紀元前1178年
オデュッセウスがトロイア戦争を終えて自国に帰還。
紀元前12世紀頃、トロイア戦争を生き抜いた英雄オデュッセウスが長い旅路の末に故郷イタケへ帰還したとされる叙事詩的エピソード。
紀元前12世紀頃の神話的物語であるトロイア戦争後、英雄オデュッセウスが故郷イタケへ帰還したとされる。この帰還譚はホメロスの叙事詩『オデュッセイア』で綴られ、女神の助力、怪物との遭遇、魔女キルケーの誘惑など数々の試練が描かれている。イタケ到着後には変装したオデュッセウスが求婚者たちを打倒し、妻ペーネロペイアと息子テーレマコスとの再会を遂げる。物語は西洋文学の古典として現在まで読み継がれ、英雄の旅路として後世に大きな影響を与えている。
紀元前1178年
オデュッセウス
トロイア戦争
73年
マサダ要塞に籠城したユダヤ人が集団自決し、ユダヤ戦争が終結。
ローマ帝国軍に包囲されたマサダ要塞のユダヤ人守備隊が最後の抵抗の末、集団自決を遂げてユダヤ戦争を終結させた出来事。
73年、ローマ帝国軍の包囲下にあったユダヤ人反乱軍がマサダ要塞で最後の抵抗を展開した。指導者エレアザル・ベン・ヤイルら約960名が籠城していたが、長期の包囲戦で食糧と水が尽きたため、捕虜となることを拒み集団自決を選んだ。この決断はユダヤ人の抵抗精神と自由への希求の象徴とされ、現代ではイスラエルの国定史跡マサダが歴史教育や観光の重要スポットとなっている。
73年
マサダ
集団自決
ユダヤ戦争
元久2年3月26日
後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集「新古今和歌集」が完成。完成を祝う竟宴が御所で催された。
後鳥羽院の勅命で編纂された和歌集『新古今和歌集』が完成し、貴族たちが御所で寿ぎの宴を催した。
1205年4月16日、後鳥羽院の勅命で編纂された勅撰和歌集『新古今和歌集』が完成した。編者には藤原定家や藤原家隆、僧俊恵ら当代を代表する歌人が名を連ね、約1980首の和歌を収録した。収録和歌は古今和歌集を意識しつつ新風を取り入れた雅やかな作風が特色となる。完成を祝して御所で盛大な竟宴が催され、貴族や歌人たちが歌を詠み交わした。『新古今和歌集』は鎌倉時代以降の和歌文学に多大な影響を与え、日本詩歌史上の名作集とされる。
1205年
元久
3月26日
後鳥羽院
新古今和歌集
1346年
セルビア王国国王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが皇帝に即位し、セルビア帝国が成立。
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが皇帝に即位し、セルビア王国がセルビア帝国へと昇格した。
1346年4月16日、セルビア王国の国王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが皇帝に即位し、セルビア帝国が成立した。彼は領土を北ギリシャやアルバニア方面まで拡大し、南東ヨーロッパにおける勢力を強化した。即位後、皇帝ドゥシャンは法典『ドゥシャン法典』を制定し、国内統治や教会制度の整備を推進した。その統治下でセルビア文化はビザンツ文化の影響を受けつつ独自の黄金時代を迎えた。だがドゥシャン帝没後には内部分裂が進み、帝国の維持には至らなかった。
1346年
セルビア王国
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
セルビア帝国
1521年
マルティン・ルターがカール5世臨席の帝国会議に出席。ローマ・カトリック教会の贖宥状を批判。
マルティン・ルターがヴォルムス帝国会議に召喚され、教会の贖宥状販売を強く批判した。
1521年4月16日、神聖ローマ皇帝カール5世臨席のヴォルムス帝国会議にマルティン・ルターが出席し、自らの著作と教義を弁護した。彼は聖書のみを信仰の拠り所とし、教会の贖宥状販売を痛烈に批判。皇帝側から撤回を求められたものの、「聖書と良心の前で他に何もできない」として拒否した。この発言は宗教改革の象徴的な瞬間となり、以降プロテスタント運動が本格化。会議後、ルターはヴァルトブルク城に幽閉され、その間にドイツ語訳聖書の執筆に着手した。ルターの行動は中世後期ヨーロッパに大きな影響を与え、教会権威の再検討を促した。
1521年
マルティン・ルター
カール5世
帝国会議
ローマ・カトリック教会
贖宥状
1746年
ジャコバイト蜂起: カロデンの戦い。スコットランドでジャコバイトが最後の組織的抵抗をするが、ブリテン軍に完敗。カンバーランド公が多数のジャコバイトを虐殺。
1746年、スコットランドで行われたジャコバイト蜂起最後の戦闘カロデンの戦いで、反乱軍が政府軍に敗北した。
1746年4月16日、ジャコバイト蜂起の一環としてスコットランド北部でカロデンの戦いが行われ、反乱軍は政府軍に敗北した。ジャコバイト側はチャールズ・エドワード・ステュアート率いる軍勢が抵抗を試みたが、カンバーランド公指揮下のブリテン軍の攻勢に屈した。戦闘後、逃走するジャコバイトに対して徹底的な追撃と虐殺が行われ、多くの民間人も巻き込まれた。この敗北により1745年の蜂起は終結し、スコットランド高地社会には法的弾圧や文化抑圧が強化された。ジャコバイトの痕跡は詩歌や伝承に残り、後世の文学や音楽に大きな影響を与えている。
1746年
ジャコバイト
カロデンの戦い
スコットランド
カンバーランド公
1763年
ジョージ・グレンヴィルがイギリスの第8代首相に就任。
1763年、ジョージ・グレンヴィルがイギリス第8代首相に就任し、戦後財政再建に着手した。
1763年4月16日、ジョージ・グレンヴィルがパーラメントの支持を得て第8代イギリス首相に就任した。七年戦争終結後の巨額債務返済を目的に、北米植民地への課税強化を含む財政再建策を提唱。特に1765年の印紙法は植民地側の強い反発を招き、後のアメリカ独立戦争の遠因となった。内政では汚職撲滅と行政改革を掲げ、国家財政の透明化を図った。短命に終わったものの、グレンヴィル内閣の政策は英議会政治と王権の関係を見直す契機となった。
1763年
ジョージ・グレンヴィル
1780年
ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学設立。
1780年、ドイツ西部ミュンスターにヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学が設立され、啓蒙時代の学術拠点が誕生した。
1780年4月16日、プロイセン王領であったミュンスターにヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学が創設された。設立当初は神学・法学・哲学・医学の4学部で構成され、啓蒙思想に基づく学術研究を支えた。名称は当時のプロイセン王フリードリヒ2世の子息ウィルヘルム大公に由来する。附属図書館や博物館が備えられ、地域の文化・教育の中心的役割を担った。19世紀以降は自然科学や医学、農学などの研究が発展し、欧州有数の総合大学へと成長した。現代では多様な学部を擁し、国際的な研究教育機関として広く知られている。
1780年
ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学
1797年
スピットヘッドの反乱起こる。
1797年、イギリス海軍艦隊の水兵が賃金や待遇改善を求めてスピットヘッドで反乱を起こした。
1797年4月16日、ドーセット沖スピットヘッドでイギリス海軍の水兵たちが賃金遅配や劣悪な食糧供給に抗議し、艦を掌握して反乱を起こした。水兵たちは賃上げや陸上休暇、礼拝時間の確保など7項目の要求を提示した。反乱は約2週間続いたが、政府は海軍力維持の必要から部分的に要求を受け入れ、大規模な処罰を回避して事態を収拾した。スピットヘッドの反乱は海軍内部の団結と民衆の権利意識の高まりを示す出来事となり、同時期のノアの反乱にも影響を与えた。その後、海軍の補給と労働環境の改善が進み、後の組織改革への契機となった。
1797年
スピットヘッドの反乱
1799年
フランス革命戦争・エジプト・シリア戦役: タボル山の戦い
1799年、フランス革命戦争のエジプト・シリア戦役でタボル山の戦いが行われ、フランス軍がオスマン帝国軍を撃退した。
1799年4月16日、フランス革命戦争エジプト・シリア戦役の一環としてタボル山の戦いが発生した。ナポレオン・ボナパルトはイスラエル北部に侵攻する中でオスマン帝国軍の奇襲を受けたが、騎兵隊を率いて迅速に反撃し、敵軍を撃退した。フランス軍は機動力と統率力を発揮し、短時間で戦闘を制圧した。この勝利により補給路の確保が可能となり、続くアッコ包囲戦への移行を支えた。タボル山の戦いはナポレオンの軍事的手腕を示す一例として評価される。
1799年
フランス革命戦争
エジプト・シリア戦役
タボル山の戦い
1853年
インドのムンバイと郊外のターネーの間の33.6kmを結ぶ、アジア初の鉄道が開業。
インドでアジア初となる鉄道がムンバイとターネー間の33.6kmで開業した出来事です。
1853年4月16日、インドのムンバイ(当時ボンベイ)とターネーを結ぶ全長33.6kmの鉄道が開業しました。
これはアジア初の鉄道であり、東インド会社の支援を受けて建設されました。
蒸気機関車による列車運行が始まり、物資・人員輸送に革命をもたらしました。
植民地支配を背景にした交通インフラ整備の先駆けであり、後のインド鉄道網拡大の礎となりました。
この路線は現在もムンバイ・サブアーバン鉄道として活用されています。
1853年
インド
ムンバイ
ターネー
鉄道
安政3年3月12日
江戸幕府が江戸駒場で初めて洋式の兵士訓練を行う。
江戸幕府が駒場で初めて西洋式兵士訓練を開始した日です。
1856年4月16日(安政3年3月12日)、江戸幕府は江戸駒場演習場(現在の東京大学駒場地区付近)で初めて洋式の歩兵訓練を実施しました。
蘭学を通じて導入された西洋火器や戦術を学ぶ目的で行われ、幕府軍の近代化を図る試みでした。
訓練には銃剣術や隊列行進などが含まれ、従来の武士の訓練とは一線を画しました。
この実践的な演習は後の幕府軍再編や軍事技術の導入に影響を与えました。
幕末期の技術革新と国防強化への第一歩として評価されています。
1856年
安政
3月12日