1775年

レキシントン・コンコードの戦い: ボストン市北西のコンコードで英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ独立戦争開戦の契機となる。

レキシントン・コンコードの戦いは、英軍と植民地民兵が衝突し、アメリカ独立戦争の火ぶたを切った出来事です。
1775年4月19日、マサチューセッツ湾植民地で英軍と植民地側の民兵が初めて武力衝突しました。 英軍は武器の押収を目的に進軍し、民兵はこれを阻止しようと迎撃態勢を敷きました。 早朝の発砲はアメリカ独立戦争の始まりとされ、レキシントンとコンコードで断続的な戦闘が続出しました。 両軍合わせて数十名の犠牲者が出て、植民地側の結束を強める契機となりました。 この戦いは本国との関係を決定的に悪化させ、他の植民地の支持を得る足がかりとなりました。 以後、この出来事はアメリカ独立神話の象徴として語り継がれています。
1775年 レキシントン・コンコードの戦い ボストン市 アメリカ独立戦争
1903年

ロシア・キシナウで大規模なユダヤ人迫害(ポグロム)が発生。

ロシア帝国領キシナウで大規模なユダヤ人虐殺(ポグロム)が発生しました。
1903年4月19日、当時ロシア帝国領のキシナウ(現モルドバ)でユダヤ人に対する暴動が勃発しました。 地元キリスト教徒の暴徒が群衆を率いてユダヤ人地区を襲撃し、商店や住宅を略奪・放火しました。 数十名の死者と百名以上の負傷者が出る大惨事となり、国際社会の強い非難を浴びました。 ロシア政府の消極的対応はユダヤ人の不信を深め、以後の大量移民を招く要因となりました。 この事件は反ユダヤ主義の象徴として記憶され、シオニズム運動にも影響を与えました。
1903年 ロシア キシナウ ポグロム
1943年

第二次世界大戦: ワルシャワ・ゲットー蜂起が勃発。

第二次世界大戦中の1943年、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人による抵抗蜂起が勃発しました。 ナチス支配下での象徴的な反抗です。
1943年4月19日、ドイツ占領下のポーランド・ワルシャワでワルシャワ・ゲットー蜂起が始まりました。 ユダヤ人住民はナチスによる強制収容や絶滅政策に対し、自衛と尊厳を守るために武装して立ち上がりました。 蜂起は約1か月にわたり断続的に続き、ゲットー内のバリケードや地下トンネルが戦場となりました。 最終的にドイツ軍の圧倒的な物量により鎮圧され、多くの犠牲者とともにゲットーは壊滅しました。 この蜂起はホロコーストに対する抵抗の象徴として、後世に大きな影響を与えました。
1943年 第二次世界大戦 ワルシャワ・ゲットー蜂起
1961年

ピッグス湾への侵攻が失敗に終わる。

1961年4月19日、CIA支援のキューバ亡命軍がピッグス湾侵攻を試みたが、失敗に終わった。
ピッグス湾侵攻作戦(オペレーション・ザパタ)は1961年4月17日から20日にかけて行われ、アメリカ中央情報局(CIA)が訓練・支援したキューバ亡命軍がバティスタ政権打倒を狙って上陸しました。4月19日に決定的な戦闘が発生しましたが、フィデル・カストロ政権軍に包囲され、ほぼ全滅の形で敗北しました。事件はケネディ大統領の政治的打撃となり、アメリカとソ連の冷戦対立を一層激化させました。秘密工作と国際法の問題点も浮き彫りにした歴史的事件です。
ピッグス湾への侵攻
1970年

コロンビアで大統領選挙。保守党のミサエル・パストラーナ・ボレロが軍事政権時代の指導者グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍に僅差で勝利。野党勢力は不正選挙として大規模な抗議行動。ゲリラ組織4月19日運動 (M 19) 結成の契機となる。

1970年4月19日、コロンビア大統領選で僅差の勝利が不正選挙疑惑を呼び、大規模抗議とゲリラ組織M19結成の契機となった。
1970年4月19日に実施されたコロンビア大統領選挙では、保守党候補ミサエル・パストラーナ・ボレロが軍事政権時代の指導者グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍を僅差で破りました。野党は投票操作や不正を主張し、首都ボゴタを中心に大規模なデモが発生しました。これに触発されて後のゲリラ組織「4月19日運動(M19)」が同年に結成され、国内紛争の一翼を担う存在となりました。M19は都市ゲリラとして活動し、コロンビア内戦に新たな局面をもたらしました。
1970年 コロンビア 軍事政権 グスタボ・ロハス・ピニージャ ゲリラ 4月19日運動
1993年

米テキサス州・ウェーコのブランチ・ダビディアン本部にFBIの特殊部隊が突入、本部が炎上し児童25名を含む81名が死亡した。

1993年4月19日、テキサス州ウェーコでFBI特殊部隊がブラ ンチ・ダビディアン本部に突入し、建物が炎上、信者ら81名が死亡した。
1993年4月19日、テキサス州ウェーコ郊外の宗教団体ブランチ・ダビディアン本部に米司法省捜査局(FBI)の特殊部隊が突入した。約2か月にわたるATFとの銃撃戦と包囲の末、催涙ガスを使用した強制排除作戦が実施され、本部施設が大規模に炎上した。火災により成人56名、児童25名を含む計81名が死亡し、米国内外で激しい論争を呼んだ。政府の対応や情報公開の不徹底が批判され、後に複数の調査報告書が公表された。事件は宗教の自由と国家権力の行使をめぐる重要な問題提起となった。
1993年 テキサス州 ウェーコ ブランチ・ダビディアン FBI
1995年

オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件: 米オクラホマシティのアルフレッド・P・マラー連邦ビルで爆弾テロが発生、168人が死亡。

1995年4月19日、オクラホマシティのアルフレッド・P・マラー連邦ビルが爆破され、168人が死亡した。
1995年4月19日、オクラホマシティ連邦政府ビル(アルフレッド・P・マラー連邦ビル)前に設置されたトラック爆弾が爆発し、168名が死亡、近隣住民や救助隊を含む数百名が負傷した。犯行はティモシー・マクベイらによる国内テロとされ、米国内で最悪のテロ事件の一つとなった。事件後、連邦政府はテロ対策法の強化を図り、連邦ビル周辺のセキュリティ基準を大幅に厳格化した。被害者支援のための基金が設立され、追悼式典や記念碑がオクラホマ州に設けられた。今日も犠牲者を忘れないための地域コミュニティ活動が継続している。
1995年 オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件 オクラホマシティ アルフレッド・P・マラー連邦ビル