1071年
東ローマ帝国の南イタリア最後の領地であるバーリがノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドにより占領される。
ノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドがバーリを占領し、東ローマ帝国最後の南イタリア領を奪取。
1071年、ノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドはバーリを占領し、東ローマ帝国の南イタリア最後の拠点を奪取しました。バーリは当時、東ローマ帝国の行政・軍事の要衝でした。ノルマン人は長年にわたって南イタリアを席巻し、この占領により勢力圏を一層拡大しました。ロベルトの行動は後のシチリア王国建国へつながる足がかりとなりました。東ローマ帝国のイタリアにおける影響力が大きく後退した歴史的転換点です。
1071年
東ローマ帝国
バーリ
ノルマン人
ロベルト・イル・グイスカルド
1450年
百年戦争: フォルミニーの戦い。フランスが勝利し、イングランドはノルマンディーから撤退。
百年戦争中のフォルミニーの戦いでフランス軍が英軍に勝利、ノルマンディーから英軍撤退。
1450年のフォルミニーの戦いは百年戦争の転機となった戦闘です。フランス軍は最新の火砲を用いてイングランド軍を打ち破り、ノルマンディーからの英軍撤退を決定づけました。これによりイングランドの大陸領有は大幅に縮小しました。フランス王シャルル7世の支配体制が強化され、百年戦争後半戦の流れを変えた重要な勝利とされます。
1450年
百年戦争
フォルミニーの戦い
フランス
イングランド
ノルマンディー
ユリウス暦4月5日
三十年戦争: レヒ川の戦い。
スウェーデン軍がレヒ川で神聖ローマ帝国軍を破る重要な戦闘が行われた。
1632年のレヒ川の戦いでは、スウェーデン王グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍が帝国軍を奇襲し勝利しました。激流のレヒ川を渡河しながらの戦術が功を奏し、神聖ローマ帝国軍は混乱に陥りました。この勝利によりスウェーデン軍の勢いは増し、三十年戦争の戦局に大きな影響を与えました。戦術的革新と迅速な攻撃が評価され、ヨーロッパ戦争史上の名高い戦いとされています。
1632年
ユリウス暦
4月5日
三十年戦争
レヒ川の戦い
1885年
巨文島事件。イギリス海軍が朝鮮の巨文島を占領。1887年3月に撤退。
イギリス海軍が朝鮮の巨文島を占領した巨文島事件が発生。
1885年、イギリス海軍は韓国の巨文島を占領し、巨文島事件が発生しました。朝鮮政府との交渉以前に軍事行動を取ったことで国際的な批判を招きました。イギリスは1887年に撤退するまで島を一時支配し、朝鮮の主権問題が浮き彫りになりました。事件は朝鮮の開国と列強の介入関係を示す事例となりました。
1885年
巨文島事件
イギリス海軍
巨文島
1945年
第二次世界大戦: ベルゲン・ベルゼン強制収容所がイギリス軍により解放される。
ベルゲン・ベルゼン強制収容所がイギリス軍により解放されました。
ドイツ・ナチス政権下で運営された強制収容所の一つ、ベルゲン・ベルゼンが英国第11歩兵師団により解放されました。
軽度の収容者も含め多くが栄養失調と病気で衰弱しており、現地では医療救援活動が急務となりました。
解放時には約7万人の生存者が保護され、犠牲者の遺体が大量に発見されました。
この映像や報告は世界にホロコーストの実態を広く伝え、戦後の人権尊重の契機となりました。
ベルゲン・ベルゼンは後に記念碑と博物館が建立され、記憶と教訓が継承されています。
1945年
第二次世界大戦
ベルゲン・ベルゼン強制収容所
1945年
第二次世界大戦・日本本土空襲: 米軍機が東京南部・川崎を無差別爆撃。死者841名。
米軍の東京南部・川崎への無差別爆撃により、841名が犠牲となりました。
第二次世界大戦末期、B-29爆撃機による東京南部と川崎市への爆撃が実施されました。
工業地帯を標的としたものの、住宅街にも被害が及び、民間人を中心に多数の死傷者が発生しました。
同年3月の大規模焼夷弾攻撃とは異なり高高度爆撃であったが、被害は甚大を極めました。
歴史的記録や証言により、市街地の壊滅的被害と市民の苦悩が伝えられています。
この爆撃は終戦への道程で繰り返された空襲の一つとして、戦争の悲惨さを象徴しています。
日本本土空襲
1969年
アメリカ海軍EC 121機撃墜事件が起こる。
北朝鮮がアメリカ海軍のEC-121偵察機を撃墜した事件が発生しました。
1969年4月15日、北朝鮮沿岸上空を飛行していたアメリカ海軍のEC-121M偵察機が北朝鮮軍機に撃墜されました。
搭乗していた31名の乗員は全員戦死し、アメリカ政府は強く抗議しました。
冷戦下の東アジア情勢を一層緊迫化させる事件となり、米軍の偵察活動に大きな制限が生じました。
事件の詳細は長らく機密扱いとされ、冷戦期の象徴的な対立エピソードとして記録されています。
米朝間の緊張はその後も続き、地域の安全保障環境に深い影響を与えました。
1969年
アメリカ海軍EC-121機撃墜事件
1986年
アメリカ軍がムアンマル・アル=カッザーフィー暗殺のためリビアを爆撃。
米国がリビアを爆撃し、ムアンマル・アル=カッザーフィー暗殺を狙った軍事行動を実施。
1986年4月15日、アメリカ軍はリビア国内の軍事施設を標的とした爆撃作戦「エル・ドラド・キャニオン」を開始しました。これはリビア政府が関与したとされるベルリンのナイトクラブ爆破事件への報復措置と位置づけられました。トリポリとベンガジの両都市が攻撃を受け、軍事施設や指令センターが破壊されました。国際社会からは賛否両論が巻き起こり、アメリカとリビアの緊張関係はさらに高まりました。カッザーフィーの暗殺には至らなかったものの、リビアの報復や国際的なテロ活動への懸念を招きました。
1986年
ムアンマル・アル=カッザーフィー
リビアを爆撃
2004年
イラク日本人人質事件で拘束されていた3人が8日ぶりに解放され、全員の無事が確認される。
イラクで拘束されていた日本人3名が解放され、全員の無事が確認された。
2004年4月15日、イラクで誘拐・拘束されていた日本人ジャーナリスト2名と民間人1名が解放されました。彼らは現地ジャーナリストとして取材活動中に武装勢力に拉致され、約8日間監禁されていました。解放後、彼らは健康状態に問題がないことが確認され、日本政府や外務省が安否情報の発信と帰国支援を行いました。この事件は日本国内でイラク情勢への関心を高め、人質事件に対する政府対応や安全対策の議論を呼び起こしました。以降、邦人の危機管理体制の強化が図られ、海外渡航者向けの情報提供が拡充されました。
2004年
イラク日本人人質事件
2013年
ボストンマラソン爆弾テロ事件。
2013年4月15日、ボストンマラソンのゴール付近で爆弾テロが発生し、多数の負傷者が出ました。アメリカ国内外に大きな衝撃を与えた事件です。
2013年のボストンマラソン当日、レース終盤のゴール付近で2か所に設置された爆弾が爆発しました。観客や選手が集まる時間帯での事件により、約260人以上が負傷し、3名が死亡しました。米連邦捜査局(FBI)は直ちに捜査を開始し、容疑者として兄弟とみられる人物を特定しました。市内では厳重な警戒態勢が敷かれ、一時的に都市機能が麻痺しました。防犯対策強化の転換点となり、全国の大規模イベントでの警備強化が進められました。
2013年
ボストンマラソン爆弾テロ事件