1483年

カスティーリャ王国がカナリア諸島のグラン・カナリア島を占領。

1483年、カスティーリャ王国がカナリア諸島最大の島グラン・カナリア島を軍事的に制圧し、支配を確立しました。
カナリア諸島はアフリカ大陸西岸沖に位置し、大西洋航路の重要な補給拠点でした。1483年、カスティーリャ王国はグラン・カナリア島を占領し、領有権を拡大しました。この占領により、スペインは新航路開拓前の補給基地を確保し、後の大航海時代を支える足掛かりを得ました。現地に住む先住民グアンチェ族は抵抗を試みましたが、最終的に支配下に置かれました。その後もスペインの植民地化政策が進み、島は帝国貿易の要所として発展しました。
1483年 カスティーリャ王国 カナリア諸島 グラン・カナリア島
1859年

イタリア統一運動:サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がオーストリア帝国の庇護下にある北部イタリアへ侵攻開始。

1859年、サルデーニャ王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がオーストリア帝国支配下の北イタリアへ侵攻し、イタリア統一戦争が激化しました。
イタリア統一運動(リソルジメント)の一環として、サルデーニャ王国はフランスと同盟を結びオーストリア軍と対峙しました。1859年4月29日、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はロンバルディア地方への進軍を開始し、マジェンタの戦いやソルフェリーノの戦いへとつながりました。これらの戦闘でオーストリア軍を退けることに成功し、多くの北部イタリア領土を獲得しました。戦後、ロンバルディアはサルデーニャ王国領となり、イタリア統一の大きな一歩となりました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は後に初代イタリア国王として戴冠し、統一国家成立に寄与しました。
1859年 イタリア統一運動 サルデーニャ ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 オーストリア帝国 イタリア
1932年

上海天長節爆弾事件。上海の天長節祝賀会場で朝鮮人尹奉吉が爆弾を投げつけ白川義則軍司令官と重光葵公使らが重傷。

1932年4月29日、上海の天長節祝賀会場にて尹奉吉が爆弾を投じ、日本の軍・外交官に重傷を負わせる事件が発生しました。
天長節を祝う日本統治下の上海祝賀会場で、独立運動家の尹奉吉(ユン・ボンギル)が爆弾を投擲。 標的となった白川義則軍司令官と重光葵公使ほか多数の日本人要人が重傷を負いました。 この事件は朝鮮独立運動の象徴的行動として広く報じられ、国際的にも大きな波紋を呼びました。 尹奉吉は直後に逮捕され、処刑されましたが、韓国では独立運動の英雄として讃えられています。 事件後、日本政府は上海総領事館周辺の警備を強化し、中国、韓国の抗日運動弾圧を一層厳格化しました。
1932年 上海天長節爆弾事件 上海 天長節 尹奉吉 白川義則 重光葵
1945年

ベニート・ムッソリーニの銃殺死体がミラノのロレート広場で逆さ吊りにして晒される。

1945年4月29日、処刑されたムッソリーニの遺体がミラノのロレート広場で逆さ吊りにされ、公衆の面前に晒されました。
第二次世界大戦末期、イタリアのパルチザン部隊によりムッソリーニは捕らえられ処刑されました。 1945年4月29日、ミラノのロレート広場で遺体が逆さ吊りにされ、ファシズム終焉の象徴として公衆に晒されました。 虐殺行為や独裁者の肖像破壊が行われ、群衆は長年の独裁支配への憤りを晴らす機会としました。 この行為はイタリア国内外に大きな衝撃を与え、ファシズム体制の終結を印象づけました。 歴史家はこの場面を第二次世界大戦における象徴的瞬間の一つと位置づけています。
1945年 ベニート・ムッソリーニ ロレート広場
1945年

アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが結婚。翌日自殺。

1945年4月29日、アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンがベルリンの地下壕で結婚。翌30日に自殺しました。
第二次世界大戦末期、ベルリン総統地下壕(ヴォルフスシャンツェ内)にてヒトラー夫妻は密かに挙式を行いました。 長年の同棲を経ての結婚は、敗色濃厚な状況下での最後の儀式とされています。 結婚翌日の1945年4月30日、両名は連名で自殺し、ナチス・ドイツの終焉を象徴する出来事となりました。 地下壕内の限られた参加者のみで行われた婚礼は、その後の歴史的関心を集め、多くの研究対象となっています。 この婚姻とその直後の自殺は、第三帝国の最期を象徴する劇的な瞬間と位置づけられています。
アドルフ・ヒトラー エヴァ・ブラウン
1945年

第二次世界大戦・イタリア戦線: ドイツ国防軍C軍集団の代理、フォン・シュヴァイニッツ中佐とヴェンナー親衛隊少佐がカゼルタ宮殿で地中海作戦戦域最高司令官ハロルド・アレキサンダー英陸軍元帥への降伏文書に署名する。

1945年4月29日、ドイツ国防軍C軍集団代理がカゼルタ宮殿で地中海作戦最高司令官アレキサンダー元帥へ降伏文書に調印しました。
イタリア戦線で連合軍と戦っていたドイツ国防軍C軍集団は、1945年4月29日に降伏文書に署名。 署名者は軍集団代理のフォン・シュヴァイニッツ中佐と親衛隊のヴェンナー少佐。 相手方は地中海作戦戦域最高司令官のハロルド・アレキサンダー英陸軍元帥でした。 調印は南イタリアのカゼルタ宮殿で行われ、イタリア半島におけるドイツ軍の降伏を公式に成立させました。 この降伏によりイタリア戦線での戦闘は終結し、ヨーロッパ戦域の枢軸軍敗北が決定的となりました。
イタリア戦線 ドイツ国防軍 C軍集団 親衛隊少佐 カゼルタ宮殿 地中海作戦戦域 ハロルド・アレキサンダー 英陸軍
1975年

ベトナム戦争: フリークエント・ウィンド作戦が始まる。

1975年4月29日、ベトナム戦争末期にフリークエント・ウィンド作戦が開始。
・フリークエント・ウィンド作戦は南ベトナムからの大規模なアメリカ軍・民間人脱出作戦。 ・北ベトナム軍のサイゴン包囲が迫る中、多数の軍用・民間ヘリが動員された。 ・数日間で約7万5千人の救出が行われ、戦争終結前最後の大規模救援活動とされた。 ・映像や写真が世界に放送され、ベトナム戦争の悲惨さと混乱を象徴した。 ・この作戦後、サイゴン陥落まで南ベトナム政府は持ちこたえられなかった。
1975年 ベトナム戦争 フリークエント・ウィンド作戦
2005年

シリア軍が29年間駐留していたレバノンからの撤退を完了。

2005年4月29日、シリア軍が29年間の駐留を終え、レバノンから完全撤退した。
シリア軍は1976年にレバノン内戦介入のために駐留を開始し、以後約29年間レバノン国内に軍事的影響力を持っていました。 2005年のレバノン反シリアデモ(シダ会議)やラフィク・ハリリ首相暗殺事件後、国際圧力と国内世論が強まりました。 同年4月26日に撤退を開始し、4月29日に最後の部隊がレバノン領土を離れました。 撤退完了はレバノンの主権回復とシリアの地域的立場の変化を象徴しています。 この決定は中東の政治バランスに大きな影響を与え、レバノンの政情不安定化要因も浮上しました。 以降、レバノンはシリアの強い影響から脱し、新たな政治的課題に直面しました。
2005年 シリア レバノン