにおける個人統治国家、コンゴ自由国を設立した出来事。
1885年5月2日、ベルギー王レオポルド2世はベルリン会議の決定を受け、コンゴ自由国を設立しました。 表向きには奴隷制廃止や文明化を目的としていましたが、実際には天然ゴムや象牙の搾取が目的でした。 個人統治という特殊な体制のもと、過酷な労働と残虐行為が蔓延し、多数の現地住民が犠牲となりました。 国際的批判を浴び、1908年にベルギー政府への移管が決定されるまで続きました。 この事件は植民地主義の暗部を象徴する事例として、歴史的にも重大な意味を持っています。
1885年 ベルギー レオポルド2世 コンゴ自由国
1889年

イタリアとエチオピア帝国が、エチオピアを事実上保護国化する内容のウッチャリ条約(Treaty of Wuchale)に調印。

イタリアがエチオピアとウッチャリ条約を締結し、保護国化を進めた外交上の出来事。
1889年5月2日、イタリア王国とエチオピア帝国がアディスアベバでウッチャリ条約に調印しました。 条約のイタリア語版とアムハラ語版の文言解釈の違いにより、イタリアはエチオピアを保護国と主張しました。 エチオピア皇帝メネリク2世は後にこの解釈に異議を唱え、1896年のアドワの戦いへと発展しました。 この条約を巡る外交紛争はアフリカ諸国の独立を巡る国際政治の重要な転換点となりました。 最終的にエチオピアは独立を維持し、アフリカで唯一制圧に成功した国として歴史に名を刻みました。
1889年 イタリア エチオピア帝国 ウッチャリ条約 Treaty of Wuchale
1906年

「医師法」改正。医師の開業許可制が免許制となる。

医師の開業許可制が廃止され、免許制へ移行した医療制度改革。
1906年5月2日、日本政府は医師法を改正し、開業許可制を免許制に変更しました。 それまで医師が診療所を開設するには官公庁の許可が必要でしたが、国家試験合格者には自動的に免許が与えられるようになりました。 この改革により医師養成と供給が促進され、医療サービスの普及が加速されました。 また制度の明確化は医師の社会的地位向上にも寄与し、近代医療の基盤を築く一歩となりました。 以後、医師免許制度は現在に至るまで続く日本の医療制度の中核となりました。
1906年 医師法 医師
1906年

「歯科医師法」公布。

歯科医師の資格や制度を定める「歯科医師法」が公布された日です。これにより歯科医療の質の向上と組織的な運営が進められました。
1906年のこの日、歯科医師の業務範囲や資格要件などを規定する「歯科医師法」が公布されました。日本初の歯科専門職に関する包括的な法律であり、国家による免許制度の基盤を築いた点で画期的です。法案は明治政府の産業振興策の一環として策定され、歯科治療の水準向上と国民の口腔衛生確保を目的としていました。公布後は都道府県知事による免許交付が開始され、歯科医師会の結成や教育機関の整備が進みました。今日の歯科医療制度の礎となった重要な一歩です。
歯科医師法
1933年

強制的同一化: ナチスが労働組合を禁止。

ナチス政権が独立した労働組合を禁止し、国家統制下へ組み込む同一化が進みました。
1933年5月2日、ドイツ政府は全ての自由労働組合を解散・禁止し、指導的地位にあった組合役員を逮捕しました。これにより労働者の組織はドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront)に統合され、ナチ党の統制下に置かれました。雇用者側と労働者側を一体化することで反対勢力を排除し、国家総動員体制の構築を目指しました。この「強制的同一化(Gleichschaltung)」はナチス支配強化の重要な一環とされ、政治的反対派への弾圧がさらに激化しました。
1933年 強制的同一化 労働組合
1947年

翌日の日本国憲法施行に伴い、この日限りで枢密院が廃止される。

日本国憲法施行を翌日に控え、長らく議論を重ねてきた枢密院が廃止されました。
1947年5月2日、日本国憲法の施行(翌3日)に伴い、明治憲法下で天皇の諮問機関として設置されていた枢密院が正式に廃止されました。枢密院は憲法改正や勅令の審査、天皇への助言などを担っていましたが、民主主義原則の下で不要と判断されました。廃止後は国会中心の立法・統治体制が確立し、日本の議会制民主主義が定着します。歴史的には明治期からの制度が時代の変革を受けて終焉を迎えた象徴的な出来事です。
1947年 日本国憲法 枢密院
1947年

外国人登録令公布・施行。大日本帝国憲法下で公布された最後の勅令。

外国人登録令が公布・施行され、大日本帝国憲法下で公布された最後の勅令となりました。
1947年5月2日、戦後復興期の行政改革の一環として外国人登録令が公布・施行されました。これにより日本に在留する外国人は居住地の自治体へ登録し、身分証明の発行を受けることが義務付けられました。加えて、移民の動態を管理する制度は戦後の在留管理政策の基礎となりました。また、この勅令は大日本帝国憲法下で公布された最後の皇室勅令として歴史的価値を持ちます。戦後の外国人政策の枠組みを形作った重要な出来事です。
外国人登録令 大日本帝国憲法 勅令
1949年

「国民金融公庫法」公布。

戦後の日本で中小企業や農林漁業者向けの低利貸付を目的とした国民金融公庫法が公布されました。
第二次世界大戦後の経済復興を支えるため、政府は小規模事業者や農林漁業者を対象とした資金供給機関を整備する必要に迫られた。1949年5月2日に公布された国民金融公庫法は、これらの事業者へ低利で融資を行う国民金融公庫の設立を可能にした。公庫は農林漁業金融公庫や商工組合中央金庫などを統合し、政府の資本注入を受け運営された。本法の施行により中小企業の資金調達手段が拡充し、地域経済の再建や産業復興に寄与した。
1949年 国民金融公庫
1950年

「放送法」「電波法」「電波監理委員会設置法」の電波三法を公布。

放送法・電波法・電波監理委員会設置法という電波三法が制定され、日本の放送と電波利用の基盤が整備されました。
GHQ占領期を経て、日本の放送事業と電波管理を再構築するために1950年5月2日に電波三法が公布された。放送法は放送事業の許可や番組内容の基準を定め、電波法は周波数の割当てや技術基準を規定する。電波監理委員会設置法により独立した監理機関が設置され、行政の中立性と公平性が確保された。これによりラジオやテレビ、無線通信の利用が法的に整理され、戦後のメディア産業の発展に大きく寄与した。以後、技術進展や民放の台頭とともに法改正が行われ、日本の放送環境の基盤となっている。
1950年 放送法 電波法 電波監理委員会設置法 電波三法
1958年

大韓民国(第一共和国時代)で第4代総選挙が行なわれる。

大韓民国(第一共和国)で第4代総選挙が実施され、議会の構成が刷新されました。
1958年5月2日に大韓民国で第4代国会議員選挙が行われた。李承晩大統領率いる第一共和国下での選挙は、与党自由党が依然として優勢を保った。投票率は戦後最高水準に達し、国民の政治参加意識が高まった一方で、選挙過程には一部で不正疑惑も指摘された。結果、与党は議席を増やし、李承晩政権の基盤がさらに強化されることとなった。
第4代総選挙