1897年
帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする。
1897年4月27日、帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館が帝国図書館に昇格しました。
日本初の国立図書館制度が整備された日です。
1897年4月27日、明治政府は帝国図書館官制を制定し、官報で公布しました。
これにより上野公園内の東京図書館が正式に帝国図書館へと改組されます。
帝国図書館は国内初の国立図書館として資料の収集・保存・公開を担う機関に位置付けられました。
欧米の図書館制度を参考に、近代的な分類・索引方式が導入されます。
学術研究や教育への貢献が期待され、知識と文化振興の拠点となりました。
現在の国立国会図書館の前身として、公共図書館制度の礎を築いた重要な出来事です。
1897年
帝国図書館
1909年
メフメト5世がオスマン帝国スルタンに即位。
1909年4月27日、メフメト5世がオスマン帝国第35代スルタンに即位しました。
立憲制導入後の新たな政情期を象徴する出来事です。
1909年4月27日、青年トルコ人の蜂起を経てアブデュルハミト2世が退位。
同日にメフメト5世が第35代スルタンとして即位しました。
彼は立憲制君主として形式的な権限を持ち、実務は大臣や議会が担います。
治世中に第一次バルカン戦争や第一次世界大戦といった大規模紛争を経験。
オスマン帝国は列強の圧力下で領土縮小の危機に直面します。
メフメト5世の治世は1918年まで続き、帝国末期の重要な時期を担いました。
1909年
メフメト5世
オスマン帝国
スルタン
1948年
衆議院不当財産取引委員会で昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄が問題化、昭電疑獄に発展。
衆議院の委員会で昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄疑惑が浮上し、昭電疑獄へ発展しました。
1948年4月27日、衆議院不当財産取引委員会の審議で、政府系金融機関による昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄疑惑が表面化しました。
昭和電工側は資金繰り改善のため融資を要請し、政治家へ賄賂が渡されたとの疑いが持たれました。
この問題は「昭電疑獄」と呼ばれ、当時の政治と経済の癒着が大きく批判される契機となりました。
疑獄の追及は国会内外に波紋を広げ、与野党問わず複数の議員や企業関係者が証人喚問されました。
最終的には関係者の逮捕や起訴も行われ、日本の戦後政治における腐敗防止の重要性が改めて認識されました。
1948年
衆議院
昭和電工
昭電疑獄
1959年
中華人民共和国で毛沢東が国家主席を辞任、後任に劉少奇。
毛沢東が中国国家主席を辞任し、劉少奇が後任に就任しました。
1959年4月27日、中華人民共和国の最高指導者であった毛沢東が国家主席を辞任しました。
後任には副主席を務めていた劉少奇が選出され、国家機関のトップ職を引き継ぎました。
毛沢東は以後も党主席として強い影響力を保持し、国家主席職は国家儀礼上の役割が中心となりました。
この交代は大躍進政策の失敗批判や党内権力バランスの調整が背景にあったとされます。
劉少奇は初の国家主席として政務運営にあたり、党と国家の分離強化を図ろうと試みましたが、後に文化大革命期に失脚します。
1959年
中華人民共和国
毛沢東
劉少奇
1960年
大韓民国で李承晩大統領が、退陣を求めるデモの激化を受け辞任。許政首相が大統領代行に。
李承晩大統領が退陣運動の激化を受けて辞任し、許政首相が大統領代行となりました。
1960年4月27日、大韓民国で李承晩大統領に対する学生や市民の退陣要求デモが激化しました。
これを受けて李承晩は大統領職を辞し、副首相兼首相だった許政が臨時大統領代行に指名されました。
李政権は不正選挙や独裁的統治への批判が強く、4月革命と呼ばれる大規模抗議運動へ発展しました。
許政代行は政権移行の安定化を図る一方、新憲法制定や政治改革の道筋を模索しました。
その後6月には新政府が樹立され、李承晩時代の政治体制が正式に終焉を迎えました。
1960年
大韓民国
李承晩
許政
1960年
トーゴがフランスから独立。
西アフリカのトーゴが1960年にフランスから独立し、新たにトーゴ共和国が誕生した日です。
1960年4月27日、フランス領トーゴが正式に独立を宣言し、トーゴ共和国が成立しました。
初代大統領にはシルヴァヌス・オリンピオが就任し、新政府が発足しました。
この独立はアフリカの脱植民地化運動の象徴となり、国際的な注目を集めました。
独立後のトーゴは政治的混乱やクーデターを経験しつつ、徐々に経済開発に取り組みました。
現在では西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の一員として地域協力を推進しています。
トーゴ
フランス
1961年
シエラレオネがイギリスから独立。
西アフリカのシエラレオネが1961年にイギリスから独立し、主権国家となった日です。
1961年4月27日、シエラレオネがイギリスより独立し、シエラレオネ独立国として誕生しました。
初代首相にはサー・ミルトン・マルガイが就任し、新政府が始動しました。
当初はイギリス連邦王国として英女王を元首とし、独立国家としての地位を築きました。
1971年には共和制へ移行し、現在のシエラレオネ共和国が確立されました。
独立記念日は国を挙げて祝賀行事が行われ、国民の誇りを象徴しています。
1961年
シエラレオネ
イギリス
1971年
大韓民国大統領選挙で朴正煕が三選。
1971年の大韓民国大統領選挙で朴正煕が3期目の当選を果たした日です。
1971年4月27日、大韓民国で大統領選挙が実施され、現職の朴正煕が再選を果たしました。
朴正煕は経済開発5か年計画を推進し、高度経済成長を牽引していました。
選挙は戒厳令下で行われ、野党の活動には制限があったものの、高い支持を維持しました。
3期目の就任を通じて政権基盤を強化し、その後も政権は長期化しました。
一方で政治的抑圧や言論統制への批判も強まり、民主化運動が活発化しました。
1971年
大韓民国大統領選挙
朴正煕
1978年
アフガニスタンでクーデター。翌日、ムハンマド・ダーウード大統領が殺害される。
1978年、アフガニスタンで共産主義勢力によるクーデター「サウル革命」が発生し、大統領が暗殺された日です。
1978年4月27日、人民民主党(PDPA)の将校らがムハンマド・ダーウード大統領を打倒するクーデターを実行しました。
この事件は「サウル革命」と呼ばれ、ダーウード政権は事実上崩壊しました。
大統領府が襲撃され、ダーウード大統領は翌日殺害され、その一家も犠牲となりました。
クーデター後に共産政権が樹立され、ソ連の影響下で社会主義的改革が進められました。
政変はその後のアフガニスタン紛争とソ連軍介入への序章となりました。
1978年
アフガニスタン
ムハンマド・ダーウード
1994年
南アフリカ共和国で初めてとなる全人種参加の総選挙。ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議が第一党となり、マンデラを次期大統領に選出。
1994年、南アフリカで初の全人種参加による総選挙が実施され、マンデラが次期大統領に選出された日です。
1994年4月27日、アパルトヘイト廃止後の南アフリカで史上初めて全人種が投票できる総選挙が行われました。
ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)が第一党となり、マンデラが次期大統領に選出されました。
選挙は平和的に実施され、約1900万人以上の有権者が投票に参加しました。
この選挙は南アフリカの民主化を象徴する歴史的瞬間とされ、人種的和解の第一歩となりました。
以降、4月27日は「自由の日(Freedom Day)」として国民の祝日となっています。
1994年
南アフリカ共和国
総選挙
英語版
ネルソン・マンデラ
アフリカ民族会議
大統領
2005年
シリアによるレバノンからの軍隊の完全撤退実施。
21年間にわたりレバノンに駐留していたシリア軍が完全撤退し、レバノンの主権回復が実現しました。
2005年4月27日、国際社会の圧力を受けてシリア軍の最後の部隊がレバノン国境を越え、完全撤退しました。
シリア軍は1984年にレバノン内戦を受けて駐留を開始し、その後の政治介入が長年の緊張を生んでいました。
前月に発生したラフィク・ハリーリ元首相暗殺事件を契機に民衆デモが拡大し、「シリアは去れ」の声が高まりました。
国連安保理決議1559号に基づく撤退は、中東地域における主権尊重と安定への重要な一歩となりました。
レバノンではその後、政治再編や民主化が進展し、国際平和構築のモデルケースとされています。
2005年
シリア
レバノン
2017年
ホノルル国際空港が同地出身のダニエル・イノウエにちなみ、ダニエル・K・イノウエ国際空港に改名。
ホノルル国際空港がハワイ出身の政治家ダニエル・イノウエを称えて改名されました。
2017年4月27日、米下院と上院の承認を経て、ホノルル国際空港の正式名称がダニエル・K・イノウエ国際空港に変更されました。
ダニエル・イノウエ氏は第二次大戦での軍功を経て上院議員を長年務め、ハワイ州発展に貢献した功労者です。
改名には地域住民や日系人コミュニティからの強い支持があり、記念式典が空港ターミナルで行われました。
新しい空港サインや案内表示が順次更新され、国際線の乗客にも広く周知されています。
歴史と文化を継承する施設として、地域のアイデンティティ強化にも寄与しています。
2017年
ダニエル・イノウエ
ダニエル・K・イノウエ国際空港