弘化4年3月9日

京都御所建春門前に公家の学問所・学習院が開設され、講義を開始。

1847年、京都御所近くに公家の学問所「学習院」が開設され、近代日本の教育の萌芽となりました。
1847年4月23日(弘化4年3月9日)、京都御所建春門前に公家の子弟を対象とした学問所・学習院が開設されました。 幕末期の日本で西洋学や漢学を取り入れた講義が行われ、知識人の育成を目指しました。 設立当初から多彩な講師が招聘され、政務や学術分野の基礎教育が進められました。 この学習院は後に明治維新を経て発展し、現在の学習院大学や学習院女子大学の源流となります。 日本近代教育史における先駆的存在として評価されています。
1847年 弘化 3月9日 京都御所 学習院
明治4年3月4日

慶應義塾(現在の慶應義塾大学)が、校舎を新銭座(現・港区浜松町)から三田に移転。

1871年、福澤諭吉が創設した慶應義塾(現・慶應義塾大学)が港区から三田へ校舎を移転しました。
1871年4月23日(明治4年3月4日)、慶應義塾は東京・新銭座(現在の港区浜松町)から三田へ校舎を移転しました。 福澤諭吉の教育理念に基づき、西洋の学問と実学を融合させた教育が展開されました。 新たな校舎では英語教育や法律、経済学が本格的に導入され、学生数も増加しました。 この移転は慶應義塾の発展とともに近代日本の学術・文化の発展に寄与しました。 慶應義塾は後に大学へと昇格し、日本を代表する私立大学として知られるようになりました。
1871年 3月4日 慶應義塾大学
1942年

横浜市中区常盤町1丁目YMCAの一部を仮校舎として横浜中学校開校式を挙行。

横浜中学校がYMCAの仮校舎で開校式を行い、戦時下の教育が新たに始動しました。
1942年4月23日、横浜市中区常盤町のYMCA一部を仮校舎として横浜中学校が開校。 太平洋戦争下の教室不足を補うために民間施設を活用。 資材不足や校舎不足という困難の中で授業を開始。 地域住民やYMCA関係者の支援で教育活動が維持された。 戦後の学校拡充や復興教育の礎となる取り組みとされています。
1942年 横浜市 中区 YMCA 横浜中学校
1962年

大規模な海運ストライキが発生。海員組合が週48時間労働を要求したもので49港で822隻が停船。同年5月10日に妥結。

1962年4月23日、海員組合が週48時間労働を求めて49港で大規模な海運ストライキを実施し、822隻の船舶が停船しました。
日本全国の主要港で海運業従事者がストライキを決行し、貨物船や旅客船を含む822隻が停船しました。 組合側は週48時間労働や賃金改善を要求し、国内外貿易に深刻な影響を与えました。 ストライキは約2週間続き、物流の混乱で荷主や企業からも社会的関心が高まりました。 4月末には政府や船主側との交渉が本格化し、同年5月10日に労働条件の見直しで妥結しました。 この事件は労働組合運動の強化や労働時間短縮の議論に一石を投じるきっかけとなりました。
1962年 海運 ストライキ 5月10日
1969年

高校生首切り殺人事件。

1969年4月23日、当時の高校生による凄惨な殺人事件が発覚し、社会に大きな衝撃を与えました。
当時高校生の加害者による凄惨な殺人事件で、被害者の首が切断されるという残忍な内容が世間を震撼させました。 事件は大手新聞やテレビで大きく報道され、少年犯罪への社会的関心が高まりました。 学校現場では生徒指導の強化やカウンセリング体制の整備が検討されるようになりました。 司法の場では未成年者の刑事責任と処遇のあり方について論争が巻き起こりました。 この事件は少年犯罪問題を浮き彫りにし、その後の非行防止施策の見直しに影響を与えました。
1969年 高校生首切り殺人事件
1994年

井の頭公園バラバラ殺人事件。

1994年4月23日、東京都武蔵野市の井の頭公園で遺体が発見されたバラバラ殺人事件が起き、大きな衝撃を与えました。
公園内で遺体の一部が見つかり、後にバラバラに切断された被害者が確認されました。 捜査は難航し、現場検証や司法解剖が繰り返されました。 事件の残忍さから報道は連日大々的に行われ、地域住民に不安をもたらしました。 捜査当局はDNA鑑定や指紋照合など最新技術を駆使して捜査を進めました。 この事件は都内の公園の安全対策や心理的ケアの必要性を浮き彫りにしました。
1994年 井の頭公園バラバラ殺人事件
2006年

終戦後もウクライナで生活していた元日本軍兵士上野石之助が63年ぶりに一時帰国。

第二次世界大戦終戦後もウクライナに滞在していた元日本兵・上野石之助氏が63年ぶりに一時帰国した日です。
終戦後、シベリア抑留を経た上野石之助氏はウクライナに定住し、約60年以上を現地で過ごしました。2006年4月23日、長年の願いだった祖国日本への一時帰国を果たしました。上野氏は出迎えた友人やメディアに囲まれ、帰国の喜びを語りました。この帰国は戦後世代や抑留者問題に関心を喚起し、歴史的な証言として注目を集めました。
2006年 日本軍 上野石之助
2015年

アルメニア人虐殺から100年を迎えることに伴い、アルメニア使徒教会がジェノサイド犠牲者約150万人を殉教者として列聖。

アルメニア人虐殺から100年を迎え、アルメニア使徒教会が犠牲者約150万人を殉教者として列聖した日です。
2015年4月23日、第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺の100周年を迎え、アルメニア使徒教会は約150万人とされる犠牲者を殉教者として列聖しました。この列聖は宗教的意義だけでなく、虐殺の認識と記憶を後世に伝える象徴的な行為となりました。アルメニア国内外で記念ミサが行われ、世界中のアルメニア人コミュニティが参加しました。虐殺の歴史的事実は今なお一部の国で議論の対象ですが、この列聖は犠牲者への敬意を示す重要な一歩と受け止められています。
2015年 アルメニア人虐殺 アルメニア使徒教会 ジェノサイド 殉教 列聖