慶長8年3月3日
日本橋に初代の木造橋が架橋される。
慶長8年、日本橋に初めて木造の橋が架けられ、日本の交通と物流の要所が誕生。
慶長8年(1603年)3月3日、江戸幕府の命により日本橋川に初代の木造日本橋が架橋されました。日本橋は五街道の起点とされ、東海道や中山道など各方面への人々や荷物の往来が集まる要衝となりました。橋の架設によって江戸の町は一層発展し、交易や文化交流が活性化しました。江戸時代を代表する土木工事の一つであり、その後何度も架け替えられながら今日に至るまで日本のシンボル的存在となっています。
1603年
慶長
3月3日
日本橋
寛文10年2月25日
箱根用水の全長1,200メートルの隧道が貫通。
寛文10年、箱根用水の山岳区間に全長1,200メートルの水路隧道が貫通し、水利権事業が完成。
寛文10年(1670年)2月25日、箱根周辺の山地を貫く箱根用水の隧道が全長約1,200メートルで貫通し、試掘工事が成功しました。隧道は関東平野への農業用水を確保するための重要なインフラで、江戸時代の土木技術の粋を集めたものとされます。石垣の補強や武士たちの施工監督のもとで分業が行われ、大規模な人力による掘削工事が展開されました。用水は東海道や箱根街道沿いの田畑に供給され、地域経済の安定に大きく寄与しました。隧道の完成は当時の土木技術の高さを示す画期的成果となりました。
1670年
寛文
2月25日
箱根用水
隧道
1879年
横浜 新橋の鉄道に日本人運転士が初めて乗務。翌年11月から全列車に乗務。
横浜・新橋間の鉄道に日本人運転士が初めて乗務し、鉄道普及の転機となった。
1879年4月14日、横浜駅から新橋駅間で運行されていたイギリス製の列車に、日本人として初めて運転士が任命され乗務しました。当初は外国人技師が大半を占めていた鉄道技術職において、近代化を担う日本人技術者の育成が始まった瞬間とされます。翌1880年11月からは全列車に日本人運転士が配置され、日本の鉄道普及と技術自立に寄与しました。鉄道輸送の信頼性向上とともに、各地の産業発展や都市間交流が加速しました。
1879年
横浜
新橋
1921年
軌道法公布。
都市部の路面電車敷設・運営を規定する日本初の本格的な法規『軌道法』が公布されました。
1921年4月14日、日本において『軌道法』が公布されました。
本法は都市部における軌道(路面電車)の敷設・運営を規定し、安全基準や認可手続きなどを定めるものです。
軌道事業者は国や府県からの許可を受ける義務が課され、運行の安全性向上を図ることを目的としました。
都市交通の近代化と公共輸送網の整備を後押しし、路面電車の全国的普及に大きく寄与しました。
その後、都市交通の変遷とともに多くの路面電車は廃止されましたが、軌道法は以降の交通関連法制の基盤となりました。
1921年
軌道法
1929年
大阪鉄道(現・近鉄南大阪線)上ノ太子駅で 大鉄電車三重衝突事故発生。
大阪鉄道上ノ太子駅で鉄道車両3編成が衝突し、多数の負傷者が発生した三重衝突事故が起きました。
1929年4月14日、大阪鉄道(現・近鉄南大阪線)の上ノ太子駅構内で列車3編成が立て続けに衝突する大規模な鉄道事故が発生しました。
乗客の乗降や信号の誤作動などが重なり、前方停止中の列車に後続列車が追突、その衝撃で周囲の車両にも連鎖的な衝突が引き起こされました。
事故により多くの乗客・乗員が負傷し、一時的に同線の運行が全面ストップする事態となりました。
この事故を受け、大阪鉄道は信号システムや駅構内の安全対策を見直し、夜間および混雑時の運行規則を強化しました。
その教訓は後の鉄道事故防止策に生かされ、鉄道安全技術の向上に寄与する契機となりました。
大阪鉄道
近鉄南大阪線
上ノ太子駅
大鉄電車三重衝突事故
2012年
新東名高速道路の御殿場JCT 浜松いなさJCT間(約162km)が開通。日本の高速道路の新規開通距離としては過去最長。
新東名高速道路の御殿場JCTから浜松いなさJCT間162kmが開通し、日本史上最長の一括開通距離を記録しました。
地域間のアクセス強化や物流効率化に大きく寄与しました。
2012年4月14日に新東名高速道路の御殿場JCTから浜松いなさJCT間(約162km)が開通しました。
この区間の一括開通距離は、日本の高速道路として過去最長を誇ります。
新東名高速道路は東名高速道路の混雑緩和と物流効率化を目的に計画されました。
開通により静岡県内の主要都市間の所要時間が短縮され、交通の安全性も向上しました。
高規格の設計やサービスエリア、非常用駐車帯など最新設備が導入されました。
2012年
新東名高速道路
御殿場JCT
浜松いなさJCT