1346年
セルビア王国国王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが皇帝に即位し、セルビア帝国が成立。
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが皇帝に即位し、セルビア王国がセルビア帝国へと昇格した。
1346年4月16日、セルビア王国の国王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが皇帝に即位し、セルビア帝国が成立した。彼は領土を北ギリシャやアルバニア方面まで拡大し、南東ヨーロッパにおける勢力を強化した。即位後、皇帝ドゥシャンは法典『ドゥシャン法典』を制定し、国内統治や教会制度の整備を推進した。その統治下でセルビア文化はビザンツ文化の影響を受けつつ独自の黄金時代を迎えた。だがドゥシャン帝没後には内部分裂が進み、帝国の維持には至らなかった。
1346年
セルビア王国
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
セルビア帝国
1521年
マルティン・ルターがカール5世臨席の帝国会議に出席。ローマ・カトリック教会の贖宥状を批判。
マルティン・ルターがヴォルムス帝国会議に召喚され、教会の贖宥状販売を強く批判した。
1521年4月16日、神聖ローマ皇帝カール5世臨席のヴォルムス帝国会議にマルティン・ルターが出席し、自らの著作と教義を弁護した。彼は聖書のみを信仰の拠り所とし、教会の贖宥状販売を痛烈に批判。皇帝側から撤回を求められたものの、「聖書と良心の前で他に何もできない」として拒否した。この発言は宗教改革の象徴的な瞬間となり、以降プロテスタント運動が本格化。会議後、ルターはヴァルトブルク城に幽閉され、その間にドイツ語訳聖書の執筆に着手した。ルターの行動は中世後期ヨーロッパに大きな影響を与え、教会権威の再検討を促した。
1521年
マルティン・ルター
カール5世
帝国会議
ローマ・カトリック教会
贖宥状
1763年
ジョージ・グレンヴィルがイギリスの第8代首相に就任。
1763年、ジョージ・グレンヴィルがイギリス第8代首相に就任し、戦後財政再建に着手した。
1763年4月16日、ジョージ・グレンヴィルがパーラメントの支持を得て第8代イギリス首相に就任した。七年戦争終結後の巨額債務返済を目的に、北米植民地への課税強化を含む財政再建策を提唱。特に1765年の印紙法は植民地側の強い反発を招き、後のアメリカ独立戦争の遠因となった。内政では汚職撲滅と行政改革を掲げ、国家財政の透明化を図った。短命に終わったものの、グレンヴィル内閣の政策は英議会政治と王権の関係を見直す契機となった。
1763年
ジョージ・グレンヴィル
安政3年3月12日
江戸幕府が江戸駒場で初めて洋式の兵士訓練を行う。
江戸幕府が駒場で初めて西洋式兵士訓練を開始した日です。
1856年4月16日(安政3年3月12日)、江戸幕府は江戸駒場演習場(現在の東京大学駒場地区付近)で初めて洋式の歩兵訓練を実施しました。
蘭学を通じて導入された西洋火器や戦術を学ぶ目的で行われ、幕府軍の近代化を図る試みでした。
訓練には銃剣術や隊列行進などが含まれ、従来の武士の訓練とは一線を画しました。
この実践的な演習は後の幕府軍再編や軍事技術の導入に影響を与えました。
幕末期の技術革新と国防強化への第一歩として評価されています。
1856年
安政
3月12日
1871年
ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)公布。
ビスマルクが主導したドイツ帝国憲法が公布された日です。
1871年4月16日、プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクの主導によりドイツ帝国憲法(通称ビスマルク憲法)が公布されました。
この憲法はドイツ連邦諸邦を統合し、皇帝(ドイツ皇帝)を国家元首とする国家体制を規定しました。
議会制の導入や帝国評議会(連邦参議院)の設置など立憲君主制の枠組みが定められました。
国家統一後の政治基盤を整え、後のドイツ社会の発展に大きな影響を与えました。
ビスマルクの外交政策とあいまって、欧州列強の一角としての地位を確立しました。
1871年
ビスマルク憲法
明治5年3月9日
薩摩・長州・土佐の兵1万人による天皇護衛の御親兵を近衛兵と改称。
御親兵が「近衛兵」と改称された日です。
1872年4月16日(明治5年3月9日)、薩摩・長州・土佐藩出身の兵士約1万人で構成された御親兵が「近衛兵」と改称されました。
この部隊は天皇の護衛を任務とし、明治政府の近代的軍隊創設の一環として再編成されました。
名称変更に伴い、軍制改革や西洋式訓練が導入され、統率力と装備の近代化が進められました。
近衛兵は後に皇居警備や国事行事での儀仗を担う精鋭部隊として知られるようになりました。
明治維新期の軍制整備を象徴する重要な一歩となりました。
1872年
明治
3月9日
近衛兵
1882年
大隈重信らが立憲改進党を結成。
大隈重信らが立憲改進党を結成した日です。
1882年4月16日、大隈重信を中心とする自由民権派の政治家たちが立憲改進党を結成しました。
この政党は議会政治の発展と立憲主義の確立を掲げ、政府に対して改革を求める活動を行いました。
党員には民権運動家や自由論者が多く、国会開設運動を積極的に推進しました。
立憲改進党は後の自由党や立憲政友会など日本の政党政治の基礎を築く役割を果たしました。
近代日本の政党史において重要なマイルストーンとされています。
1882年
大隈重信
立憲改進党
1914年
日本で大隈重信が第17代内閣総理大臣に就任し、第2次大隈内閣が発足。
大隈重信が第17代内閣総理大臣に就任し、第2次大隈内閣が発足した日です。
1914年4月16日、政友会の指導者大隈重信が第17代内閣総理大臣に就任し、第2次大隈内閣が発足しました。
内閣では立憲政友会の支持を背景に、議会政治の安定化と社会政策の充実を図りました。
しかし第一次世界大戦勃発により外交・軍事問題が深刻化し、後に政党内外から批判が高まりました。
大隈内閣は戦争の影響で困窮した経済対策や外国船検疫問題などに取り組みました。
任期は短期間に終わりましたが、政党政治の成熟に一定の貢献をしました。
1914年
大隈重信
内閣総理大臣
第2次大隈内閣
1917年
レーニンが亡命先のスイスからペトログラードに帰還。
ロシア革命の指導者レーニンがスイスからペトログラードに帰還し、革命の流れを一変させた歴史的瞬間。
1917年4月16日、レーニンは亡命先のスイス・チューリッヒを出発し、ドイツの協力による密封列車でペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に到着した。列車はドイツ、スウェーデン、フィンランドを経由し、当時の臨時政府の監視をかいくぐる旅路だった。母国への帰還はボリシェヴィキの士気を大きく高め、レーニンの指導力を強固なものとした。到着直後には「4月テーゼ」を発表し、革命方針を明確に示してロシア革命の方向性を決定づけた。この出来事が十月革命への道筋を築き、世界史に大きな影響を与えた。
1917年
レーニン
ペトログラード
1922年
ドイツ・ソビエト政府間にラパッロ条約が結ばれ、両国が修交する。
ドイツとソビエト政府がラパッロ条約を締結し、国交回復と相互協力の道を開いた歴史的合意。
1922年4月16日、第一次世界大戦の戦後処理で孤立していたドイツと、ロシア革命後に国際的に孤立していたソビエト政府がイタリア・リミニ近郊のラパッロで条約を締結した。条約では相互に賠償請求権を放棄し、正式な国交を回復するとともに秘密条項で軍事・経済協力を取り決めた。この合意はベルサイユ体制に挑む両国の連帯を示し、ヨーロッパの安全保障構造に大きな衝撃を与えた。後のロカルノ条約締結まで両国外交の基礎となり、欧州の国際関係に新たな潮流をもたらした。
1922年
ドイツ
ソビエト政府
ラパッロ条約
1929年
四・一六事件。日本共産党が大弾圧により事実上壊滅。
1929年4月16日、政府による共産党員への一斉摘発で日本共産党が事実上壊滅した政治事件。
四・一六事件は、1929年4月16日に日本政府が全国の共産党組織に対して大規模な摘発を実施し、党機関の壊滅を図った事件である。警察は秘密裏に活動を監視し、数百名の党員や支持者を逮捕・起訴した。これにより日本共産党は指導者層を失い、地下活動へと追い込まれた。国家権力による共産主義運動への弾圧はその後も続き、治安維持法の強化を招いた。事件は戦前日本の政治弾圧の象徴的な出来事となっている。
1929年
四・一六事件
日本共産党
1934年
ソ連邦英雄称号が制定。
ソビエト連邦が国家最高栄誉である「ソ連邦英雄」称号を制定した。
1934年4月16日、ソビエト連邦は軍事・建設・科学技術・文化などの分野で卓越した功績を上げた個人・集団に授与する国家最高の栄誉称号「ソ連邦英雄」を創設した。初代受賞者には内戦や対外戦争で活躍した軍人らが名を連ね、その後も多くの英雄が選出された。受賞者には金メダルと証書のほか、年金や特別待遇が与えられた。スターリン時代のプロパガンダにおいて国家英雄像の形成に貢献し、現在もロシア連邦英雄として継承されている。
1934年
ソ連邦英雄