安和2年3月25日

安和の変。源満仲の密告により源高明が皇太子・守平親王(後の円融天皇)廃立陰謀のかどで大宰権帥に左遷される。これにより藤原氏政権が確立する。

源高明の皇太子廃立陰謀が露見し、大宰権帥への左遷を命じられた事件。これにより藤原氏の権力が一層強化された。
安和2年(969年)3月25日、源満仲の密告をきっかけに、源高明が皇太子守平親王(後の円融天皇)廃立陰謀を企てたとして告発され、大宰権帥に左遷されました。陰謀の真偽は定かではないものの、藤原氏一門の権力基盤を揺るがす危機とみなされました。結果として、政務の中心は藤原氏に一層集中し、以後の王朝政治における藤原氏政権が確立しました。朝廷内の実力者同士の勢力争いと陰謀が浮き彫りになった事件です。
969年 安和 3月25日 安和の変 源満仲 源高明 円融天皇 大宰権帥 藤原氏
1205年

第4回十字軍: ハドリアノポリスの戦い。ラテン帝国軍がブルガリア帝国軍に大敗し、皇帝ボードゥアン1世が捕虜となる。

第4回十字軍のハドリアノポリスの戦いで、ラテン帝国軍がブルガリア帝国軍に大敗し、皇帝ボードゥアン1世が捕虜となった事件。
1205年4月14日、第4回十字軍の一環としてハドリアノポリス(現ヴェリコ・タルノヴォ)近郊で戦闘が行われました。この戦いで、ラテン帝国軍はブルガリア帝国軍の巧妙な包囲戦術に遭い、大敗北を喫しました。皇帝ボードゥアン1世は捕らえられ、一時身柄を拘束されました。ブルガリア側は軽騎兵を中心とした迅速な奇襲を成功させたことが勝因とされ、中世東欧の軍事技術と戦術の一端を示す事例となりました。また、捕虜となったボードゥアン1世は数か月後に釈放されますが、この事件は十字軍史における重要な転換点となりました。
1205年 第4回十字軍 ハドリアノポリスの戦い ラテン帝国 ブルガリア帝国 ボードゥアン1世
永仁元年3月7日

鎌倉幕府が、蒙古再来に備え九州の裁判と軍事指揮を行う鎮西探題を博多に設置。

蒙古襲来に備え、鎌倉幕府が九州に鎮西探題を設置して軍事・司法を統括した。
永仁元年(1293年)3月7日、鎌倉幕府は蒙古再来に備えて九州地方の防備強化と統治を図るため、博多に鎮西探題を設置しました。鎮西探題は軍事指揮権と行政・司法権を兼ね備え、異国警備の最前線として機能しました。征夷大将軍から任命された探題所司は現地の守護と協調しつつ、裁判や領地支配を行いました。これにより九州諸国の統一的な防衛体制が整えられ、後の元寇に対抗する基盤が築かれました。日本の中世地方政治における重要な制度改革として評価されます。
1293年 永仁 3月7日 鎮西探題
1471年

薔薇戦争: バーネットの戦い

薔薇戦争中のバーネットの戦いで、ヨーク派のエドワード4世がランカスター派を破り優位を確立した。
1471年4月14日、イングランドの薔薇戦争においてヨーク家のエドワード4世がランカスター家の支持者を迎え撃った大規模な戦闘が行われました。ランカスター派はヒュー・ダヴェンポート率いる軍勢を指導しましたが、混乱した戦場で一部味方と誤認される騎兵隊が乱入し、戦局が一変しました。エドワード4世は包囲戦術を成功させ、多くのランカスター派貴族を討ち取りました。この勝利によりヨーク朝の再興が決定的となり、戦争の行方を大きく左右しました。
1471年 薔薇戦争 バーネットの戦い
慶長8年3月3日

日本橋に初代の木造橋が架橋される。

慶長8年、日本橋に初めて木造の橋が架けられ、日本の交通と物流の要所が誕生。
慶長8年(1603年)3月3日、江戸幕府の命により日本橋川に初代の木造日本橋が架橋されました。日本橋は五街道の起点とされ、東海道や中山道など各方面への人々や荷物の往来が集まる要衝となりました。橋の架設によって江戸の町は一層発展し、交易や文化交流が活性化しました。江戸時代を代表する土木工事の一つであり、その後何度も架け替えられながら今日に至るまで日本のシンボル的存在となっています。
1603年 慶長 3月3日 日本橋
寛文10年2月25日

箱根用水の全長1,200メートルの隧道が貫通。

寛文10年、箱根用水の山岳区間に全長1,200メートルの水路隧道が貫通し、水利権事業が完成。
寛文10年(1670年)2月25日、箱根周辺の山地を貫く箱根用水の隧道が全長約1,200メートルで貫通し、試掘工事が成功しました。隧道は関東平野への農業用水を確保するための重要なインフラで、江戸時代の土木技術の粋を集めたものとされます。石垣の補強や武士たちの施工監督のもとで分業が行われ、大規模な人力による掘削工事が展開されました。用水は東海道や箱根街道沿いの田畑に供給され、地域経済の安定に大きく寄与しました。隧道の完成は当時の土木技術の高さを示す画期的成果となりました。
1670年 寛文 2月25日 箱根用水 隧道
1828年

ノア・ウェブスターが『アメリカ英語辞典』初版を出版。

ノア・ウェブスターが初版『アメリカ英語辞典』を出版し、アメリカ英語の基礎を築いた。
1828年4月14日、アメリカの学者ノア・ウェブスターは『An American Dictionary of the English Language』の初版を刊行しました。約70,000語を収録し、アメリカ特有の綴りや用法を反映させた画期的な辞書です。従来のイギリス英語辞書との差別化を図り、アメリカ合衆国の国語的統一と教育振興に寄与しました。ウェブスターの辞書は数度の改訂を経て標準的な辞典となり、今日のアメリカ英語の基盤を築いた功績は大きいとされています。
1828年 ノア・ウェブスター アメリカ英語辞典 英語版
1849年

コシュート・ラヨシュがハンガリーのオーストリアからの独立を宣言し、執政官に就任。

ハンガリーのコシュート・ラヨシュがオーストリアからの独立を宣言し、執政官に就任した。
1849年4月14日、ハンガリー革命の指導者であるラヨシュ・コシュートはペシュト(現ブダペスト)において、ハンガリー王国のオーストリア帝国からの独立を宣言し、執政官(ナショナル・プレジデント)に就任しました。コシュートは市民軍を再編し、自由と国民主権を掲げて圧政に抵抗を続けました。オーストリア軍との激しい衝突が各地で発生し、ハプスブルク家支配への挑戦と位置づけられました。宣言後まもなくロシア帝国の介入を招き、最終的には独立運動は鎮圧されますが、ハンガリーの民族自決の象徴となる出来事です。
1849年 コシュート・ラヨシュ ハンガリー オーストリア
1865年

アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンがワシントンのフォード劇場で狙撃される。翌日死亡。(リンカーン大統領暗殺事件)

リンカーン大統領がフォード劇場で暗殺され、アメリカ史に衝撃を与えた事件。
1865年4月14日、ワシントンのフォード劇場で第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが俳優ジョン・ウィルkes・ブースにより狙撃されました。リンカーンは翌15日未明に死亡し、南北戦争終結直後の国家運営に大きな痛手を残しました。暗殺事件はアメリカ国民に強い衝撃を与え、復興期(レコンストラクション)の政策にも影響を及ぼしました。劇場内での混乱や護衛の不備が後世にわたり議論され、リンカーンの遺志と功績は今なお称えられています。
1865年 アメリカ合衆国大統領 エイブラハム・リンカーン フォード劇場 リンカーン大統領暗殺事件
1879年

横浜 新橋の鉄道に日本人運転士が初めて乗務。翌年11月から全列車に乗務。

横浜・新橋間の鉄道に日本人運転士が初めて乗務し、鉄道普及の転機となった。
1879年4月14日、横浜駅から新橋駅間で運行されていたイギリス製の列車に、日本人として初めて運転士が任命され乗務しました。当初は外国人技師が大半を占めていた鉄道技術職において、近代化を担う日本人技術者の育成が始まった瞬間とされます。翌1880年11月からは全列車に日本人運転士が配置され、日本の鉄道普及と技術自立に寄与しました。鉄道輸送の信頼性向上とともに、各地の産業発展や都市間交流が加速しました。
1879年 横浜 新橋
1890年

汎米連合(米州機構の前身の一つ)が発足。

アメリカ大陸の政府間協力を目的とした汎米連合が発足しました。後に米州機構の一翼を担う組織へと発展します。
1890年4月14日、アメリカ合衆国ワシントンD.C.で開催された『米州諸国会議』の成果として汎米連合(Pan-American Union)が正式に発足しました。 本機関は、アメリカ大陸における国家間協力と外交対話を推進するための初の恒常的組織です。 20世紀を通じて、地域的安全保障や経済協力、人的交流など多岐にわたる活動を展開しました。 1948年には更に拡大し、現在の米州機構(Organization of American States: OAS)へと移行しました。 汎米連合の設立は、ラテンアメリカ諸国とアメリカ合衆国の友好関係強化の礎となりました。
1890年 米州機構
1912年

豪華客船タイタニック号がニューファンドランド島沖で氷山に衝突。翌日未明に沈没。死者1,513人。

豪華客船タイタニック号が氷山と衝突し、翌日の未明に沈没しました。約1,500人を超える犠牲者が出た史上最悪級の海難事故です。
1912年4月14日21時40分頃、ロンドン発ニューヨーク行きの豪華客船タイタニック号がニューファンドランド島沖で氷山と衝突しました。 船体に大きな損傷を受けたタイタニック号は約2時間40分後の翌日未明、氷冷の大西洋に沈没。 救命ボートの不足や乗客・乗員の避難混乱を招き、約1,513名の尊い命が失われました。 当時最大級を誇った船の悲劇は、船舶安全規則の大幅な見直しと国際的な海事法整備を促す契機となりました。 沈没場所には現在もタイタニック号の残骸が散在し、海洋探査や映画などで悲劇の物語は語り継がれています。
1912年 タイタニック号 ニューファンドランド島 沈没