明昌3年3月11日

盧溝河の盧溝橋が完成。

1192年、中国河北省の盧溝河にかかる盧溝橋が完成しました。
金朝の明昌3年、河北省の盧溝河にかかる交通と軍事の要衝として盧溝橋が完成しました。 この橋は石造りの多連アーチ構造で、全長約266メートルに及びます。 建設には多くの技術者と労働力が動員され、当時の高度な土木技術を示す貴重な遺構です。 要衝として幾度も戦場となり、後に「マルコ・ポーロ橋」として西洋に紹介されました。 現在も修復を重ねながら交通路として機能し、観光地としても知られています。
1192年 明昌 3月11日 盧溝河 盧溝橋
明和8年3月10日

八重山地震発生。津波により死者・行方不明者112,000人。

1771年、八重山諸島を襲った大規模な地震と津波により約11万2000人が亡くなりました。
1771年3月、八重山諸島周辺でマグニチュード8弱と推定される地震が発生しました。 直後に襲来した津波は最大で数十メートルに達し、多くの集落を壊滅させました。 被害は沖縄本島にも及び、死者・行方不明者は約11万2000人と記録されています。 当時の人口に対する被害率は非常に高く、地域社会に深刻な打撃を与えました。 この地震と津波は後世においても日本で最悪級の自然災害の一つとされています。
1771年 明和 3月10日 八重山地震 津波
1800年

アメリカ議会図書館設立。

1800年、アメリカ合衆国議会図書館(Library of Congress)が設立され、国家の知の中枢が誕生しました。
1800年4月24日、アメリカ合衆国議会図書館(Library of Congress)が正式に設立されました。 当初の蔵書は2200冊足らずでしたが、設立以来増加を続け、現在では世界最大級の図書館となっています。 議会の立法活動を支援することが主な目的で、科学、歴史、文学など多岐にわたる資料を収集しています。 設立当初は上院議事堂内に置かれ、その後独立した建物へ移転されました。 アメリカの知的財産と文化遺産を保護・公開する重要な機関として機能しています。
1800年 アメリカ議会図書館
嘉永7年3月27日

吉田松陰が金子重之輔とともにペリー艦隊への密航を試みるが失敗。翌日幕吏に捕縛される。

1854年、吉田松陰と金子重之輔がペリー艦隊への密航を試みるも失敗し、幕府に捕縛されました。
嘉永7年3月27日(1854年4月24日)、吉田松陰と門下の金子重之輔はペリー艦隊への密航を計画しました。 松陰は海外視察と開国交渉のため艦船へ忍び込もうと試みましたが、警備に阻まれて失敗しました。 翌日には幕府の役人に捕縛され、松陰は萩に幽閉されることになります。 この事件は松陰の海外学習への強い意志を示し、後の明治維新運動への道筋を形作りました。 拘禁中にも多くの書簡を残し、後世に大きな影響を与えました。
1854年 嘉永 3月27日 吉田松陰 金子重之輔 ペリー
文久2年3月26日

澤村惣之丞とともに旧暦3月24日に高知を出奔した坂本龍馬が、那須俊平・信吾父子の案内で伊予の国(愛媛)に脱藩した。

1862年、坂本龍馬が那須俊平・信吾父子の助けを借り、土佐藩を脱藩して伊予国へ逃れました。
文久2年3月26日(1862年4月24日)、坂本龍馬は澤村惣之丞とともに土佐を脱藩しました。 那須俊平・信吾父子の案内で高知を出奔し、伊予の国(現在の愛媛県)へ向かいました。 脱藩は藩の法を破る行為であり、龍馬は幕府の追捕を逃れるため険しい道を選びました。 この行動は後に龍馬が攘夷派から革新派へ転身する転機となり、幕末の動乱期に大きな影響を与えました。 脱藩後の龍馬は長崎や江戸で活動を広げ、維新志士として名を馳せました。
1862年 文久 3月26日 3月24日 坂本龍馬 那須俊平 信吾 伊予の国
1877年

ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告。露土戦争勃発。

1877年、ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告し、露土戦争が勃発しました。
1877年4月24日、ロシア帝国はオスマン帝国に宣戦布告し、露土戦争(第1次バルカン戦争)が始まりました。 この戦争はバルカン半島を巡る勢力均衡とナショナリズムの高まりが背景にありました。 ロシアはスラブ系諸民族の解放を掲げ、オスマン帝国領内へ進軍しました。 戦闘はマルマラ海沿岸からバルカン山脈にまで及び、多くの犠牲者を出しました。 1878年のサン=ステファノ条約によって一度終結しましたが、欧州列強の介入で領土割譲は修正されました。
1877年 ロシア帝国 オスマン帝国 露土戦争
1898年

この年の4月22日に行なわれた日本の要求に基づき清が福建省の不割譲を宣言。

1898年、日本の要求を受けて清朝が福建省を割譲しないと宣言しました。
1898年4月24日、清朝政府は日本の要求に基づき福建省を割譲しないと公式に宣言しました。 これは甲午農民戦争後の台湾割譲や影響圏拡大を巡る中日間の外交交渉の一環でした。 日本は列強による影響力拡大を警戒し、福建省における権益を強化しようとしていました。 清朝は国内の情勢不安や列強の圧力を背景に強硬姿勢を示し、日清関係は緊張を深めました。 この宣言は後の両国関係悪化と義和団の乱や日清戦争へとつながる伏線ともなりました。
1898年 4月22日 日本 福建省 不割譲
1913年

ニューヨークの超高層ビル・ウールワースビルが開業。

1913年、ニューヨークに超高層ビル・ウールワースビルが開業し、当時世界一の高さを誇りました。
1913年4月24日、ニューヨーク市マンハッタンにウールワースビルが開業しました。 当時世界一の高さを誇る超高層ビルとして注目を集めました。 建築家キャス・ギルバートによるゴシックリバイバル様式の外観は「商業の大聖堂」と称されました。 鉄骨構造を採用し、摩天楼建設の先駆的な存在となりました。 完成当時は多くの訪問者が見学に訪れ、都市の象徴としてニューヨークの景観を一変させました。
1913年 ニューヨーク ウールワースビル
1915年

青年トルコ革命: イスタンブールで250人のアルメニア人独立活動家が殺害される。アルメニア人虐殺の始まり。

1915年、イスタンブールでアルメニア人独立活動家約250人が殺害され、組織的虐殺の始まりとされています。
1915年4月24日、オスマン帝国のイスタンブールで青年トルコ政府により約250人のアルメニア人知識人・活動家が逮捕・虐殺されました。 この事件はアルメニア人に対する組織的迫害の先駆けとされ、のちのアルメニア人虐殺(ジェノサイド)へとつながります。 第一次世界大戦中の緊張下でトルコ政府は国内少数民族の排斥政策を強化しました。 当初は逮捕・処刑を通じて民族的指導層の撲滅を狙い、その後大規模な強制移住と虐殺が行われました。 この出来事は国際的に人権問題として認識され、今日まで歴史的論争の焦点となっています。
1915年 青年トルコ革命 イスタンブール アルメニア人 アルメニア人虐殺
1916年

イースター蜂起。アイルランドで急進的な反英独立を掲げるシン・フェイン党が蜂起。

1916年、アイルランドで急進派シン・フェイン党がイースター蜂起を起こし、反英独立運動が本格化しました。
1916年4月24日(イースター日)、アイルランドのダブリンでシン・フェイン党を中心とした反英独立派がイースター蜂起を宣言しました。 参加者は郵便局や市街地の要所を占拠し、即時独立を要求しました。 イギリス軍は迅速に鎮圧に動き、約500人が死亡しました。 蜂起自体は失敗に終わりましたが、後の独立運動に大きな影響を与えました。 この出来事はアイルランド革命への道を切り拓き、最終的に独立を実現する原動力となりました。
1916年 イースター蜂起 アイルランド シン・フェイン党
1921年

日本で初の女性による社会主義団体赤瀾会が結成。

1921年に日本で初めて女性のみの社会主義団体「赤瀾会」が結成され、女性の政治参加を求める動きが始まりました。
赤瀾会は当時の社会主義思想に基づき、労働者や女性の権利向上を目指して設立されました。主に東京を活動拠点とし、会合や出版活動を通じて社会構造の変革を訴えました。創設メンバーにはさまざまな女性活動家が名を連ね、同時期の労働運動にも大きな影響を与えました。国内では女性の政治的役割に対する議論を喚起し、その後のフェミニズム運動にもつながりました。数年の活動を経て解散しましたが、日本の女性運動史において重要な一章を刻みました。
1921年 赤瀾会
1926年

ドイツ・ヴァイマル共和国とソビエト連邦がベルリン条約(独ソ友好中立条約)を締結。

1926年、ドイツ・ワイマール共和政とソビエト連邦が相互不可侵と友好を定めたベルリン条約を締結しました。
1926年4月24日、ドイツ・ワイマル共和国とソビエト連邦はベルリン条約を締結しました。この条約は相互不可侵と友好中立を規定し、両国間の緊張緩和を図るものでした。当時の欧州ではロカルノ条約など西側との関係が進む一方、独ソ関係は後れを取っていました。本条約の締結により、ドイツは東方外交を活性化させ、ソ連は欧州における安全保障を強化しました。国際政治の力学に影響を与え、第二次世界大戦前の緊張緩和策の一つとして評価されています。
1926年 ドイツ・ヴァイマル共和国 ソビエト連邦 ベルリン条約