1521年

マクタン島の戦い。フェルディナンド・マゼランが戦死。

1521年4月27日、フィリピン・マクタン島沖で起こった戦いです。 世界一周を目指したフェルディナンド・マゼランが現地の反抗勢力に撃たれ、戦死しました。
1521年4月27日、ポルトガル出身の探検家フェルディナンド・マゼランは世界周航の途中でマクタン島に上陸。 島を守るラプ=ラプ率いる先住民と激突し、マゼランは銛を受けて戦死しました。 指揮官を失った艦隊は一時撤退を余儀なくされます。 しかし最終的には西回りでジブラルタル海峡を越え、世界初の一周航海を達成します。 マゼランの死は大航海時代の危険と栄光を象徴する出来事として語り継がれています。
1521年 マクタン島の戦い フェルディナンド・マゼラン
1586年

土星において水星の太陽面通過と金星の太陽面通過が同時に起こる。太陽系で前回起こった惑星の同時太陽面通過。次回は2865年12月29日に海王星で発生する。

1586年4月27日、土星で水星と金星の太陽面通過が同時に観測されました。 太陽系内でも極めて稀な天文現象です。
1586年4月27日、土星の軌道上から見た太陽面に水星と金星が同時に通過しました。 太陽面通過は惑星が太陽と観測者の間を横切る現象で、同日に二つが起こるのは前例のない出来事です。 次回は2865年12月29日に海王星で再び発生すると予測されています。 この現象は惑星軌道の微妙な角度と位置関係が一致することで実現します。 現代の天文学ではシミュレーションによる予測が可能ですが、当時の観測者には驚きと畏敬の念をもたらしたでしょう。 稀少性の高さから、天文ファンには特別な興味を引くイベントです。
1586年 土星 水星の太陽面通過 金星の太陽面通過 2865年 12月29日 海王星
1777年

アメリカ独立戦争: リッジフィールドの戦いが開始。

1777年4月27日、アメリカ独立戦争中のリッジフィールドの戦いが始まりました。 大陸軍とイギリス軍が激突した重要な戦闘です。
1777年4月27日、コネチカット植民地のリッジフィールド近郊で戦闘が勃発しました。 イギリス軍がニューヨークから進軍し、大陸軍が迎え撃ちます。 大陸軍は防御陣地を構築し、人数で勝る敵軍を足止めしました。 数時間の激戦となり、多くの死傷者が出ましたが、アメリカ軍は戦略的撤退に成功します。 この戦いはイギリス軍の進軍を遅延させ、植民地側の士気を高める結果となりました。 現在も地域で記念行事が行われ、独立戦争の歴史を伝えています。
1777年 アメリカ独立戦争 リッジフィールドの戦い
1810年

ベートーヴェンが「エリーゼのために」を作曲。

1810年4月27日、有名なピアノ曲「エリーゼのために」が誕生しました。 ロマン派音楽を代表する名曲として親しまれています。
1810年頃、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは短いピアノ曲を作曲しました。 曲名の「エリーゼ」は謎に包まれ、原稿は後年に発見されました。 1867年にルートヴィヒ・ノルによって初めて出版されたことで広く知られるようになります。 美しく親しみやすい旋律は、学習者から演奏家まで幅広い層に人気です。 曲はABA形式で構成され、間奏部の対比が魅力を増しています。 現在もコンサートやCM、映画音楽など多彩な場で演奏されています。
1810年 ベートーヴェン エリーゼのために
1865年

アメリカの貨客船「サルタナ」で、航行中にボイラーが爆発し火災が発生。1,450人以上が死亡。

1865年4月27日、ミシシッピ川を航行中の蒸気船サルタナ号がボイラー爆発を起こし、大規模な火災と沈没で1,450人以上が死亡しました。
1865年4月27日、南北戦争終結後のミシシッピ川でサルタナ号のボイラーが破裂しました。 蒸気船は瞬く間に火災に包まれ、多数の乗客と退役兵が犠牲となります。 記録上、サルタナ号事故はアメリカ史上最悪の船舶事故とされています。 過積載や整備不良が主因とされ、当時の調査では責任追及が不十分だったと批判を浴びました。 この悲劇は交通安全規制の強化と技術的改善の必要性を浮き彫りにしました。 現在も犠牲者の慰霊碑が川沿いに建てられ、事故の教訓が語り継がれています。
1865年 サルタナ
1897年

帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする。

1897年4月27日、帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館が帝国図書館に昇格しました。 日本初の国立図書館制度が整備された日です。
1897年4月27日、明治政府は帝国図書館官制を制定し、官報で公布しました。 これにより上野公園内の東京図書館が正式に帝国図書館へと改組されます。 帝国図書館は国内初の国立図書館として資料の収集・保存・公開を担う機関に位置付けられました。 欧米の図書館制度を参考に、近代的な分類・索引方式が導入されます。 学術研究や教育への貢献が期待され、知識と文化振興の拠点となりました。 現在の国立国会図書館の前身として、公共図書館制度の礎を築いた重要な出来事です。
1897年 帝国図書館
1905年

リエージュ万国博覧会 (1905年)が開催される。

1905年4月27日からリエージュ万国博覧会が開催され、産業・技術の最新成果が展示されました。 ベルギー東部地域の経済活性化に寄与した国際イベントです。
1905年4月27日、ベルギー東部のリエージュで万国博覧会が開幕しました。 最新の機械技術や電気、交通インフラ関連の展示が中心となり、多くの企業が出展します。 世界各国から来場者が集まり、産業水準や技術動向を比較・学習する場となりました。 会場周辺ではインフラ整備や宿泊施設の拡充が進み、地域経済が大きく潤います。 産業展だけでなく美術品や民俗文化の展示も行われ、多彩なプログラムが特色です。 博覧会後もリエージュは国際的な交流拠点として発展を続けました。
1905年 リエージュ万国博覧会 (1905年)
1908年

第4回夏季オリンピック、ロンドン大会開催、10月29日まで。

1908年4月27日、ロンドンで第4回夏季オリンピックが開幕しました。 史上最大規模の大会として記録されています。
1908年4月27日、ホワイトシティ・スタジアムで開会式が行われました。 当初はローマ開催予定でしたが、火山噴火の影響でロンドンに変更されました。 22カ国以上から多くの選手が参加し、競技種目も多岐にわたりました。 マラソンの距離が現在の42.195kmに定められたのもこの大会です。 競技運営をめぐり英米選手の間で論争が起きるなど、スポーツマンシップも試されました。 大会は10月29日まで行われ、夏季オリンピックの成功モデルとなりました。
1908年 夏季オリンピック ロンドン大会 10月29日
1909年

メフメト5世がオスマン帝国スルタンに即位。

1909年4月27日、メフメト5世がオスマン帝国第35代スルタンに即位しました。 立憲制導入後の新たな政情期を象徴する出来事です。
1909年4月27日、青年トルコ人の蜂起を経てアブデュルハミト2世が退位。 同日にメフメト5世が第35代スルタンとして即位しました。 彼は立憲制君主として形式的な権限を持ち、実務は大臣や議会が担います。 治世中に第一次バルカン戦争や第一次世界大戦といった大規模紛争を経験。 オスマン帝国は列強の圧力下で領土縮小の危機に直面します。 メフメト5世の治世は1918年まで続き、帝国末期の重要な時期を担いました。
1909年 メフメト5世 オスマン帝国 スルタン
宣統3年3月29日

黄花崗起義。中国同盟会の黄興が広州で反清武装蜂起。

1911年4月27日(宣統3年3月29日)、黄花崗起義が広州で勃発しました。 中国同盟会の黄興らが率いた辛亥革命への端緒となる武装蜂起です。
清朝末期、革命団体・中国同盟会の黄興が広州で蜂起を計画。 1911年4月27日(宣統3年3月29日)、黄花崗七十二烈士が結集し武装蜂起が始まります。 起義軍は一時的に政府施設を占拠するなど大胆な行動を展開しました。 しかし清軍の鎮圧により敗北し、多くの犠牲者を出す結果となります。 この出来事は辛亥革命の先駆けとされ、中華民国樹立への動きを加速させました。 現在も広州では烈士を追悼する行事が毎年開催されています。
1911年 宣統 3月29日 黄花崗起義 中国同盟会 黄興 広州
1917年

京都 東京512kmで「東海道五十三次関東関西対抗駅伝競走」を開催。初めて「駅伝」の名称が使われる。

京都から東京まで約512kmの長距離を走る駅伝大会が初めて「駅伝」と命名されました。
1917年(大正6年)、京都から東京まで約512kmの「東海道五十三次関東関西対抗駅伝競走」が開催されました。 この大会は地域間の駅伝競走として初のもので、「駅伝」という名称が公式に使われた記録があります。 参加選手は各区間を襷(たすき)でつなぎ、当時としては前例のない長距離リレーレースに挑戦しました。 競技は東海道五十三次の宿場を区切り、関東と関西のチームが対抗形式で競い合いました。 その後、この大会は駅伝競技の普及に大きく貢献し、日本独自の長距離リレー形式の基礎を築きました。
1917年 京都 東京 駅伝
1940年

ナチス親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラーがアウシュヴィッツ強制収容所の建設命令を発令。

ナチス親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラーがアウシュヴィッツ強制収容所の建設を命じました。
1940年4月27日、親衛隊全国指導者であったハインリヒ・ヒムラーはポーランド南部のアウシュヴィッツ地区に強制収容所建設を命令しました。 この収容所は後にアウシュヴィッツ=ビルケナウとして知られ、ホロコーストの象徴的な場所となります。 当初は政治犯やポーランドの知識人を収容する目的で計画されましたが、やがてユダヤ人を中心とした虐殺作戦の中核となりました。 収容所の設計・施工には親衛隊建設部隊(ヴァフ)が動員され、過酷な強制労働が行われました。 最終的に百万以上の人々がこの地で命を奪われ、ナチス・ドイツによる組織的な大量虐殺の象徴となりました。
1940年 ナチス 親衛隊 ハインリヒ・ヒムラー アウシュヴィッツ強制収容所