永暦元年3月11日
平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流される。
平治の乱で敗北した源頼朝は伊豆へ流罪となり、その後の鎌倉幕府成立への伏線を作りました。
平治の乱は平清盛と源氏氏族の勢力争いとして発生しました。
頼朝は挙兵しましたが、平氏の強大な軍事力に敗れて伊豆に流罪となりました。
伊豆での配流生活では地元豪族と関係を築き、後の鎌倉幕府設立の礎となる人脈を得ました。
この挫折と再起は源頼朝の人間形成に大きな影響を与え、日本史における武家政権の幕開けにつながりました。
源頼朝の流罪は日本中世の歴史を変える重要な転機となりました。
1160年
永暦
3月11日
平治の乱
源頼朝
伊豆
嘉暦元年3月16日
北条高時の出家に伴い、北条貞顕が鎌倉幕府第15代執権に就任。10日後に退任。
北条高時の出家により、北条貞顕が第15代執権に就任しましたが、その在任期間はわずか10日でした。
鎌倉幕府の得宗家では得宗長が執権として実権を握っていました。
1326年、14代執権北条高時が出家して政務を退くと、北条貞顕が後を継ぎました。
しかし貞顕の執権在任期間はわずか10日間にとどまり、その短期就任は記録的です。
この一連の人事は幕府内部の権力構造を象徴し、得宗家の動向に大きな影響を与えました。
貞顕退任後も幕府の政治は混乱期を迎え、後の動乱の土台となりました。
1326年
嘉暦
3月16日
北条高時
北条貞顕
鎌倉幕府
執権
1775年
レキシントン・コンコードの戦い: ボストン市北西のコンコードで英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ独立戦争開戦の契機となる。
レキシントン・コンコードの戦いは、英軍と植民地民兵が衝突し、アメリカ独立戦争の火ぶたを切った出来事です。
1775年4月19日、マサチューセッツ湾植民地で英軍と植民地側の民兵が初めて武力衝突しました。
英軍は武器の押収を目的に進軍し、民兵はこれを阻止しようと迎撃態勢を敷きました。
早朝の発砲はアメリカ独立戦争の始まりとされ、レキシントンとコンコードで断続的な戦闘が続出しました。
両軍合わせて数十名の犠牲者が出て、植民地側の結束を強める契機となりました。
この戦いは本国との関係を決定的に悪化させ、他の植民地の支持を得る足がかりとなりました。
以後、この出来事はアメリカ独立神話の象徴として語り継がれています。
1775年
レキシントン・コンコードの戦い
ボストン市
英
米
アメリカ独立戦争
1783年
ロシア帝国によるクリミア・ハン国の併合。
エカチェリーナ2世の命でロシア帝国がクリミア・ハン国を併合し、黒海沿岸支配を強化しました。
クリミア・ハン国は15世紀以来オスマン帝国の緩衝国として独立を保っていました。
1783年、ロシア皇帝エカチェリーナ2世はクリミア併合を宣言し、正式に版図に組み込みました。
これによりロシアの黒海進出が飛躍的に進み、オスマン帝国との勢力均衡が大きく変化しました。
併合後、地元タタール人社会はロシアの統治下に置かれ、以後の民族対立の火種を残しました。
この出来事は19世紀ヨーロッパ勢力圏争いの重要な転換点とされています。
1783年
ロシア帝国によるクリミア・ハン国の併合
1880年
米国の宣教師ヘボンらによる新約聖書の日本語訳が完成し、東京の新栄橋教会(現新栄教会)で祝賀会が催される。
宣教師ヘボンらが日本初の新約聖書日本語訳を完成し、祝賀会が開催されました。
1880年、米国人宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンらは新約聖書全巻の日本語訳を完成させました。
翻訳には当時の口語調や漢字平仮名交じり文を採用し、理解しやすさを追求しました。
完成後、新栄橋教会(現新栄教会)で盛大な祝賀会が開かれ、日本での布教活動に大きな弾みがつきました。
この訳書は初期の聖書和訳として広く配布され、信徒の増加や教育普及に寄与しました。
また、近代日本語表記の発展にも影響を与え、辞書編纂など言語研究へとつながりました。
1880年
ヘボン
新約聖書
新栄教会
1897年
第1回ボストンマラソン開催。
世界最古の市民マラソン大会、ボストンマラソンが初めて開催されました。
1897年4月19日、ボストン・アスレチック・アソシエーションが主催して初の市民マラソン大会が開催されました。
大会コースはベッドフォードまでの往復約24.5マイルで、当時のオリンピック競技に倣った設計でした。
同大会は大衆スポーツの普及に大きく寄与し、世界各地でマラソン大会開催の先駆けとなりました。
年々参加者数が増加し、現在では男女招待選手や車いす部門など多様化を遂げています。
歴史と伝統を誇る一戦として、毎年多くのランナーがボストンの地を目指します。
1897年
ボストンマラソン
1903年
ロシア・キシナウで大規模なユダヤ人迫害(ポグロム)が発生。
ロシア帝国領キシナウで大規模なユダヤ人虐殺(ポグロム)が発生しました。
1903年4月19日、当時ロシア帝国領のキシナウ(現モルドバ)でユダヤ人に対する暴動が勃発しました。
地元キリスト教徒の暴徒が群衆を率いてユダヤ人地区を襲撃し、商店や住宅を略奪・放火しました。
数十名の死者と百名以上の負傷者が出る大惨事となり、国際社会の強い非難を浴びました。
ロシア政府の消極的対応はユダヤ人の不信を深め、以後の大量移民を招く要因となりました。
この事件は反ユダヤ主義の象徴として記憶され、シオニズム運動にも影響を与えました。
1903年
ロシア
キシナウ
ポグロム
1904年
トロント大火。
カナダ・トロントで大規模な市街火災(トロント大火)が発生しました。
1904年4月19日、トロント中心部で大規模な市街火災が発生し多くの建物が焼失しました。
火災は急速に拡大し、木造家屋や商店街を次々に飲み込みました。
犠牲者は少数にとどまりましたが、被害総額は高額にのぼり市の経済に深刻な影響を与えました。
火災後、市当局は耐火建築物の条例を改正し消防体制の強化を推進しました。
復興過程で整備された道路網や公共施設はその後の都市発展に大きく寄与しました。
1904年
トロント大火
1910年
パウル・エールリヒと秦佐八郎が梅毒の治療薬サルバルサン(606号)を発見。
エールリヒと秦佐八郎が梅毒に対する初の有効治療薬サルバルサンを発見しました。
1910年4月19日、ドイツの細菌学者パウル・エールリヒと日本人医師秦佐八郎が共同研究の末にサルバルサン(606号)を発見しました。
サルバルサンは当時致命的だった梅毒に対して初めて有効な化学療法薬として大きな注目を集めました。
これはエールリヒの「魔弾の概念」に基づき、病原体選択的に作用する初期の人工合成薬です。
番号の「606号」は多くの候補化合物の中から選択されたプロジェクト番号に由来します。
この発見は抗生物質時代の先駆けとなり、エールリヒは後にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
サルバルサンの開発は化学療法研究における画期的な進展として医学史に刻まれています。
1910年
パウル・エールリヒ
秦佐八郎
梅毒
サルバルサン
1915年
日本海軍の巡洋戦艦「榛名」・「霧島」が竣工する。
日本海軍の巡洋戦艦「榛名」と「霧島」が竣工し、帝国艦隊の戦力を強化しました。
1915年4月19日、日本海軍は金剛型巡洋戦艦の2隻「榛名」と「霧島」を正式に竣工させました。
これらの艦はイギリスの造船技術を取り入れた先進的な設計を特徴としています。
速力と装甲を両立させた巡洋戦艦として、太平洋地域における海軍力を大幅に強化しました。
榛名と霧島は後の第一次世界大戦や日英同盟下で重要な役割を果たしました。
竣工は日本海軍の技術水準向上を象徴する出来事となりました。
これらの巡洋戦艦は後の軍艦設計や大艦巨砲主義に大きな影響を与えました。
1915年
日本海軍
巡洋戦艦
榛名
霧島
1926年
堤康次郎により国立学園小学校が設立される。
1926年、実業家・堤康次郎が東京に国立学園小学校を設立しました。
今日まで続く名門校の礎が築かれた瞬間です。
堤康次郎は昭和期の実業家として知られ、教育分野にも意欲的に取り組んだ人物です。
1926年4月19日、彼は東京に私立の国立学園小学校を開校しました。
同校は近代的な教育理念を導入し、自由な発想と個性を重んじる方針を掲げました。
初年度から多くの児童が集い、質の高い授業や環境が評価されました。
その後も教育界に影響を与え続け、現在では全国的に知られる名門私立小学校となっています。
1926年
堤康次郎
国立学園小学校
1928年
田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定。
田中義一内閣が中国国民革命軍の北伐再開に対応し、第二次山東出兵を決定しました。
日中関係に新たな緊張が生まれた出来事です。
1928年4月19日、田中義一内閣は北伐を再開した中国・国民革命軍に対抗するため、第二次山東出兵を決定しました。
この出兵は山東省に駐留する日本勢力の保護を目的とし、中国との軍事的緊張を高める結果となりました。
背景には第一次山東出兵後の条約失効と、中国側の勢力拡大がありました。
国内では軍部の発言力拡大が議論を呼び、政党政治への影響が懸念されました。
国際的にも日本の軍事介入として注目され、後の中日関係に暗い影を落とす出来事となりました。
1928年
田中義一内閣
国民革命軍
北伐
第二次山東出兵