1851年
第1回万国博覧会がロンドン・ハイドパークで開幕。10月15日まで。
1851年5月1日、第1回万国博覧会がロンドン・ハイドパークで開幕しました。
第1回万国博覧会(The Great Exhibition)は産業革命の成果を展示する場として1851年5月1日に開幕しました。
会場はロンドン・ハイドパーク内のクリスタルパレスで、約100万点の工業製品や美術品が展示されました。
参加国は英国を中心に多数が集まり、世界各地の技術・文化が一堂に会しました。
入場者数は約600万人に上り、近代博覧会の先駆けとされています。
この博覧会は国際交流と産業発展の象徴として大きな影響を与えました。
1851年
第1回万国博覧会
ロンドン
ハイドパーク
10月15日
文久元年3月22日
トーマス・ブレーク・グラバーが長崎にグラバー商会を設立。
1861年5月1日、トーマス・ブレーク・グラバーが長崎にグラバー商会を設立しました。
トーマス・ブレーク・グラバーは英国人商人で、長崎で貿易商として活動を始めました。
1861年5月1日(文久元年3月22日)、グラバー商会を設立し、武器や機械の輸入を行いました。
同商会は薩摩藩など旧大名家の欧米との交易を仲介し、維新期の近代化を支えました。
グラバーは後に日本で海峡蒸気船会社や造船所を設立し、日本の産業基盤づくりに貢献しました。
彼の功績は長崎の歴史と日本の近代化史に深く刻まれています。
1861年
文久
3月22日
トーマス・ブレーク・グラバー
1862年
ロンドン万国博覧会が開幕。開幕式に日本から文久遣欧使節一行が出席。
1862年5月1日、ロンドン万国博覧会が開幕し、日本から文久遣欧使節が出席しました。
1862年5月1日、ロンドン万国博覧会が開幕し、日本からは文久遣欧使節一行が出席しました。
遣欧使節は幕府と諸藩の代表で、欧州の制度・技術視察を目的に派遣されました。
使節団はウェリントン卿らと会見し、最新技術や軍事制度などを学びました。
この派遣は幕末の幕府外交と国内改革の一環であり、明治維新への布石となりました。
欧米との交流が加速し、日本の近代国家建設に重要な影響を与えました。
1862年
ロンドン万国博覧会
文久遣欧使節
1873年
ウィーン万国博覧会が開幕。10月31日まで。日本政府が初めて公式に参加。
1873年5月1日、ウィーン万国博覧会が開幕し、日本政府が初めて公式参加しました。
1873年5月1日、ウィーン万国博覧会が開幕し、10月31日まで開催されました。
日本政府は公式出品団を派遣し、陶磁器や美術品、工業製品などを展示しました。
当時の国際社会において日本文化と技術を示す貴重な機会となりました。
博覧会は帝国の威信を示す場でもあり、参加国の文化交流や商業促進に寄与しました。
日本の政府公式参加は近代国家としての国際認知度向上に貢献しました。
1873年
ウィーン万国博覧会
10月31日
1893年
シカゴ万国博覧会が開幕。10月3日まで。
1893年5月1日、シカゴ万国博覧会が開幕しました。
1893年5月1日、シカゴ万国博覧会(コロンビア博覧会)が開幕しました。
「ホワイトシティ」と呼ばれる壮麗な建築群や電気イルミネーションが来場者を魅了しました。
博覧会はアメリカ合衆国建国400周年を記念し、最新技術や文化成果が展示されました。
来場者数は約2700万人に達し、世界最大規模の博覧会の一つとなりました。
この博覧会は美術、建築、都市計画など多方面に影響を及ぼしました。
1893年
シカゴ万国博覧会
10月3日
1918年
三菱合資会社から営業部を分離独立させて三菱商事を設立。
三菱合資会社の営業部を分社化し、総合商社の先駆けとなる三菱商事が設立されました。
1918年5月1日に三菱合資会社の営業部が分離・独立し、三菱商事が創業しました。
当初は輸出入や商品仲介を中心に事業を展開し、日本初の総合商社として国内外での取引を拡大しました。
戦後の国際貿易再開期にも重要な役割を果たし、世界的企業への成長を遂げました。
現在はエネルギーから食品、化学品まで多岐にわたる事業を展開しています。
日本の経済発展を支えた歴史的企業誕生の瞬間です。
1918年
三菱合資会社
三菱商事
1923年
小田急電鉄の前身にあたる小田原急行鉄道が設立。
小田原急行鉄道が設立され、小田急電鉄の前身となりました。
1923年5月1日に小田原急行鉄道株式会社が設立されました。
神奈川県の沿岸都市と東京を結ぶ鉄道路線の計画に基づく会社設立で、箱根や湘南への観光路線としても期待されました。
その後、路線建設や増資を経て小田急電鉄へと発展しました。
現在の小田急電鉄は首都圏の主要私鉄として、日々多くの利用者に親しまれています。
地域の観光振興と都市間交通の発展に大きく寄与した歴史的企業設立です。
1923年
小田急電鉄
1942年
東京横浜電鉄が京浜電鉄・小田急電鉄を吸収合併し東京急行電鉄が発足(大東急)。
1942年5月1日、京浜電鉄と小田急電鉄が合併し、東京急行電鉄(通称・大東急)が誕生しました。
東京横浜電鉄は京浜電鉄と小田急電鉄を吸収合併し、1942年に東京急行電鉄として発足しました。
通称「大東急」と呼ばれ、戦時下での効率的な鉄道運営を目的としていました。
合併により首都圏西部の路線網が統合され、輸送力の強化と運営合理化が図られました。
戦後は米軍占領政策で分割されましたが、現在の東急電鉄の基礎となる歴史的経緯です。
1942年
京浜電鉄
小田急電鉄
東京急行電鉄
大東急
1945年
芸備銀行、呉銀行、備南銀行、三次銀行及び広島合同貯蓄銀行が合併し、(新)芸備銀行(現:広島銀行)設立。
1945年5月1日、広島県内の5銀行が合併し、新たに芸備銀行(現・広島銀行)が設立されました。
戦後の金融再編策の一環として、芸備銀行、呉銀行、備南銀行、三次銀行、広島合同貯蓄銀行の5行が合併しました。
新設の(新)芸備銀行は地域経済再建の重要な役割を担い、後に広島銀行として発展します。
本合併により資本基盤が強化され、復興期の融資体制が整備されました。
現在も地銀大手として地域社会に貢献しています。
芸備銀行
呉銀行
備南銀行
三次銀行
広島合同貯蓄銀行
広島銀行
1948年
米国軍政府布令により「琉球銀行」設立
米国軍政府の布令で、1948年5月1日に琉球銀行が設立されました。
第二次世界大戦後、アメリカの統治下にあった沖縄地域で、経済復興と金融基盤整備を目的として琉球銀行が設立されました。
米国軍政府布令により条例が定められ、地域住民への融資や貯蓄業務を開始しました。
その後、琉球銀行は沖縄の主要金融機関として発展し、後の沖縄銀行など地域金融の先駆けとなりました。
1949年
国鉄旅客運賃1.6倍値上げ。
戦後復興期の財政再建策として、1949年5月1日に国鉄が旅客運賃を約1.6倍に引き上げた。
1949年5月1日、戦後復興期の物価高や財政悪化を受け、旧国鉄(日本国有鉄道)は旅客運賃を従来の約1.6倍に大幅引き上げした。
この改定は輸送コストの回収と運営改善を狙いとし、通勤・通学者を中心に利用者の負担増を招いた。
一部では大衆の反発もあり、鉄道利用抑制や代替交通手段への関心が高まった。
運賃収入の増加は国鉄の経営改善に寄与したが、公共料金と経済政策の在り方を巡る議論を呼び起こした。
以降、公共交通料金改定の基準やインフレ対応策の先駆けとなった。
1949年
1951年
全国9電力会社(北海道・東北・東京・北陸・中部・関西・中国・四国・九州)が発足。
1951年5月1日、全国9地域の電力会社が発足し、日本の電力供給体制が再編された。
戦後の電力事業再編成を目的として、北海道電力・東北電力・東京電力・北陸電力・中部電力・関西電力・中国電力・四国電力・九州電力の9社が設立された。
政府の電力管理政策に基づき地域別独占体制を確立し、効率的な送配電網の構築を推進した。
各社は地域の需要に応じた発電所建設や配電網整備を進め、産業発展と生活基盤の安定に大きく寄与した。
この発足により、戦前の大規模電力統制から脱し、民間主体の地域分割運営が始まった。
現在の日本の電力システムの基礎がこの時期に形成されたとされる。
1951年
北海道
東北
東京
北陸
中部
関西
中国
四国
九州