和銅3年3月10日

元明天皇が藤原京から平城京に遷都。

710年、元明天皇が藤原京から平城京へ遷都し、奈良時代が始まりました。
710年(和銅3年3月10日)、元明天皇は藤原京から平城京へ遷都を行った。 平城京は唐の長安を模した碁盤目状の都市計画で、中央集権体制の強化を目指していた。 都の移転は宮廷勢力の結束を図る目的も含まれていた。 新都には行政機関や寺院が整備され、政治・文化の中心となった。 この遷都は奈良時代の幕開けを象徴する重要な出来事だった。
710年 和銅 3月10日 元明天皇 藤原京 平城京 遷都
天平16年2月26日

聖武天皇が恭仁京から難波京に遷都。翌年平城京に戻す。

744年、聖武天皇が恭仁京から難波京へ遷都し、翌年に再び平城京に戻しました。
天平16年2月26日(744年)、聖武天皇は恭仁京から難波京へ遷都した。 難波京は河内湾に面した港湾都市として整備され、外交や交易の強化が狙いだった。 しかし新都の不便さや朝廷内の混乱から、翌年には平城京への復都が決定された。 平城京復帰により中央集権体制が再び安定し、後の奈良文化の発展につながった。 この一連の遷都は聖武天皇の政治的試行錯誤を象徴する出来事である。
744年 天平 2月26日 聖武天皇 恭仁京 難波京
1111年

ハインリヒ5世が神聖ローマ皇帝に即位。

1111年、ハインリヒ5世が神聖ローマ皇帝として戴冠し、皇帝権の確立を図りました。
1111年4月13日、ハインリヒ5世は神聖ローマ皇帝として正式に戴冠した。 若年で帝位についたハインリヒ5世は、皇帝権強化に努めた。 即位後は教皇パスカリス2世との聖職叙任権問題で対立を深めた。 この対立は後の協約締結に向けた重要な一歩となった。 彼の治世は中世ヨーロッパの教皇権と皇帝権の関係を考える上で重要視される。
1111年 ハインリヒ5世 神聖ローマ皇帝
治承2年3月24日

平安京内で治承の大火(次郎焼亡)。三十数町が全焼。

1179年、平安京で大規模な火災が発生し、都内の三十余町が焼失しました。
治承2年3月24日(1179年)、平安京内で大規模な火災が発生した。 史書では『次郎焼亡』とも呼ばれ、宮廷や民家が広範囲に焼失した。 火災は長期にわたり延焼し、三十数町におよぶ地域が全焼したと伝えられる。 当時の木造家屋密集地での消火体制は脆弱で、復興には多大な労力を要した。 この大火は平安京の都市計画や防災対策の見直しを促す契機となった。
1179年 治承 3月24日 平安京 治承の大火
延元元年/建武3年3月2日

南北朝時代: 九州に落ち延びていた足利尊氏が再び挙兵、多々良浜の戦いで南朝方の菊池武敏を破る。

1336年、南北朝時代の戦いで足利尊氏が多々良浜の戦いに勝利しました。
延元元年/建武3年3月2日(1336年)、足利尊氏は九州で再挙兵した。 多々良浜の戦いで南朝方の武将・菊池武敏を破り、大きな戦果を挙げた。 この勝利により尊氏は九州の制圧を進め、勢力基盤を強固にした。 戦いの舞台となった多々良浜は、地形を生かした戦術が功を奏した場所として知られる。 足利尊氏の連勝は室町幕府成立への足掛かりとなった。
1336年 延元 建武 3月2日 南北朝時代 足利尊氏 多々良浜の戦い 菊池武敏
1598年

フランス国王アンリ4世が「ナントの勅令」を発布。プロテスタントにカトリックと同等の信教の自由を認める。

1598年、フランス国王アンリ4世がナントの勅令を発布し、宗教的寛容政策を推進しました。
1598年4月13日、アンリ4世はユグノー戦争終結の一環としてナントの勅令を公布した。 この勅令によりプロテスタントはカトリックと同等の信教の自由を認められた。 宗教的寛容政策はフランス国内の安定化を図るための重要な施策だった。 またユグノーに対する政治的権利や軍事的要塞保持も一部認められた。 ナントの勅令は18世紀まで続き、ヨーロッパの宗教寛容の先駆けとなった。
1598年 アンリ4世 ナントの勅令
寛文8年3月2日

宇都宮興禅寺刃傷事件が起こる。

1668年、宇都宮興禅寺で刀傷事件が発生しました。
寛文8年3月2日(1668年)、宇都宮興禅寺で刀傷事件が起きた。 当時の記録によると、寺院内で門弟間の争いが激化したことが発端とされる。 事件では複数の負傷者が出たが、詳細な背景は明らかになっていない。 幕府は寺社の治安維持を重視しており、直後に調査と処罰が行われた。 この事件は江戸時代の宗教施設内での紛争例として知られている。
1668年 寛文 3月2日 宇都宮興禅寺刃傷事件
1742年

ヘンデルのオラトリオ「メサイア」がダブリンで初演。

1742年、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』がダブリンで初演されました。
1742年、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの名作オラトリオ『メサイア』が初演された。 ダブリンのニューアッセニィ教会で行われ、慈善コンサートとして開催された。 演奏には地元の音楽家や児童合唱団が参加し、大きな反響を呼んだ。 特に『ハレルヤ・コーラス』は聴衆を魅了し、その後広く愛唱されるようになった。 『メサイア』は西洋音楽史における代表作として現在も世界中で演奏され続けている。
1742年 ヘンデル オラトリオ メサイア ダブリン
1777年

アメリカ独立戦争: バウンドブルックの戦い行われる。

1777年、アメリカ独立戦争の一戦、バウンドブルックの戦いが行われました。
1777年4月13日、ニュージャージー州バウンドブルック近郊で戦闘が発生した。 イギリス軍が奇襲を仕掛け、アメリカ大陸軍を一時的に後退させることに成功した。 一方で大陸軍は組織的な退却を行い、大きな損害を免れた。 この戦いはゲリラ戦術や地形利用の重要性を示した事例として知られる。 結果的に両軍とも大きな勝敗を得られず、戦線は膠着状態に陥った。
1777年 アメリカ独立戦争 バウンドブルックの戦い
1829年

イギリスでカトリック解放令が制定、これによりカトリック教徒の信教の自由が公的に保障される。

1829年、イギリスでカトリック解放令が制定され、カトリック教徒の公的差別が撤廃されました。
1829年4月13日、イギリス議会はカトリック解放令(Catholic Emancipation Act)を可決した。 これによりカトリック教徒は公職就任や議会選挙の権利を得た。 長年にわたるプロテスタント優位の制度差別を是正する画期的な立法であった。 当時の首相ロバート・ピールは政治的安定化を目的に法案の成立を推進した。 以後イギリス国内の宗教的寛容が進み、社会の多元化が進展した。
1829年 イギリス カトリック解放令 カトリック教徒 信教の自由
安政3年3月9日

長崎・下田などの開港地での踏み絵を廃止。

1856年、幕府は長崎・下田など開港地でキリスト教徒の確認に用いられていた踏み絵を廃止しました。
江戸幕府は安政の改革で、長崎・下田など開港地で行われていた踏み絵を廃止しました。 踏み絵はキリスト教徒を発見するために行われる検査で、キリスト像やマリア像を踏ませる慣習でした。 鎖国政策のもとで厳しく禁教を進めていた幕府にとって、キリスト教の取り締まりは重要な課題でした。 しかし外国との交易が拡大する中で、宗教政策の柔軟化が求められるようになります。 この措置は開港地におけるキリスト教弾圧の象徴的な制度の撤廃として注目されました。 その後、次第に宗教的寛容が広まり、明治維新以降の近代化への道筋ともなりました。 安政の改革の一端として、後の宗教政策に影響を与えた重要な転換点です。
1856年 安政 3月9日 踏み絵
1888年

東京・下谷黒門町に日本初のコーヒー専門店「可否茶館」が開店。

1888年、東京・下谷黒門町に日本初のコーヒー専門店「可否茶館」が開店し、新たな喫茶文化の幕開けとなりました。
可否茶館は日本初のコーヒー専門店として1888年4月13日に東京・下谷黒門町でオープンしました。 店名は「Coffee」をもじって「可否」と名付けられ、おしゃれな洋風喫茶の雰囲気を演出しました。 当時、日本でコーヒー豆の輸入が増え始め、洋食文化やカフェ文化が徐々に広まりつつありました。 可否茶館はコーヒーを主役にした新しい嗜好品として庶民の注目を集めました。 店内は西洋風のインテリアで統一され、新聞や雑誌を読みながらくつろげる空間が提供されました。 その後、全国に喫茶店が広がり、日本独自の喫茶文化が形成されていくきっかけとなりました。
1888年 コーヒー専門店