313年

ツィラルムの戦い。ローマ皇帝リキニウスが、ローマ帝国の東側を分割統治していたマクシミヌス・ダイアを破る。

ローマ皇帝リキニウスがマクシミヌス・ダイアを破った戦い。
313年4月30日に起こったツィラルムの戦いは、リキニウスとマクシミヌス・ダイアの間で行われ、リキニウスが勝利を収めました。 この戦いにより、帝国内で分裂していた東西の支配が再び統一に向かうきっかけとなりました。 リキニウスは敗れたマクシミヌスを追撃し、最終的には帝国の対立を解消しました。 この勝利はコンスタンティヌス大帝とリキニウスの同盟関係を強固にし、キリスト教保護の流れを加速させました。 また、この戦いはローマ帝国の後期史における重要な転換点とされています。
313年 ツィラルムの戦い 英語版 ローマ皇帝 リキニウス マクシミヌス・ダイア
1863年

メキシコ出兵・カマロンの戦い:物資輸送の護衛のフランス外人部隊をメキシコ軍が攻撃。フランス外人部隊は300万フランを文字通り死守。

カマロンの戦いでフランス外人部隊がメキシコ軍と戦った。
1863年4月30日、フランス外人部隊とメキシコ軍がカマロンで激突しました。 小隊規模の外人部隊約65名が、圧倒的多数のメキシコ軍に包囲された戦いです。 外人部隊は物資輸送を守るため300万フラン相当の給与証書を死守し、壮絶な抵抗を見せました。 最後まで降伏を拒んだ兵士たちの戦闘は、後にフランス外人部隊の伝統と名誉の象徴となりました。 この戦いはフランス軍のメキシコ出兵における象徴的な逸話として語り継がれています。
1863年 メキシコ出兵 カマロンの戦い フランス外人部隊 メキシコ軍
1904年

日露戦争: 鴨緑江会戦が始まる。

日露戦争の鴨緑江会戦が始まり、両軍の激しい攻防が展開されました。
1904年4月30日、日露戦争における最初の大規模陸戦の一つ、鴨緑江会戦が開戦しました。 日本軍は北進を目指し、第三軍を中心に鴨緑江を渡河、ロシア軍と衝突します。 両軍は厳寒の河畔で砲撃と白兵戦を繰り広げ、多くの犠牲を出しました。 この戦いは戦術・兵站の運用が試される場となり、後の旅順攻囲戦にも影響を与えます。 日本軍の勝利は欧州列強に大きな衝撃を与え、国際的な評価を高める契機となりました。 一方でロシア側も強固に抵抗し、戦闘は長期戦へと突入していきます。
1904年 日露戦争 鴨緑江会戦
1918年

戦艦「日向」が就役。

日本海軍の伊勢型戦艦「日向」が正式に就役し、近代戦力の一翼を担いました。
日本海軍の伊勢型戦艦2番艦として建造された「日向」は、1917年に起工され、1918年4月30日に正式に就役した。 吃水線下部を持つ重装甲と40.6cm主砲を備えた当時最強クラスの戦艦であった。 第一次世界大戦後も改装を重ね、太平洋戦争では南方戦線などで活躍した。 1944年のレイテ沖海戦で大破し、最終的に沈没した。 その経歴は日本海軍の技術力と戦略を象徴するものとして知られている。
1918年 日向
1943年

第二次世界大戦: イギリス軍が対ドイツ軍諜報作戦「ミンスミート作戦」を実施。

偽装死体を使った欺瞞工作で連合軍のシチリア侵攻を支援しました。
1943年4月30日深夜、イギリス海軍と諜報部が『ミンスミート作戦(Operation Mincemeat)』を実施した。 入念に偽装した死体に西地中海侵攻計画の偽文書を携行させ、ドイツ軍に回収させる作戦であった。 ドイツ軍はこれを真と信じ、シチリア防衛を手薄に配置換えし、侵攻成功に寄与した。 1943年7月のシチリア上陸作戦(ハスキー作戦)が比較的順調に進んだ背景にはこの情報戦の勝利がある。 軍事諜報史上でも最も成功した欺瞞工作の一つとされる。
1943年 第二次世界大戦 イギリス軍 ドイツ軍 ミンスミート作戦
1945年

前日結婚したアドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺。

ヒトラー夫妻が総統地下壕で最期を遂げ、ナチス・ドイツの終焉を印象づけました。
1945年4月29日に結婚式を挙げたアドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンは、翌30日にベルリンの地下壕で自殺した。 ドイツが連合軍に包囲され、敗北が確実視された状況下での最期の決断であった。 ヒトラーは自らピストルで頭部を撃ち、ブラウンは青酸カリを服用したとされる。 遺体は総統官邸の庭で焼却され、その後の調査でも最終確認が行われた。 ナチス体制の崩壊とヨーロッパ戦線終結を象徴する歴史的事件である。
1945年 アドルフ・ヒトラー エヴァ・ブラウン
1970年

カンボジア内戦:クーデターを起こしたロン・ノルの支援のため、アメリカ軍と南ベトナムがカンボジアに侵攻。

米軍と南ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、カンボジア内戦が国際戦争化しました。
1970年4月30日、ロン・ノル政権を支援するためアメリカ軍と南ベトナム軍がカンボジア領内に軍事侵攻しました。 この侵攻はベトナム戦争の拡大と見なされ、カンボジア内戦を国際的な紛争へと発展させました。 当時のカンボジアではクメール・ルージュと政府軍の内戦が激化しており、侵攻は戦況を複雑化させました。 アメリカの爆撃と地上部隊の展開は民間人被害を拡大させ、人道的批判を招きました。 この出来事は後の国際政治や地域情勢に大きな影響を与えました。
1970年 カンボジア内戦 ロン・ノル カンボジア
1975年

サイゴン陥落。ベトナム戦争が終結。南ベトナムの首都サイゴンに南ベトナム解放民族戦線が突入、ズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏を発表。

サイゴン陥落により南ベトナム政府が無条件降伏。 ベトナム戦争は長い戦いを終えました。
1975年4月30日、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が首都サイゴンに突入。 当日、ズオン・バン・ミン大統領は無条件降伏を発表し南ベトナム政府は崩壊。 これによりアメリカが関与したベトナム戦争は実質的に終結。 数百万の難民が発生し、その後の統一ベトナム国家建設に大きな影響を与えました。 今日も多くの史跡や証言が戦争の記憶を伝えています。
1975年 サイゴン陥落 ベトナム戦争 南ベトナム サイゴン 南ベトナム解放民族戦線 ズオン・バン・ミン
1980年

イギリスでイラン大使館占拠事件発生。

ロンドンのイラン大使館が武装ゲリラに占拠され、6日間にわたる人質事件が始まりました。
1980年4月30日、イギリス・ロンドンのイラン大使館が武装したアラビア民族主義者に占拠。 人質は当初26名にのぼり、英国政府は人質救出を巡る対応を迫られました。 最終的に5月5日、特殊部隊SASが突入作戦を実施し、多くの人質を救出しました。 この事件は現代のテロ対策や特殊部隊運用に大きな影響を与え、映画や書籍の題材にもなりました。 市民の安全と人質解放のバランスが注目された歴史的事件です。
イギリス イラン大使館占拠事件