延元元年/建武3年3月2日

南北朝時代: 九州に落ち延びていた足利尊氏が再び挙兵、多々良浜の戦いで南朝方の菊池武敏を破る。

1336年、南北朝時代の戦いで足利尊氏が多々良浜の戦いに勝利しました。
延元元年/建武3年3月2日(1336年)、足利尊氏は九州で再挙兵した。 多々良浜の戦いで南朝方の武将・菊池武敏を破り、大きな戦果を挙げた。 この勝利により尊氏は九州の制圧を進め、勢力基盤を強固にした。 戦いの舞台となった多々良浜は、地形を生かした戦術が功を奏した場所として知られる。 足利尊氏の連勝は室町幕府成立への足掛かりとなった。
1336年 延元 建武 3月2日 南北朝時代 足利尊氏 多々良浜の戦い 菊池武敏
1777年

アメリカ独立戦争: バウンドブルックの戦い行われる。

1777年、アメリカ独立戦争の一戦、バウンドブルックの戦いが行われました。
1777年4月13日、ニュージャージー州バウンドブルック近郊で戦闘が発生した。 イギリス軍が奇襲を仕掛け、アメリカ大陸軍を一時的に後退させることに成功した。 一方で大陸軍は組織的な退却を行い、大きな損害を免れた。 この戦いはゲリラ戦術や地形利用の重要性を示した事例として知られる。 結果的に両軍とも大きな勝敗を得られず、戦線は膠着状態に陥った。
1777年 アメリカ独立戦争 バウンドブルックの戦い
1917年

アメリカ海軍の戦艦「ニューメキシコ」が進水。

1917年、アメリカ海軍の新鋭戦艦「ニューメキシコ」が進水し、大戦期の海軍力強化に寄与しました。
1917年4月13日、アメリカ海軍のニューメキシコ級戦艦の1番艦「ニューメキシコ」がニューヨーク州クライスラー造船所で進水しました。 この戦艦は第一次世界大戦中の海上戦力強化を目的に建造され、305mm主砲を搭載していました。 ニューメキシコ級は重装甲と高出力ボイラーを備え、航続距離と火力のバランスに優れていました。 進水当日は多くの関係者が参列し、戦艦の完成に期待が高まりました。 この艦は後に大西洋艦隊に配属され、第一次世界大戦中は艦隊戦力の一翼を担いました。 退役後も第二次世界大戦初期まで現役で活躍し、アメリカ海軍の近代化を象徴する存在となりました。
1917年 アメリカ海軍 ニューメキシコ
1919年

アムリットサル事件: インドで起こった独立運動弾圧事件。アムリットサル公園に祭りで集まった民衆を、イギリス軍がガンディーの不服従運動と誤断して発砲。379名が死亡した。

1919年、インドのアムリットサルでイギリス軍が民衆に発砲し、約379名が死亡した弾圧事件が発生しました。
1919年4月13日、インド北部アムリットサルの公共公園(ジャリアンワーラー・バーグ)で平和的な集会が開かれました。 英領インド帝国のイギリス軍総督ニコルソン将軍は不服従運動を恐れ、群衆に無警告で発砲を命じました。 狭い塀に囲まれた場所で約10分間続いた銃撃により、死者は379名、負傷者は数百名に上りました。 この事件はアムリットサル事件(ジャリアンワーラー・バーグ虐殺)として知られ、世界に衝撃を与えました。 ガンディーをはじめとするインド独立運動の機運を一層高める契機となりました。 後に英本国でも批判が高まり、この虐殺は帝国主義支配の残酷さを象徴する出来事とされました。
1919年 アムリットサル事件 インド ガンディー
1940年

第二次世界大戦: 第2次ナルヴィク海戦がおこなわれる。

1940年、ノルウェー戦役の重要な海戦である第2次ナルヴィク海戦が行われました。
1940年4月13日、第二次世界大戦中のノルウェー戦役において第2次ナルヴィク海戦が勃発しました。 英仏連合艦隊とドイツ海軍がナルヴィク港付近で激突し、鉄鉱石輸送拠点の支配を巡る争奪戦となりました。 連合国側は駆逐艦や巡洋艦を投入し、ドイツ艦艇を撃沈するなど一定の成果を収めました。 一方、ドイツ側も潜水艦や沿岸砲台で反撃し、連合国艦隊に損害を与えました。 この海戦はノルウェー戦役全体の流れに影響を与え、北大西洋戦線の展開に寄与しました。
第二次世界大戦 第2次ナルヴィク海戦
1943年

カティンの森事件: ドイツのラジオ放送が、ソ連領内カティンの森でポーランド将校4,000人の遺体を発見と報じる。

カティンの森でポーランド将校約4,000人の遺体が発見されたとドイツのラジオ放送が報じた。
1943年4月13日、ドイツのラジオ放送はソ連領内のカティンの森でポーランド将校約4,000人の遺体が発見されたと報じた。 この虐殺は1940年にソ連の秘密警察NKVDが行ったとされ、第二次世界大戦中の大きな論争を呼んだ。 発見のニュースは当時の連合国側と枢軸国側のプロパガンダ合戦の一端を担い、犠牲者の遺族や国際社会に衝撃を与えた。 戦後の調査と証言により、責任はソ連側にあると認定され、冷戦期の歴史認識をめぐる問題として長く議論された。 今日では、カティンの森事件として国際的に記憶されている。
1943年 カティンの森事件 ソ連
1945年

第二次世界大戦・ウィーン攻勢: 赤軍がウィーンを占領。

赤軍がウィーンを制圧し、第二次世界大戦末期の重要拠点を奪取した。
1945年4月13日、第二次世界大戦末期にソ連赤軍はウィーン攻勢を開始し、同市を占領した。 ウィーンはナチス・ドイツにとって東部戦線の重要拠点であり、この占領により枢軸国は大きな打撃を受けた。 戦闘は市街地での激しい市街戦となり、多くの市民や兵士が犠牲となった。 赤軍の勝利はドイツ東部陣地の崩壊を象徴し、終戦に向けた連合軍の進撃を後押しした。 ウィーン占領後、同市は連合国によって軍事占領下に置かれ、戦後復興の一歩が始まった。
1945年 ウィーン攻勢 赤軍 ウィーン
1948年

アミーン・フサイニー指揮下のアラブ人ゲリラがヘブライ大学の医療スタッフを虐殺。(ハダサー医療従事者虐殺事件)

第一次中東戦争中、アミーン・フサイニー指揮下のアラブ人ゲリラがハダサー医療スタッフを襲撃した。
1948年4月13日、第一次中東戦争の混乱の中でアミーン・フサイニー率いるアラブ人ゲリラがエルサレムのハダサー病院付近で医療スタッフを襲撃した。 犠牲となったスタッフの多くはヘブライ大学付属の医療従事者であり、治療にあたっていた国際的に評価の高いチームであった。 事件は武装衝突の激化を象徴し、戦闘員だけでなく民間人や医療従事者が標的となる残虐性を際立たせた。 この虐殺事件は国際社会の非難を集め、中東和平への障害となった。 今日でもこの出来事は、戦時下における戦争犯罪として記憶されている。
1948年 アミーン・フサイニー アラブ人 ヘブライ大学 ハダサー医療従事者虐殺事件
1990年

ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が、カティンの森事件がソ連秘密警察の犯行であったことを認め陳謝。

ゴルバチョフ大統領がカティンの森事件へのソ連責任を公式に認め、謝罪しました。
カティンの森事件は第二次世界大戦中に旧ソ連秘密警察(NKVD)が約2万2千名のポーランド人将校を虐殺した事件です。戦後、ソ連は長らく責任を否定し、ナチス・ドイツの仕業と主張してきました。しかし1990年4月13日にミハイル・ゴルバチョフソ連大統領は事件のソ連側関与を認め、ポーランドと国際社会に公式謝罪しました。この告白はグラスノスチ(情報公開政策)の一環であり、歴史的事実の検証と和解を象徴する出来事となりました。謝罪はソ連の外交的信用回復とポーランドとの関係改善に大きく貢献しました。
1990年 ミハイル・ゴルバチョフ カティンの森事件
2012年

北朝鮮が人工衛星と称した弾道ミサイルを打ち上げるが、失敗に終わる。

北朝鮮が人工衛星と称した弾道ミサイルの打ち上げに失敗した出来事。国際社会に大きな衝撃を与えました。
2012年4月13日、北朝鮮は人工衛星と称する「銀河3号」を打ち上げ、弾道ミサイル技術の実証を図ろうとしました。ロケットは西部の海岸から発射されましたが、予定の高度に到達せず海上に落下し、打ち上げは失敗に終わりました。この行動は国連安全保障理事会決議に違反するとして国際的に強く非難されました。アメリカ合衆国、日本、韓国などは遺憾の意を表明し、さらなる制裁強化を検討しました。北朝鮮側は成功を主張しましたが、各国の監視衛星などから失敗が確認されました。以後、この事件は北朝鮮のミサイル開発の転機とされ、東アジアの安全保障情勢に影響を与えました。
2012年 北朝鮮 人工衛星 弾道ミサイル
2017年

アメリカ合衆国がアフガニスタンで大規模爆風爆弾を使用。

アメリカ軍がアフガニスタンで大規模爆風爆弾(MOAB)を実戦投入し、その威力が注目された作戦です。
2017年4月13日、アメリカ合衆国軍はアフガニスタン東部ナンガルハル州で世界最大級とされる大規模爆風爆弾(通称MOAB)を使用しました。標的はトンネルや地下施設に立てこもった過激派勢力の拠点とされる場所でした。この爆弾投入はアメリカ軍の対テロ戦略の一環であり、相手の戦術網を壊滅させる狙いがありました。攻撃による人的被害やインフラ被害は詳細に公表されていませんが、その破壊力は国際的に大きな議論を呼びました。使用に対しては軍事的有効性を評価する声と、民間人被害を懸念する声が混在しました。以降、この作戦は現代戦の象徴的な出来事として記録されています。
アメリカ合衆国 アフガニスタン
2018年

アメリカ、イギリス、フランスの合同軍がシリアの化学兵器施設に対する攻撃を開始。

アメリカ・イギリス・フランスがシリア国内の化学兵器施設を標的に合同攻撃を開始した軍事行動です。
2018年4月13日未明、アメリカ・イギリス・フランスの三国合同軍がシリア西部の化学兵器研究施設に対する空爆を実施しました。これはダマスカス郊外での化学兵器使用疑惑を受けた報復措置として行われました。ミサイルや爆撃機を用いて複数の拠点が精密攻撃され、化学兵器の開発能力を削ぐことが目的とされました。攻撃は短時間で終わり、民間人への大規模被害は限定的だったと報じられています。各国政府は国際法上の正当性を主張し、一方でロシアやイランは非難を強めました。この行動はシリア内戦の軍事的緊張をさらに高め、国際社会に深い影響を与えました。
2018年 シリア