永暦元年3月11日

平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流される。

平治の乱で敗北した源頼朝は伊豆へ流罪となり、その後の鎌倉幕府成立への伏線を作りました。
平治の乱は平清盛と源氏氏族の勢力争いとして発生しました。 頼朝は挙兵しましたが、平氏の強大な軍事力に敗れて伊豆に流罪となりました。 伊豆での配流生活では地元豪族と関係を築き、後の鎌倉幕府設立の礎となる人脈を得ました。 この挫折と再起は源頼朝の人間形成に大きな影響を与え、日本史における武家政権の幕開けにつながりました。 源頼朝の流罪は日本中世の歴史を変える重要な転機となりました。
1160年 永暦 3月11日 平治の乱 源頼朝 伊豆
嘉暦元年3月16日

北条高時の出家に伴い、北条貞顕が鎌倉幕府第15代執権に就任。10日後に退任。

北条高時の出家により、北条貞顕が第15代執権に就任しましたが、その在任期間はわずか10日でした。
鎌倉幕府の得宗家では得宗長が執権として実権を握っていました。 1326年、14代執権北条高時が出家して政務を退くと、北条貞顕が後を継ぎました。 しかし貞顕の執権在任期間はわずか10日間にとどまり、その短期就任は記録的です。 この一連の人事は幕府内部の権力構造を象徴し、得宗家の動向に大きな影響を与えました。 貞顕退任後も幕府の政治は混乱期を迎え、後の動乱の土台となりました。
1326年 嘉暦 3月16日 北条高時 北条貞顕 鎌倉幕府 執権
1783年

ロシア帝国によるクリミア・ハン国の併合。

エカチェリーナ2世の命でロシア帝国がクリミア・ハン国を併合し、黒海沿岸支配を強化しました。
クリミア・ハン国は15世紀以来オスマン帝国の緩衝国として独立を保っていました。 1783年、ロシア皇帝エカチェリーナ2世はクリミア併合を宣言し、正式に版図に組み込みました。 これによりロシアの黒海進出が飛躍的に進み、オスマン帝国との勢力均衡が大きく変化しました。 併合後、地元タタール人社会はロシアの統治下に置かれ、以後の民族対立の火種を残しました。 この出来事は19世紀ヨーロッパ勢力圏争いの重要な転換点とされています。
1783年 ロシア帝国によるクリミア・ハン国の併合
1928年

田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定。

田中義一内閣が中国国民革命軍の北伐再開に対応し、第二次山東出兵を決定しました。 日中関係に新たな緊張が生まれた出来事です。
1928年4月19日、田中義一内閣は北伐を再開した中国・国民革命軍に対抗するため、第二次山東出兵を決定しました。 この出兵は山東省に駐留する日本勢力の保護を目的とし、中国との軍事的緊張を高める結果となりました。 背景には第一次山東出兵後の条約失効と、中国側の勢力拡大がありました。 国内では軍部の発言力拡大が議論を呼び、政党政治への影響が懸念されました。 国際的にも日本の軍事介入として注目され、後の中日関係に暗い影を落とす出来事となりました。
1928年 田中義一内閣 国民革命軍 北伐 第二次山東出兵
1948年

ミャンマーが国際連合に加盟。

ミャンマー(当時はビルマ)が国連に加盟し、国際社会への参加を果たしました。 新興独立国家の重要な一歩です。
ミャンマーは1948年1月4日にイギリスから独立を達成しました。 同年4月19日に国際連合に正式加盟し、加盟国として国際協調の枠組みに加入しました。 UN加盟により新国家としての主権が国際的に認められ、援助や外交関係の拡大が可能となりました。 当時のミャンマー政府は非同盟運動の理念を重視し、東西冷戦の中でバランス外交を展開しました。 この加盟はアジア諸国の独立と国際参画の潮流を象徴する出来事となりました。
1948年 ミャンマー
1951年

ダグラス・マッカーサーが軍を退役、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の一節で知られる記念演説を行う。

ダグラス・マッカーサー元帥が軍を退役し、有名な『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』の演説を行いました。 戦後日本を指揮した最高司令官の華々しい別れの辞です。
1951年4月19日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは米陸軍を退役しました。 ワシントンD.C.のアーミー・ネイヴィー・クラブで記念演説を行い、古くからの軍人仲間を前に語りかけました。 演説中の「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という一節は、旧友への敬意と退役後の心境を象徴する言葉として広く知られています。 マッカーサーはその後も朝鮮戦争や国際政治に影響を与え続け、日本占領政策の立案者としても評価されています。 この演説は戦後アメリカ軍史に残る名演説とされています。
1951年 ダグラス・マッカーサー
1953年

第26回衆議院議員総選挙。第1回総選挙以来63年間議席を守ってきた尾崎行雄が落選。

第26回衆議院議員総選挙で、63年間議席を守ってきた尾崎行雄がついに落選した衝撃の選挙戦。
第26回衆議院議員総選挙は1953年4月19日に行われ、尾崎行雄は第1回総選挙以来の連続当選記録を63年間にわたり保持していました。結果、自身の地盤で落選し「憲政の神」と称された政治家の時代が終わりを迎えました。選挙は保守勢力優位で進みつつも、戦後政治の節目として注目されました。尾崎の落選は戦前から存続した政治家が政界を去る象徴的な出来事とされ、後の議会政治にも影響を与えました。
1953年 第26回衆議院議員総選挙 尾崎行雄
1960年

四月革命: 韓国・ソウルで学生数千人が大統領選挙の無効と李承晩独裁政権打倒を叫び行進。

1960年4月19日、韓国ソウルで数千人の学生が李承晩大統領の独裁に抗議し、無効とされた大統領選挙撤回を求める大規模デモが発生。
四月革命は1960年4月19日に韓国の首都ソウルで始まりました。学生を中心とした市民数千人が不正とされた大統領選挙の無効化を訴え、平和的な行進を展開。警官隊との衝突も発生しながら抗議は全国に波及しました。結果として李承晩大統領は政権を維持できず、翌月には辞任を余儀なくされました。この革命は韓国民主化運動の先駆けとなり、後の市民社会に大きな影響を与えました。
1960年 四月革命 韓国 ソウル 李承晩
1961年

ハーバード大学教授で知日派のエドウィン・ライシャワーが駐日大使に着任。

1961年4月19日、知日派学者エドウィン・ライシャワーが駐日アメリカ大使に着任し、日米関係強化を図った。
エドウィン・ライシャワーはハーバード大学教授として日本研究の第一人者でした。1961年4月19日に駐日アメリカ大使として着任し、冷戦下の日米安全保障体制の強化や文化交流の拡大に尽力しました。学者としての見識を生かし、両国の相互理解を深める役割を果たし、日本国内でも高い評価を受けました。その後の日本政治や学術界における米国のイメージ形成に影響を与えた重要な外交官です。
1961年 ハーバード大学 エドウィン・ライシャワー
1970年

コロンビアで大統領選挙。保守党のミサエル・パストラーナ・ボレロが軍事政権時代の指導者グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍に僅差で勝利。野党勢力は不正選挙として大規模な抗議行動。ゲリラ組織4月19日運動 (M 19) 結成の契機となる。

1970年4月19日、コロンビア大統領選で僅差の勝利が不正選挙疑惑を呼び、大規模抗議とゲリラ組織M19結成の契機となった。
1970年4月19日に実施されたコロンビア大統領選挙では、保守党候補ミサエル・パストラーナ・ボレロが軍事政権時代の指導者グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍を僅差で破りました。野党は投票操作や不正を主張し、首都ボゴタを中心に大規模なデモが発生しました。これに触発されて後のゲリラ組織「4月19日運動(M19)」が同年に結成され、国内紛争の一翼を担う存在となりました。M19は都市ゲリラとして活動し、コロンビア内戦に新たな局面をもたらしました。
1970年 コロンビア 軍事政権 グスタボ・ロハス・ピニージャ ゲリラ 4月19日運動
1971年

シエラレオネが英連邦王国から共和制に移行する。

1971年4月19日、シエラレオネが英連邦王国から共和制に移行し、国の制度を刷新した。
1961年に英国から独立したシエラレオネは当初、英連邦王国として国王を国家元首とする体制を維持していました。1971年4月19日の憲法改正により共和制へ移行し、当時の首相シアカ・スティーブンズが初代大統領に就任しました。共和制の導入は国家主権の明確化と政治的安定を目的とし、新たな国旗や国歌も採用されました。こうしてシエラレオネは英連邦共和国の一員として歩みを進めることになりました。
シエラレオネ 英連邦王国 共和制
1984年

俳優の長谷川一夫と冒険家の植村直己に国民栄誉賞が贈られる。

1984年4月19日、俳優の長谷川一夫と冒険家の植村直己が国民栄誉賞を受賞した。
1984年4月19日、政府は映画俳優の長谷川一夫と登山家・探検家の植村直己に国民栄誉賞を授与した。長谷川は昭和期を代表する名優として数々の映画や舞台で活躍し、国民に深い感動を与えた。植村は単独徒歩北極点到達やエベレスト無酸素登頂など数々の偉業を成し遂げ、日本のアウトドア精神を世界に示した。国民栄誉賞は功績が国民に広く称賛される人物に対し贈られるもので、両者の功績は高く評価された。授与式では首相からの賞状伝達が行われ、テレビ中継でも放映された。
1984年 長谷川一夫 植村直己 国民栄誉賞