紀元前404年
アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終結。
紀元前431年から続いたペロポネソス戦争でアテネがスパルタに降伏し、長年の抗争が終わりました。
紀元前431年から続いたギリシアの代表的な都市国家アテネとスパルタの戦いがようやく終結しました。
ペロポネソス戦争は古代ギリシア世界の勢力図を一変させ、文化・経済・政治に大きな影響を与えました。
アテネは長期戦と財政難に苦しみ、最終的にスパルタに降伏を余儀なくされました。
この結果、スパルタが一時的に覇権を握りましたが、その後の混乱期を招く一因ともなりました。
戦争の影響は地中海世界全体に及び、後のマケドニア台頭への道を開くことになりました。
紀元前404年
アテネ
スパルタ
ペロポネソス戦争
799年
暗殺されそうになった所を脱出したローマ教皇レオ3世が、フランク王カール1世(カール大帝)に保護を求める。
ローマ教皇レオ3世が暗殺未遂から逃れてカール大帝に保護を求めました。
カトリック教会最高位のレオ3世が、宮廷内の反対派の陰謀により暗殺未遂に遭いました。
一族や貴族の抗争に巻き込まれた教皇はローマを脱出し、フランク王国の宮廷へ向かいます。
その後、カール大帝の庇護を受けることで教皇の権威を確立し、教会と国家の関係に大きな影響を与えました。
この出来事が後の800年の戴冠へとつながり、ヨーロッパ中世の政治構造を形作る契機となりました。
教皇と皇帝の揺るぎない同盟関係は、中世ヨーロッパの宗教と政治の根幹を支えました。
799年
レオ3世
カール大帝
元暦2年3月24日
壇ノ浦の戦い。平氏一門が滅亡。
壇ノ浦の戦いで平氏一門が敗れ、源氏が日本の覇権を確立しました。
源平合戦の最終決戦として、瀬戸内海の壇ノ浦で行われました。
平氏の安徳天皇が海中に入水し、平家は滅亡しました。
一方、源氏の義経・頼朝らが勝利し、鎌倉幕府成立への道を開きます。
この戦いは軍事・政治の両面で源氏の優位を確立し、日本の中世政治体制を決定づけました。
戦場となった壇ノ浦は後世まで物語や伝説として語り継がれています。
1185年
元暦
3月24日
壇ノ浦の戦い
平氏
天正10年4月3日
甲州征伐: 織田信忠が武田家残党を匿った恵林寺を焼き討ち。快川紹喜らが焼死。
織田信忠が甲州征伐中に恵林寺を焼き討ちし、快川紹喜らが犠牲になりました。
1582年、織田信長の息子・信忠は武田家残党の討伐を命じられました。
武田家を保護していた甲斐の恵林寺を攻撃し、多くの僧侶が焼死しました。
禅僧の快川紹喜は「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の言葉で知られ、その殉教は後世に語り継がれます。
この事件は戦国末期の残虐さを象徴し、織田家の勢力拡大を物語ります。
同時に宗教施設が戦争の犠牲となった例として歴史に刻まれています。
1582年
天正
4月3日
甲州征伐
織田信忠
武田家
恵林寺
快川紹喜
慶長13年3月11日
征夷大将軍を辞した徳川家康が駿府城に移り住む。
徳川家康が征夷大将軍を退任し、駿府城に隠居しました。
慶長13年、家康は二代将軍秀忠に政務を譲り、自らは駿府(現在の静岡市)へ移りました。
表向きは隠居とされましたが、実質的には幕府の最高権力を保ったままの体制です。
この政権移行は徳川幕府の安定期の礎となり、以降の泰平の世を計画的に築きました。
隠居後の家康は外交や政策面で影響力を行使し、幕府の統治機構を強固にしました。
駿府城は文化的な交流の中心地ともなり、家康の後期政治の拠点となりました。
1608年
慶長
3月11日
征夷大将軍
徳川家康
駿府城
崇禎17年/永昌元年3月19日
李自成が率いる叛乱軍が北京を占領。崇禎帝が自害して明が滅亡。
李自成の乱で北京が陥落し、崇禎帝が自害して明が滅亡しました。
清朝建国前の混乱期に、農民反乱の指導者・李自成が北京城を攻略しました。
明の最後の皇帝・崇禎帝は景山で自刃し、長く続いた明朝は終焉を迎えます。
李自成は短期間ながら大順政権を樹立しましたが、各地で清朝軍の進撃に直面しました。
その後、清朝が中国大陸を完全に掌握し、新たな政権が成立します。
中国の歴史が大きく転換した重要な節目として知られています。
1644年
崇禎
永昌
3月19日
李自成
崇禎帝
明
1719年
ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』が刊行。
ダニエル・デフォーによる小説『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』が初めて刊行されました。
無人島に漂着した主人公ロビンソン・クルーソーの生存記録を描写しています。
近代小説の起源ともされ、リアリズム文学の先駆けと評価されています。
刊行後すぐにベストセラーとなり、多数の翻訳版が制作されました。
その物語性と冒険描写が読者を魅了し、冒険文学の定番となりました。
以降のサバイバルものや探検記ジャンルに大きな影響を与えました。
1719年
ダニエル・デフォー
ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険
1792年
ジョゼフ・ギヨタンの提案により「単なる機械装置の作用(ギロチン)」による死刑の執行がフランス国民議会で採択。
フランス国民議会がギヨタンの提案を採択し、ギロチンによる死刑が導入されました。
人道的死刑の名目で、機械装置による即時死を目指した斬新な執行方法です。
従来の絞首刑や斬首刑に比べて苦痛を軽減するとされました。
ギロチンはフランス革命期の象徴的な装置となり、数万人の処刑に使用されました。
その残虐性と合理性が議論を呼び、近代刑罰制度の一端を担う存在となります。
以降、ヨーロッパ各地にも広まり、19世紀まで多くの国で使用され続けました。
1792年
ジョセフ・ギヨタン
ギロチン
1792年
フランス軍の工兵部隊大尉ルジェ・ド・リールがライン方面軍のための行進曲「ラ・マルセイエーズ」(後のフランス国歌)を完成。
ルジェ・ド・リールが行進曲『ラ・マルセイエーズ』を完成させました。
フランス革命期の国家的士気高揚を目的とした楽曲として制作されました。
当初はライン軍の士気を鼓舞するための軍歌でしたが、後に全国的に支持されました。
1795年にフランス国歌に正式採用され、現在に至るまで歌い継がれています。
激しいリズムと愛国的な歌詞が革命の象徴となり、多くの芸術家に影響を与えました。
世界各国の国歌の中でも、演奏機会が最も多い楽曲の一つとされています。
ルジェ・ド・リール
ラ・マルセイエーズ
1846年
米墨戦争勃発。
米墨戦争が勃発し、アメリカとメキシコの戦端が開かれました。
アメリカ合衆国とメキシコ合衆国の領土問題を巡る武力衝突です。
テキサス併合後、両国の国境線をめぐる争いが激化しました。
アメリカ軍は優勢な兵力と物資で攻勢に転じ、メキシコ領内へ侵攻しました。
戦争の結果、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約でアメリカが広大な領土を獲得しました。
この紛争はアメリカ西部開拓とメキシコの政治的混乱に大きな影響を与えました。
1846年
米墨戦争
安政5年3月12日
廷臣八十八卿列参事件。
1858年(安政5年)3月12日、尊王攘夷派の廷臣88名が老中会議への列参を要求した政治事件です。
1858年(安政5年)3月12日、幕府が日米修好通商条約などの対外条約を調印した直後、尊王攘夷派の廷臣88名が老中会議への列参を要求しました。
彼らは朝廷主導による国政運営と外国勢力排除を訴えました。
幕府との対立が深まり、攘夷運動の高まりと幕末動乱の一端を象徴する事件となりました。
この事件は尊王攘夷思想が公家社会にも浸透していたことを示しています。
1858年
安政
3月12日
廷臣八十八卿列参事件
1859年
スエズ運河が起工。
欧州とアジアを結ぶスエズ運河の建設が1859年に正式に始まりました。
1859年4月25日、エジプトのスエズ地峡でスエズ運河の起工式が執り行われました。
運河は地中海と紅海を結ぶ全長約163キロメートルの人工水路として計画され、航路短縮や貿易促進を目指しました。
フランス人技師フェルディナン・ド・レセップスが主体となり建設が進められ、1869年に完成しました。
このプロジェクトは19世紀の土木技術の粋を集めた大規模事業として知られています。
1859年
スエズ運河