711年
ムーア人がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入し、アルハンブラの丘を占領して定住。
711年、ムーア人が北アフリカからジブラルタル海峡を越え、イベリア半島に侵入してアルハンブラの丘に定住した歴史的転換点。
711年4月、ムーア人(イスラム軍)はジブラルタル海峡を渡りイベリア半島南部に上陸した。
彼らは当地でビシゴート王国を急速に制圧し、アルハンブラの丘を確保して居住地とした。
この侵入はイベリア半島におけるイスラム支配(アル=アンダルス)の基礎を築き、後の文化的・社会的発展に大きな影響を与えた。
占領地には軍事拠点や要塞が築かれ、イスラム文化が流入する契機となった。
この出来事はヨーロッパ史における中世イスラム文明の拡大を象徴する重要な転機。
711年
ムーア人
ジブラルタル海峡
イベリア半島
アルハンブラの丘
貞観8年閏3月10日
平安京大内裏の応天門が放火により焼失(応天門の変)。
866年、平安京の大内裏にある応天門が放火によって焼失した騒動。
平安時代中期、貞観8年閏3月10日(866年4月28日)に大内裏の正門にあたる応天門が焼失した。
この事件は「応天門の変」と呼ばれ、朝廷内の権力争いが背景にあったとされる。
放火の容疑は伴氏目代長柄豊碩にかけられたが、真犯人は明らかになっていない。
藤原良相らが勢力を拡大する一方、天皇や貴族社会に大きな動揺が走った。
皇城の中枢が被災したことで、都市計画の見直しや警備体制の強化が図られた。
866年
貞観
閏
3月10日
平安京
大内裏
応天門
放火
応天門の変
天徳4年3月30日
天徳内裏歌合が行われる。
960年、天徳内裏において皇族・貴族による和歌の歌合が行われた文化的催し。
天徳4年3月30日(960年4月28日)に内裏で催された「天徳内裏歌合」は、皇族や貴族たちが歌人に扮して和歌を詠み競う宮中行事。
この歌合は公的な詩歌の場として開催された初期の例とされる。
詩歌を通じて宮廷文化の優雅さを示すとともに、参加者同士の教養や感性を競い合う機会となった。
和歌の選定は勅撰され、後世の和歌集編纂にも影響を与えた。
宮廷内での社交や芸術交流を深める重要な役割を果たした。
960年
天徳
3月30日
天徳内裏歌合
1192年
第3回十字軍: エルサレム王即位直前のコンラート1世が暗殺される。
1192年、エルサレム王位に就く直前のコンラート1世が暗殺された事件。
第3回十字軍のさなか、エルサレム王国の君主として選出されたコンラート1世は、即位式を目前に控えた1192年4月28日に暗殺された。
犯行には暗殺教団(ハシシン)との関与が疑われ、政治的陰謀の可能性も指摘される。
コンラートは十字軍諸侯の間で指導力が期待されていたものの、その突然の死は王国の結束に打撃を与えた。
暗殺後、王位継承をめぐる混乱が生じ、十字軍の再編成に大きな影響を及ぼした。
この事件は聖地エルサレムを巡る複雑な国際史の一幕として知られる。
1192年
第3回十字軍
エルサレム王
コンラート1世
応永30年3月18日
足利義量の将軍宣下が行われる。
1423年、足利義量が室町幕府の征夷大将軍に正式に任じられた。
応永30年3月18日(1423年4月28日)、室町幕府第4代将軍に足利義量(よしかず)が宣下を受けた。
義量は父・義持の跡を継ぎ、若年ながら幕政を担う立場となった。
将軍宣下は朝廷からの正式な任命を意味し、武家政権の正当性を示す重要な儀式であった。
義量政権下では分国法の整備や領国支配の強化が図られ、幕府権力の再編が進められた。
その治世は短命に終わったが、室町幕府の制度的基盤を固める一因となった。
1423年
応永
3月18日
足利義量
将軍宣下
宝永5年3月8日
京都で大火(宝永の大火)。約1万4,000軒が焼失。
1708年、京都で発生した宝永の大火により約1万4千軒が焼失した。
宝永5年3月8日(1708年4月28日)、京都市街で大規模な火災が発生し、約14,000軒もの民家や町屋が焼失した。
この「宝永の大火」は江戸時代を代表する都市災害の一つで、火元は不明のままとなっている。
被災地では住民の避難や復興に膨大な時間と資源が割かれ、多くの財産と文化財が失われた。
幕府は復興支援や防火対策の強化を命じ、京都の都市構造は大きく見直された。
この火災は後の都市計画や町火消制度の発展に影響を与えた。
1708年
宝永
3月8日
京都
宝永の大火
1788年
メリーランド州がアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国7番目の州となる。
1788年、メリーランド州がアメリカ合衆国憲法を批准し、7番目の州となった。
1788年4月28日、アメリカ合衆国の13植民地の一つ、メリーランド州が合衆国憲法を正式に批准した。
これによりメリーランドは合衆国初期の形成期における7番目の州として加盟を果たした。
州議会での批准には連邦主義者と反連邦主義者の間で激しい議論が交わされた。
批准後、メリーランドは合衆国政府の制度設計や連邦主義発展に重要な役割を果たした。
この出来事は新たな国家体制確立への大きな一歩となった。
1788年
メリーランド州
アメリカ合衆国憲法
1789年
トンガのフレンドリー諸島でバウンティ号の反乱が起こる。
1789年、バウンティ号の乗組員がイギリス海軍艦で反乱を起こした。
1789年4月28日、トンガ諸島(フレンドリー諸島)付近でイギリス海軍艦バウンティ号の乗組員が反乱を起こした。
事件は航海士フレッチャー・クリスチャンらによって指導され、艦長ウィリアム・ブライは小舟で放逐された。
反乱後、クリスチャンらはトンガに留まり、その後一部はピトケアン諸島へ移住した。
この出来事は「バウンティ号の反乱」として小説や映画で数多く描かれ、航海史のドラマチックな一幕となった。
ブライ艦長は過酷な小舟漂流を経てイギリスに帰還し、事件は国際的な注目を集めた。
1789年
トンガ
バウンティ号の反乱
安政3年3月24日
江戸幕府が講武所を開校。
1856年、江戸幕府が軍事訓練機関「講武所」を江戸に開校した。
安政3年3月24日(1856年4月28日)、江戸幕府は幕臣の洋式軍事訓練を目的とした講武所を開校した。
講武所では砲術や兵学、西洋式戦術の教育が行われ、幕府軍の近代化が模索された。
当初は幕臣への限定的な講習だったが、後に藩士など多くの武士が学ぶ場となった。
この設立は幕末の諸外国接近に伴う安全保障意識の高まりを反映するものであった。
講武所はのちに各種研究機関へ発展し、日本の近代軍制形成に影響を与えた。
1856年
安政
3月24日
講武所
1862年
南北戦争・ニューオーリンズの戦い: ジャクソン砦とセントフィリップ砦がデヴィッド・ファラガット率いる北軍に降伏。
1862年、ニューオーリンズ攻略の際、ジャクソン砦とセントフィリップ砦が北軍に降伏した。
南北戦争中の1862年4月28日、新オーリンズ攻略を目指す北軍のデヴィッド・ファラガット率いる艦隊に対し、ジャクソン砦とセントフィリップ砦が降伏した。
ファラガット提督は艦隊を通過させた後、砲撃を受けながらも要塞を制圧した。
この要塞攻略により北軍は戦略的拠点であるミシシッピ川下流域の制海権を掌握した。
新オーリンズの占領は南部連合に大きな打撃を与え、戦争の流れを変える転機となった。
同時に、ファラガットの大胆な戦術は後の海軍史においても高く評価される。
1862年
南北戦争
ニューオーリンズの戦い
デヴィッド・ファラガット
1908年
第1回ブラジル移民を乗せた笠戸丸が神戸港を出港。同年6月18日にサントス港に到着。
第1回ブラジル移民を乗せた笠戸丸が神戸港を出港。
日本から海外へ移住した最初の船団の一つとして重要な一歩となった。
1908年4月28日、日本政府が推進した移民政策の一環で、笠戸丸に乗った約781名の日本人が神戸港からブラジルに向け出発。
彼らはブラジル・サントス港へ6月18日に到着し、主にサトウキビ農園などで働き始めた。
この移民船の出港は日本人移民史の中でも画期的な出来事とされ、その後のブラジル移民潮流を決定づけた。
移民たちは新天地で苦労しながらもコミュニティを築き、現在の在伯日本人社会の礎となった。
当時の渡航条件や船内の様子は厳しいものだったが、希望を胸に旅立った彼らの歴史的意義は大きい。
1908年
第1回ブラジル移民
笠戸丸
神戸港
6月18日
1908年
世界エスペラント協会が設立。
世界エスペラント協会(UEA)が設立され、エスペラント運動の国際的な中心組織が誕生。
1908年4月28日、フランスのブローニュ=シュル=メールで設立総会が開かれ、50余名の代表が参加。
世界エスペラント協会はエスペラント語の普及と国際理解の促進を目的とし、言語の壁を越えたコミュニケーションを志向。
設立後は定期大会や出版活動を通じて、世界中に支部と会員を広げた。
エスペラントは中立的な国際補助語として議論され、第一次世界大戦後も平和運動と結びつきながら発展。
現在でもUEAは最も歴史あるエスペラント組織として活動を続けている。
世界エスペラント協会