1204年
第4回十字軍によりコンスタンティノープルが陥落。
第4回十字軍がコンスタンティノープルを陥落させ、東ローマ帝国を分断した。
1204年、第四回十字軍の兵士たちは本来の目的を変更し、キリスト教国同士の抗争へと発展しました。
ヴェネツィア共和国の支援を受けた十字軍は、コンスタンティノープルを攻略・略奪し、ラテン帝国を樹立しました。
この事件は東西教会の対立を深め、ビザンツ帝国の衰退を決定的なものとしました。
コンスタンティノープルの豊かな財宝や美術品が西欧にもたらされ、文化交流にも影響を与えました。
第四回十字軍の異例の展開は、中世史における重大な転換点となっています。
1204年
第4回十字軍
コンスタンティノープルが陥落
寛永15年2月28日
島原・原城が落城し島原の乱が終結。
島原の乱が原城陥落により終結し、幕府の統制が強化された。
1637年に始まった島原の乱は、過重課税やキリスト教弾圧などを背景に農民とキリシタンが蜂起した事件です。
1638年2月28日、幕府軍は最後の拠点である原城を攻囲し、陥落させました。
これにより約半年にわたる大規模な反乱は鎮圧され、幕府の厳しい統制政策が強まります。
乱の死者は数万人に上り、参加者や民間人に対する処罰も厳格に行われました。
島原の乱は江戸時代の統治体制の特色とキリスト教弾圧の激しさを示す出来事です。
1638年
寛永
2月28日
原城
島原の乱
1861年
南軍が北軍のサムター要塞(サムター要塞の戦い)を攻撃し、アメリカ南北戦争が開戦。
南北戦争の開戦を告げるサムター要塞の戦いが始まった。
1861年4月12日、アメリカ南北戦争の契機となるサムター要塞の砲撃が開始されました。
南軍は独立を宣言した後、連邦政府が保有する要塞の降伏を求めました。
北軍守備隊が応じず砲撃戦に発展し、要塞は陥落しました。
この戦いが両軍間の全面戦争の幕開けとなり、4年間にわたる熾烈な内戦へと繋がりました。
南北戦争はアメリカ合衆国の歴史を大きく変えた重要な転換点です。
1861年
サムター要塞
サムター要塞の戦い
南北戦争
1864年
南北戦争: ピロー砦の戦い
1864年、南北戦争中にテネシー州のピロー砦で起きた戦闘。南軍が要塞を攻略し、その後多数の捕虜が虐殺されたことで知られています。
南北戦争における重要な戦闘の一つであるピロー砦の戦いは、1864年4月12日に始まりました。
北軍の守備隊は黒人兵を多く含む約600名で構成されていましたが、南軍の大規模攻撃により防衛は崩壊します。
南軍の指揮官ベンジャミン・フランクリン・チェンバース将軍は要塞を占領した後、多くの黒人捕虜を殺害したとされています。
この事件は戦争犯罪として国際的に非難され、戦後の歴史研究において人種差別の象徴的な出来事とみなされました。
砦周辺の遺構は現在も保存され、戦争の悲劇を伝える史跡となっています。
1864年
ピロー砦の戦い
1927年
上海で蔣介石が上海クーデター(四・一二クーデター)を起こす。
1927年、蒋介石率いる国民党軍が上海で共産党員を一斉に弾圧するクーデターを決行しました。
四・一二クーデターは北伐戦争中の1927年4月12日に勃発し、蒋介石が共産党勢力排除を目的としました。
国民党左派と共産党の協力関係が崩壊し、上海の労働者や学生を標的に多数の逮捕・虐殺が行われます。
この事件により国共統一戦線は崩壊し、中国は再び内戦状態へと突入しました。
後の国民党政権による統治体制構築と、中国共産党の山岳地帯への移動を促す要因となりました。
1927年
上海
蔣介石
上海クーデター
1980年
リベリアでサミュエル・ドウらが軍事クーデターを起こし、ウィリアム・R・トルバート大統領を暗殺、政権を掌握する。
リベリアでサミュエル・ドウ率いる軍事クーデターが成功し、トルバート大統領が暗殺されました。
1980年4月12日、リベリアの軍人サミュエル・ドウ少佐らがモンロビアでクーデターを起こし、ウィリアム・R・トルバート大統領を暗殺して政権を掌握した。トルバート政権は一党支配体制のもと汚職や経済停滞が深刻化していた。ドゥ政権は西側諸国の支援を受けつつ独裁体制を敷き、『腐敗防止』と『国民統一』を掲げた。しかし人権弾圧やエスニック対立が激化し、以降30年以上にわたる内戦の遠因となった。リベリアの政治史における大きな転換点であり、国際社会にも衝撃を与えた。
1980年
リベリア
サミュエル・ドウ
クーデター
ウィリアム・R・トルバート