大治元年3月24日

藤原清衡が中尊寺の金堂・三重塔の落慶法会を行う。

1126年、大治元年3月24日に藤原清衡が中尊寺の金堂と三重塔の落慶法会を執り行いました。
中尊寺は平安時代の東北地方に創建された浄土系寺院で、後に世界遺産にも登録される。 藤原清衡は奥州藤原氏初代当主として、中尊寺の金堂と三重塔の建立を推進しました。 1126年3月24日の落慶法会では、多くの僧侶や地元住民が参列し、荘厳な儀式が行われました。 式典は伽藍の完成を祝うとともに、地域の安寧と繁栄を祈念する場となりました。 この出来事は平泉文化の礎を築き、その後の東北地方の仏教文化に大きな影響を与えました。
1126年 大治 3月24日 藤原清衡 中尊寺
文永5年3月5日

北条時宗が鎌倉幕府執権に就任。

文永5年3月5日に北条時宗が鎌倉幕府の執権に就任し、幕政を担いました。
北条時宗は北条時頼の子として出生し、鎌倉幕府第8代執権に就任しました。 執権とは将軍を補佐し、幕政の実権を握る最高職であり、若年ながらも政務を主導しました。 就任後は元寇への備えとして防塁の築造や軍備の強化を図り、武家政権の結束を強めました。 彼の統治は鎌倉幕府の安定維持に寄与し、北条氏の権勢を一層高める契機となりました。 時宗の政治手腕は後の武家政権運営にも大きな影響を与えました。
1268年 文永 3月5日 北条時宗 鎌倉幕府 執権
正長2年3月15日

足利義教に将軍宣下が行われる。

正長2年3月15日に足利義教が室町幕府第6代将軍に任ぜられました。
足利義教(室町幕府第6代将軍)は、父・足利義持の死去後に将軍職を継承しました。 正長2年3月15日(1429年)の将軍宣下により、正式に幕府政務を掌握します。 義教は権威回復を目指し、守護大名の統制強化や財政改革に着手しました。 その強権的な統治方法は一部から批判を受けることもありましたが、幕府の土台を再整備する契機となりました。 結果として、応仁の乱前夜の政治基盤を整え、後世の政権運営に影響を与えました。
1429年 正長 3月15日 足利義教 将軍宣下
1506年

現在のサン・ピエトロ大聖堂の基礎石の設置式典が行われる。

1506年、ローマのサン・ピエトロ大聖堂新築に際し、基礎石の設置式典が執り行われました。
サン・ピエトロ大聖堂はローマ・バチカン市国に位置するカトリックの総本山です。 1506年4月18日、教皇ユリウス2世主導で新大聖堂の基礎石設置式典が行われました。 16世紀ルネサンス建築を代表する設計には、ブラマンテ、ミケランジェロ、ラファエロらが関与しました。 建設は約120年を要し、ミケランジェロ設計の巨大ドームが完成のハイライトとなりました。 現在は多くの巡礼者や観光客が訪れ、宗教的・芸術的価値の高い世界遺産として知られています。
1506年 サン・ピエトロ大聖堂
正徳4年3月5日

江島生島事件: 大奥御年寄絵島の信濃国高遠への配流が決定。

1714年、江島生島事件により大奥御年寄・絵島の信濃国高遠配流が決定しました。
江島生島事件は、大奥御年寄・絵島と生島新五郎の密通疑惑を発端としたスキャンダルです。 正徳4年3月5日(1714年)、幕府は証拠不十分ながら絵島の信濃国高遠藩への配流を決定しました。 この事件は江戸城大奥における権力闘争と男女問題の混合例として広く注目を集めました。 配流先で絵島は質素な生活を送りつつも強い精神力で困難に耐えたと伝えられます。 享保改革期の大奥制度や女性の立場を考える契機となった歴史的事件です。
1714年 正徳 3月5日 江島生島事件 大奥 御年寄 絵島 信濃国
明和8年3月4日

杉田玄白・前野良沢らが、死刑囚の解剖を見学。翌日から医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳にとりかかる。

1771年、杉田玄白らが死刑囚の解剖を見学し、医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に着手しました。
1771年(明和8年)3月4日、幕府は江戸で初めて公式に死刑囚の人体解剖を許可しました。 杉田玄白・前野良沢ら蘭学者は解剖を詳細に観察・記録し、西洋解剖学の知識を獲得しました。 翌日からオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取りかかり、日本初の本格的解剖学書編纂の契機をつくりました。 この取り組みが後の『解体新書』完成へつながり、近代日本医学の発展に大きく寄与しました。 蘭学と解剖学普及の転機として評価される歴史的出来事です。
1771年 明和 3月4日 杉田玄白 前野良沢 ターヘル・アナトミア
1835年

メルバーン子爵ウィリアム・ラムがイギリスの第30代首相に就任。

1835年、ウィリアム・ラム(メルバーン子爵)がイギリス第30代首相に就任しました。
ウィリアム・ラム(メルバーン子爵)はホイッグ党所属のイギリス政治家です。 1835年4月18日、ヴィクトリア女王治下で第30代首相に任命されました。 若き女王との良好な関係を築き、「メルバーンの母」と呼ばれるほど信頼を得ました。 首相在任中は自由貿易の推進や財政改革を行い、中道的ホイッグ政策を展開しました。 彼の統治はヴィクトリア朝初期の政治基盤を支え、後の保守・改革の均衡に寄与しました。
1835年 メルバーン子爵ウィリアム・ラム
1847年

米墨戦争: セルロ・ゴードの戦い

1847年、米墨戦争中のセルロ・ゴードの戦いが行われました。
セルロ・ゴードの丘陵地帯で、1847年4月18日に米墨両軍が激突しました。 ウィンフィールド・スコット率いるアメリカ軍は高地を巧みに攻略し、メキシコ軍を撃破しました。 この勝利によりアメリカ軍はメキシコシティへ向かう進軍路を大きく開きました。 メキシコ側は大きな損失を被り、その後の戦局に影響を与えました。 戦術史上、ハイグラウンドの占領と包囲戦の成功例として知られる戦闘です。
1847年 米墨戦争 セルロ・ゴードの戦い
文久3年3月13日

壬生浪士組のうち京都に残留した芹沢鴨ら24名が京都守護職・会津藩主の松平容保の配下に取立てられる(後の新選組)。

1863年、壬生浪士組の残留組24名が松平容保の指揮下に入り、新選組の結成につながりました。
文久3年3月13日(1863年3月13日)、浪士組は京都守護職・松平容保の要請で分裂しました。 壬生浪士組として残留した芹沢鴨ら24名は、守護職直属の組織に組み込まれました。 これが後の新選組の前身となり、幕末の京都治安維持に大きく貢献します。 新選組は庶民出身の隊士も多く、剣術と秩序維持に優れた武装集団として知られるようになりました。 その活動は池田屋事件などを通じて国内外にその名を轟かせました。
1863年 文久 3月13日 壬生浪士組 芹沢鴨 京都守護職 松平容保 新選組
慶応4年3月26日

大坂天保山沖で日本初の観艦式が行われる。

1868年、大坂天保山沖で日本初の観艦式が開催されました。
慶応4年3月26日(1868年4月18日)、大阪湾の天保山沖で日本初の観艦式が実施されました。 幕府の洋式軍艦約20隻が参加し、大名や幕臣らに海軍力を誇示しました。 西洋式海軍の模範とされたこの式典は、近代海軍制度導入への一歩となりました。 戊辰戦争開幕直前の緊張感の中で行われ、諸外国からも注目を集めました。 以後の日本海軍発展に向けた起点として位置づけられています。
1868年 慶応 3月26日 大坂 天保山 観艦式
1864年

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争: ドゥッブル堡塁の戦い。

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争中の重要な攻防戦として、ドゥッブル堡塁が攻略された戦い。
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年〜1864年)は、デンマークとプロイセン・オーストリア連合軍との間で行われた戦争です。 4月18日のドゥッブル堡塁の戦いでは、プロイセン軍が強力な砲兵支援を用いてデンマーク軍の要塞を攻略しました。 この勝利によりプロイセン軍は戦線を南進させ、戦争の転機となりました。 多くの損害を被った要塞の奪取は以後の講和交渉に大きな影響を与えました。 最終的に戦争はデンマーク敗北で終結し、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国の帰属が問題となりました。
1864年 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 ドゥッブル堡塁の戦い
1881年

西部開拓時代: ビリー・ザ・キッドがリンカーン郡刑務所を脱走。

アメリカ西部開拓時代の有名な悪党ビリー・ザ・キッドがリンカーン郡刑務所から脱獄した出来事。
ビリー・ザ・キッド(本名ウィリアム・H・ボニーまたはヘンリー・マカーティ)は西部開拓時代の伝説的アウトローです。 1881年4月18日、リンカーン郡刑務所からの脱走に成功しました。 彼は刑務所の壁を乗り越えて逃亡し、その後も多数の逃亡と追跡劇を繰り返しました。 この脱走劇は西部劇の題材としてしばしば取り上げられ、彼の名声を決定付ける出来事となりました。
1881年 西部開拓時代 ビリー・ザ・キッド リンカーン郡