799年

暗殺されそうになった所を脱出したローマ教皇レオ3世が、フランク王カール1世(カール大帝)に保護を求める。

ローマ教皇レオ3世が暗殺未遂から逃れてカール大帝に保護を求めました。
カトリック教会最高位のレオ3世が、宮廷内の反対派の陰謀により暗殺未遂に遭いました。 一族や貴族の抗争に巻き込まれた教皇はローマを脱出し、フランク王国の宮廷へ向かいます。 その後、カール大帝の庇護を受けることで教皇の権威を確立し、教会と国家の関係に大きな影響を与えました。 この出来事が後の800年の戴冠へとつながり、ヨーロッパ中世の政治構造を形作る契機となりました。 教皇と皇帝の揺るぎない同盟関係は、中世ヨーロッパの宗教と政治の根幹を支えました。
799年 レオ3世 カール大帝
慶長13年3月11日

征夷大将軍を辞した徳川家康が駿府城に移り住む。

徳川家康が征夷大将軍を退任し、駿府城に隠居しました。
慶長13年、家康は二代将軍秀忠に政務を譲り、自らは駿府(現在の静岡市)へ移りました。 表向きは隠居とされましたが、実質的には幕府の最高権力を保ったままの体制です。 この政権移行は徳川幕府の安定期の礎となり、以降の泰平の世を計画的に築きました。 隠居後の家康は外交や政策面で影響力を行使し、幕府の統治機構を強固にしました。 駿府城は文化的な交流の中心地ともなり、家康の後期政治の拠点となりました。
1608年 慶長 3月11日 征夷大将軍 徳川家康 駿府城
1792年

ジョゼフ・ギヨタンの提案により「単なる機械装置の作用(ギロチン)」による死刑の執行がフランス国民議会で採択。

フランス国民議会がギヨタンの提案を採択し、ギロチンによる死刑が導入されました。
人道的死刑の名目で、機械装置による即時死を目指した斬新な執行方法です。 従来の絞首刑や斬首刑に比べて苦痛を軽減するとされました。 ギロチンはフランス革命期の象徴的な装置となり、数万人の処刑に使用されました。 その残虐性と合理性が議論を呼び、近代刑罰制度の一端を担う存在となります。 以降、ヨーロッパ各地にも広まり、19世紀まで多くの国で使用され続けました。
1792年 ジョセフ・ギヨタン ギロチン
安政5年3月12日

廷臣八十八卿列参事件。

1858年(安政5年)3月12日、尊王攘夷派の廷臣88名が老中会議への列参を要求した政治事件です。
1858年(安政5年)3月12日、幕府が日米修好通商条約などの対外条約を調印した直後、尊王攘夷派の廷臣88名が老中会議への列参を要求しました。 彼らは朝廷主導による国政運営と外国勢力排除を訴えました。 幕府との対立が深まり、攘夷運動の高まりと幕末動乱の一端を象徴する事件となりました。 この事件は尊王攘夷思想が公家社会にも浸透していたことを示しています。
1858年 安政 3月12日 廷臣八十八卿列参事件
1945年

連合国50か国代表が参加するサンフランシスコ会議が始まる。6月26日まで。

1945年、連合国50か国が国際連合憲章を起草するためサンフランシスコ会議を開催しました。
1945年4月25日、アメリカ・サンフランシスコで連合国50か国代表が参加し、国際連合憲章を検討する会議が始まりました。 議長はハリマン駐ソ米大使が務め、6月26日に国際連合憲章が採択されました。 この会議は第二次世界大戦後の国際秩序を構築する重要な節目となり、国際連合の発足へとつながりました。 国際平和と安全の維持、経済社会協力などの原則は今日の国連活動の基盤となっています。
連合国 サンフランシスコ会議 6月26日
1945年

イタリア社会共和国が崩壊。

第二次世界大戦末期、ナチス・ドイツに支えられたイタリア社会共和国が崩壊し、イタリアにおける枢軸国支配が終焉を迎えた。
イタリア社会共和国は1943年に成立し、ドイツ軍の支援を受けて北イタリアを支配していた。 1945年4月25日、イタリア抵抗運動(パルチザン)が主要都市で蜂起し、共和国の政権機能は急速に失われた。 この蜂起によりムッソリーニ政権は瓦解し、枢軸国によるイタリア支配は事実上終結した。 数日後、ムッソリーニはパルチザンによって逮捕され、処刑された。 イタリアでは毎年4月25日が「解放記念日(Festa della Liberazione)」として祝われている。
イタリア社会共和国
1947年

第23回衆議院議員総選挙、社会党が143議席で第一党。

1947年の衆議院総選挙で社会党が最大党となり、戦後政治の新たな勢力図が形成された。
第23回衆議院議員総選挙は戦後2度目の普通選挙として1947年4月25日に実施された。 この選挙で社会党は143議席を獲得して第一党となり、民主党や日本自由党を上回る躍進を見せた。 戦後日本の左右対立を象徴する結果となり、社会党はのちの民主社会党結成や連合政権構想に影響を与えた。 また、有権者の政治意識変化や選挙制度の一部改正も注目され、日本の政党政治基盤を固める契機となった。
1947年 第23回衆議院議員総選挙 社会党
1958年

衆議院解散(話し合い解散)

1958年、与党と野党間の協議に基づく「話し合い解散」により衆議院が解散された。
1958年4月25日、当時の岸信介内閣は党内外との協議を重ねて衆議院を解散する「話し合い解散」を実施した。 この手法は野党の反発を抑えつつ選挙時期を調整するために採用され、政策の安定継続を図る狙いがあった。 解散後の総選挙では自由民主党が議席を伸ばし、岸内閣は安定多数を確保して政権基盤を強化した。 以降、解散手法としての「話し合い解散」は与党と野党のパワーバランスを反映する一つの慣例となった。
1958年 衆議院解散 話し合い解散
1973年

全農林警職法事件の最高裁判所大法廷判決。全逓東京中郵事件の判例を変更。

1973年4月25日、全農林警職法事件に関する最高裁大法廷判決が下され、旧判例が変更されました。
全農林警職法事件は、労働組合員の公務員適用に関する訴訟で、従来の全逓東京中郵事件の判例を根本的に見直すものです。1973年4月25日、最高裁大法廷は公務員の政治活動制限をどう捉えるかを審理し、警職法第6条の適用範囲などを再定義しました。この判決により、公務員の組合活動や政治的権利が一定程度認められる方向に解釈が変更され、以後の労働法制に大きな影響を与えました。また、社会運動や公共組織のあり方を巡る議論が活発化する契機となりました。
1973年 全農林警職法事件 最高裁判所 大法廷 全逓東京中郵事件 判例
1974年

カーネーション革命: ポルトガルで国軍運動(MFA)が軍事クーデターを起こし、市内の要所を占拠。マルセロ・カエターノ首相が国軍運動に政権を移譲しエスタド・ノヴォが終焉。

1974年4月25日、ポルトガルで無血クーデター『カーネーション革命』が勃発し、長期独裁政権が崩壊しました。
カーネーション革命はポルトガル軍内部の若手将校らが率いる無血クーデターで、1974年4月25日に首都リスボンをはじめとする各地で要所を占拠しました。マルセロ・カエターノ首相は抵抗せず政権を移譲し、国家保安評議会が権力を掌握。長年続いたエスタド・ノヴォ(新国家体制)が終焉し、民主化プロセスが始まりました。革命の象徴として市民は赤いカーネーションを武器に見せ、平和的な色彩で国を一変させました。この出来事はポルトガルのEU加盟への道を開き、冷戦期のヨーロッパ政治にも影響を与えました。
1974年 カーネーション革命 ポルトガル マルセロ・カエターノ エスタド・ノヴォ
1980年

日本政府が日本オリンピック委員会 (JOC) に、モスクワオリンピックに参加しないよう通告。

1980年4月25日、日本政府がモスクワオリンピックへの不参加をJOCに通告しました。
1980年のモスクワオリンピックはソ連のアフガニスタン侵攻を受け、アメリカ合衆国を中心にボイコット運動が起こりました。日本政府は1979年末から検討を重ね、1980年4月25日に日本オリンピック委員会へ公式に参加辞退を通告。これにより日本選手はモスクワ大会に出場できなくなりました。スポーツを政治問題と切り離すべきだとの意見もあったものの、国際的な連帯を重視する立場が採用されました。この決定は国内外で賛否を呼び、スポーツ外交の難しさを浮き彫りにしました。
日本オリンピック委員会 モスクワオリンピック
1982年

イスラエルが、15年間占領していたシナイ半島をエジプトに全面返還。

1982年4月25日、イスラエルが占領していたシナイ半島をエジプトに全面返還しました。
1979年に締結されたエジプト・イスラエル平和条約に基づき、イスラエルは1973年の第四次中東戦争以来占領していたシナイ半島を段階的に返還してきました。最終段階として1982年4月25日に完全返還が完了し、同地域には国連平和維持軍が展開されました。この返還は中東の平和構築における画期的な前進と評価され、エジプトとイスラエルの関係改善に寄与しました。一方でレバノン侵攻など地域内の緊張は続き、安定にはさらなる課題が残されました。
1982年 イスラエル シナイ半島 エジプト