寛仁元年3月16日

藤原道長の長男・頼通が摂政に就任。

藤原道長の長男・頼通が摂政に就任し、藤原氏の摂関政治が更に強化された。
1017年、藤原道長の長男・頼通は摂政に就任し、藤原氏による摂関政治が更に強化されました。摂政は天皇の代行として政治の実権を握る役職です。頼通は父道長の跡を継ぎ、政治・文化面で大きな影響力を持ちました。彼の政権下で朝廷文化が栄え、後世に「黄金時代」と称される平安時代中期の基盤が築かれました。頼通の摂政就任は藤原氏の権勢を象徴する重要な出来事です。
1017年 寛仁 3月16日 藤原道長 頼通 摂政
1071年

東ローマ帝国の南イタリア最後の領地であるバーリがノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドにより占領される。

ノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドがバーリを占領し、東ローマ帝国最後の南イタリア領を奪取。
1071年、ノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドはバーリを占領し、東ローマ帝国の南イタリア最後の拠点を奪取しました。バーリは当時、東ローマ帝国の行政・軍事の要衝でした。ノルマン人は長年にわたって南イタリアを席巻し、この占領により勢力圏を一層拡大しました。ロベルトの行動は後のシチリア王国建国へつながる足がかりとなりました。東ローマ帝国のイタリアにおける影響力が大きく後退した歴史的転換点です。
1071年 東ローマ帝国 バーリ ノルマン人 ロベルト・イル・グイスカルド
1245年

モンゴル帝国に対するローマ教皇の使者として、修道士プラノ・カルピニがモンゴルへ出発。

修道士プラノ・カルピニがローマ教皇特使としてモンゴル帝国への使節団を出発。
1245年、ローマ教皇インノケンティウス4世は修道士プラノ・カルピニをモンゴル帝国への使節団長に任命しました。彼はヨーロッパとアジアを結ぶ最初期の歴史的使節の一人です。カルピニは極寒のシベリアや中央アジアを越え、約100日かけてモンゴル大草原に到達しました。彼の報告はモンゴル帝国の政治・文化をヨーロッパに伝える貴重な資料となりました。西洋と東洋の関係史において画期的な旅の一つとされています。
1245年 モンゴル帝国 ローマ教皇 プラノ・カルピニ
1450年

百年戦争: フォルミニーの戦い。フランスが勝利し、イングランドはノルマンディーから撤退。

百年戦争中のフォルミニーの戦いでフランス軍が英軍に勝利、ノルマンディーから英軍撤退。
1450年のフォルミニーの戦いは百年戦争の転機となった戦闘です。フランス軍は最新の火砲を用いてイングランド軍を打ち破り、ノルマンディーからの英軍撤退を決定づけました。これによりイングランドの大陸領有は大幅に縮小しました。フランス王シャルル7世の支配体制が強化され、百年戦争後半戦の流れを変えた重要な勝利とされます。
1450年 百年戦争 フォルミニーの戦い フランス イングランド ノルマンディー
ユリウス暦4月5日

三十年戦争: レヒ川の戦い。

スウェーデン軍がレヒ川で神聖ローマ帝国軍を破る重要な戦闘が行われた。
1632年のレヒ川の戦いでは、スウェーデン王グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍が帝国軍を奇襲し勝利しました。激流のレヒ川を渡河しながらの戦術が功を奏し、神聖ローマ帝国軍は混乱に陥りました。この勝利によりスウェーデン軍の勢いは増し、三十年戦争の戦局に大きな影響を与えました。戦術的革新と迅速な攻撃が評価され、ヨーロッパ戦争史上の名高い戦いとされています。
1632年 ユリウス暦 4月5日 三十年戦争 レヒ川の戦い

1865年 前日襲撃されたエイブラハム・リンカーンが死亡。副大統領だったアンドリュー・ジョンソンが大統領に昇格した。

リンカーン大統領が暗殺の翌日に死亡し、副大統領ジョンソンが大統領に昇格。
1865年4月14日、エイブラハム・リンカーンは劇場で暗殺され、翌15日に死亡しました。副大統領アンドリュー・ジョンソンが大統領に昇格し、南北戦争後の再建時代を任されました。リンカーンの死はアメリカ合衆国に深い衝撃を与え、政治的空白を生みました。ジョンソンは異なる政策を進め、リンカーン路線と対立する場面も見られました。アメリカ史における重大な権力移行の一つです。
1865年 エイブラハム・リンカーン アンドリュー・ジョンソン
明治2年3月4日

明治政府が円貨の制度を定める。

明治政府が国内通貨単位として円貨制度を制定し、新貨幣制度を導入。
1869年、明治政府は通貨制度改革の一環として円を基本単位とする円貨法を公布しました。これにより従来の租庸調や天保通宝などから近代的な十進法貨幣制度へ移行しました。新しい円貨は金銀比価を基準とし、明治日本の財政基盤を安定させる役割を果たしました。国内の商取引が活性化し、産業発展を後押ししました。近代日本の通貨制度の礎を築いた重要な法令です。
1869年 明治 3月4日 円貨
明治3年3月15日

西村勝三が築地に伊勢勝造靴場を設立。日本初の西洋靴工場。

西村勝三が東京・築地に日本初の西洋靴工場を設立。
1870年、西村勝三は東京・築地に伊勢勝造靴場を設立し、日本初の西洋靴製造を本格的に開始しました。これまで主に輸入に頼っていた西洋靴が国内生産されるようになり、近代工業化の先駆けとなりました。工場では機械設備を導入し、生産効率を向上させました。この取り組みは日本の産業化と西洋文化受容の象徴とされています。
1870年 3月15日
1885年

巨文島事件。イギリス海軍が朝鮮の巨文島を占領。1887年3月に撤退。

イギリス海軍が朝鮮の巨文島を占領した巨文島事件が発生。
1885年、イギリス海軍は韓国の巨文島を占領し、巨文島事件が発生しました。朝鮮政府との交渉以前に軍事行動を取ったことで国際的な批判を招きました。イギリスは1887年に撤退するまで島を一時支配し、朝鮮の主権問題が浮き彫りになりました。事件は朝鮮の開国と列強の介入関係を示す事例となりました。
1885年 巨文島事件 イギリス海軍 巨文島
1892年

ゼネラル・エレクトリック創業。

ゼネラル・エレクトリック社が米国で創業され、世界的電機企業が誕生。
1892年、トーマス・エジソンらの合弁によりゼネラル・エレクトリックが創業されました。エジソン電灯会社とトムソン・ヒューストン電気会社が合併し、世界有数の電機メーカーが誕生しました。GEは発電機や電球など電力関連製品の生産を拡大し、産業の電化を牽引しました。20世紀の技術革新に大きく貢献し、世界シェアを拡大しました。
1892年 ゼネラル・エレクトリック
1896年

4月6日から開催されていた第1回近代オリンピック(アテネオリンピック)が閉幕。

第1回近代オリンピック(アテネ大会)が閉幕し、現代オリンピックの原点が刻まれました。
古代オリンピックの精神を現代に甦らせる目的で開催された第1回近代オリンピックは、ギリシャのアテネで4月6日に開幕し、この日閉会式を迎えました。競技には14か国から241名の選手が参加し、トラック競技や体操、ウエイトリフティングなど多様な種目が行われました。ピエール・ド・クーベルタンの提唱で設立された組織委員会により、国際オリンピック委員会の基盤が築かれ、大会運営やメダル授与など現在のルールの原型が確立しました。ギリシャ選手の活躍が母国で大きな歓声を呼び、現代オリンピックの成功を世界に印象づけました。この歴史的な大会は、その後のオリンピック継続開催の礎となりました。
1896年 4月6日 近代オリンピック アテネオリンピック
1897年

オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミア地方においてドイツ語と並んでチェコ語も公用語と定めた政令が発布(バデーニ言語令)。

オーストリア=ハンガリー帝国がバデーニ言語令を発布し、チェコ語をボヘミア地方の公用語に追加しました。
1897年、帝国内の多言語・多民族問題の解決を図るため、首相クンラート・フォン・バデーニがバデーニ言語令を発布しました。これによりボヘミア地方では従来のドイツ語に加えてチェコ語も公用語として認められ、行政・司法・教育の各分野での使用が可能となりました。チェコ語の地位向上は地域のチェコ民族運動を勢いづけ、国民意識の高揚につながりました。しかし、ドイツ系住民からは反発の声も上がり、領域内の緊張を一層深めました。バデーニ言語令は帝国の多元的国家運営の試みとして評価される一方で、民族対立を顕在化させる結果ともなりました。
1897年 オーストリア=ハンガリー帝国 ボヘミア ドイツ語 チェコ語 公用語 バデーニ言語令