紀元前1178年
オデュッセウスがトロイア戦争を終えて自国に帰還。
紀元前12世紀頃、トロイア戦争を生き抜いた英雄オデュッセウスが長い旅路の末に故郷イタケへ帰還したとされる叙事詩的エピソード。
紀元前12世紀頃の神話的物語であるトロイア戦争後、英雄オデュッセウスが故郷イタケへ帰還したとされる。この帰還譚はホメロスの叙事詩『オデュッセイア』で綴られ、女神の助力、怪物との遭遇、魔女キルケーの誘惑など数々の試練が描かれている。イタケ到着後には変装したオデュッセウスが求婚者たちを打倒し、妻ペーネロペイアと息子テーレマコスとの再会を遂げる。物語は西洋文学の古典として現在まで読み継がれ、英雄の旅路として後世に大きな影響を与えている。
紀元前1178年
オデュッセウス
トロイア戦争
73年
マサダ要塞に籠城したユダヤ人が集団自決し、ユダヤ戦争が終結。
ローマ帝国軍に包囲されたマサダ要塞のユダヤ人守備隊が最後の抵抗の末、集団自決を遂げてユダヤ戦争を終結させた出来事。
73年、ローマ帝国軍の包囲下にあったユダヤ人反乱軍がマサダ要塞で最後の抵抗を展開した。指導者エレアザル・ベン・ヤイルら約960名が籠城していたが、長期の包囲戦で食糧と水が尽きたため、捕虜となることを拒み集団自決を選んだ。この決断はユダヤ人の抵抗精神と自由への希求の象徴とされ、現代ではイスラエルの国定史跡マサダが歴史教育や観光の重要スポットとなっている。
73年
マサダ
集団自決
ユダヤ戦争
1746年
ジャコバイト蜂起: カロデンの戦い。スコットランドでジャコバイトが最後の組織的抵抗をするが、ブリテン軍に完敗。カンバーランド公が多数のジャコバイトを虐殺。
1746年、スコットランドで行われたジャコバイト蜂起最後の戦闘カロデンの戦いで、反乱軍が政府軍に敗北した。
1746年4月16日、ジャコバイト蜂起の一環としてスコットランド北部でカロデンの戦いが行われ、反乱軍は政府軍に敗北した。ジャコバイト側はチャールズ・エドワード・ステュアート率いる軍勢が抵抗を試みたが、カンバーランド公指揮下のブリテン軍の攻勢に屈した。戦闘後、逃走するジャコバイトに対して徹底的な追撃と虐殺が行われ、多くの民間人も巻き込まれた。この敗北により1745年の蜂起は終結し、スコットランド高地社会には法的弾圧や文化抑圧が強化された。ジャコバイトの痕跡は詩歌や伝承に残り、後世の文学や音楽に大きな影響を与えている。
1746年
ジャコバイト
カロデンの戦い
スコットランド
カンバーランド公
1797年
スピットヘッドの反乱起こる。
1797年、イギリス海軍艦隊の水兵が賃金や待遇改善を求めてスピットヘッドで反乱を起こした。
1797年4月16日、ドーセット沖スピットヘッドでイギリス海軍の水兵たちが賃金遅配や劣悪な食糧供給に抗議し、艦を掌握して反乱を起こした。水兵たちは賃上げや陸上休暇、礼拝時間の確保など7項目の要求を提示した。反乱は約2週間続いたが、政府は海軍力維持の必要から部分的に要求を受け入れ、大規模な処罰を回避して事態を収拾した。スピットヘッドの反乱は海軍内部の団結と民衆の権利意識の高まりを示す出来事となり、同時期のノアの反乱にも影響を与えた。その後、海軍の補給と労働環境の改善が進み、後の組織改革への契機となった。
1797年
スピットヘッドの反乱
1799年
フランス革命戦争・エジプト・シリア戦役: タボル山の戦い
1799年、フランス革命戦争のエジプト・シリア戦役でタボル山の戦いが行われ、フランス軍がオスマン帝国軍を撃退した。
1799年4月16日、フランス革命戦争エジプト・シリア戦役の一環としてタボル山の戦いが発生した。ナポレオン・ボナパルトはイスラエル北部に侵攻する中でオスマン帝国軍の奇襲を受けたが、騎兵隊を率いて迅速に反撃し、敵軍を撃退した。フランス軍は機動力と統率力を発揮し、短時間で戦闘を制圧した。この勝利により補給路の確保が可能となり、続くアッコ包囲戦への移行を支えた。タボル山の戦いはナポレオンの軍事的手腕を示す一例として評価される。
1799年
フランス革命戦争
エジプト・シリア戦役
タボル山の戦い
1925年
聖ネデリャ教会襲撃事件。
ブルガリアの聖ネデリャ教会で発生した大規模爆破テロ事件。多くの死傷者を出し国内を震撼させた。
1925年4月16日、ブルガリア共産党による暗殺未遂を目的として、首都ソフィア中心部にある聖ネデリャ教会で爆弾が爆発した。礼拝中の信者や参列者を直撃し、約200名が死亡、500名以上が負傷する大惨事となった。この襲撃は国家指導者層の葬儀を狙ったものとされ、政治的混乱を招いて政府は共産党への大弾圧を強化した。事件はブルガリア史上最悪のテロ事件として記憶され、以後の対共産党政策にも大きな影響を与えた。
1925年
聖ネデリャ教会襲撃事件
1941年
ナチス・ドイツがイギリスのロンドンを爆撃。同月10日にイギリスがベルリン、ポツダムを爆撃した報復攻撃で、16日夕方から翌日朝にかけて開戦以来最大規模のロンドン爆撃となった。
第二次世界大戦下、ナチス・ドイツがロンドンへの戦争開始以来最大規模の爆撃を敢行した。
1941年4月16日、ナチス・ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)はイギリス・ロンドンに対して大規模な夜間爆撃を実施した。同月10日のイギリスによるベルリン・ポツダム爆撃への報復として行われ、夕方から翌朝にかけて焼夷弾を中心に市街地を襲った。数百トンの爆弾が投下され、多くの市民と建築物が被害を受けた。この爆撃は開戦以来最大規模とされ、ロンドン市民に深刻な心理的打撃を与えたが、イギリスは防空網と消火活動で耐え抜いた歴史的な一幕である。
1941年
ナチス・ドイツ
イギリス
ロンドン
ベルリン
ポツダム
1945年
第二次世界大戦・ベルリンの戦い: ソ連軍がベルリンの総攻撃を開始。
第二次世界大戦末期、1945年4月16日にソ連軍がベルリンへの総攻撃を開始し、史上最大級の都市戦が繰り広げられた。
第2次世界大戦末期の1945年4月16日、ソ連赤軍はベルリン市街への全面攻勢を開始した。
約200万を超えるソ連軍部隊が市内に進攻し、ナチス・ドイツ軍との激しい市街戦を繰り広げた。
ベルリンは要塞化され、民間人も巻き込まれた戦闘は数週間に及び、多大な被害を出した。
この戦いはヨーロッパにおける最後の大規模攻勢の一つとなり、5月2日の降伏につながった。
ベルリンの戦いはヨーロッパ戦線の終焉を象徴する歴史的事象である。
1945年
第二次世界大戦
ベルリンの戦い
ベルリン
1947年
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所初代所長ルドルフ・ヘスがアウシュビッツにて絞首刑。
1947年4月16日、アウシュヴィッツ強制収容所の初代所長ルドルフ・ヘスが絞首刑に処された。
ドイツのナチス親衛隊中佐でアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の初代所長を務めた人物。
国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)で戦争犯罪の責任を問われた後、ポーランドの裁判で絞首刑を言い渡された。
1947年4月16日、収容所跡地であるアウシュビッツで刑が執行された。
ヘスは数十万人のユダヤ人や政治犯の虐殺を指揮し、その残虐行為は第二次世界大戦を象徴する悲劇となった。
戦後ドイツにおける戦争犯罪追及の象徴的事例とされている。
1947年
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
ルドルフ・ヘス