1633年

ガリレオ・ガリレイの異端審問の正式な尋問が始まる。

ガリレオ・ガリレイが異端審問の正式尋問を受け、コペルニクス説と対峙した。
1633年、ガリレオ・ガリレイはローマ教皇庁の異端審問所で正式に尋問を受けました。 これは彼が地動説を支持し、コペルニクスの説を公に擁護したことが問題視されたためです。 教会は地動説を宗教的教義に反すると判断し、ガリレオに理論の撤回を迫りました。 尋問の結果、彼は地動説を放棄し、軟禁生活を余儀なくされました。 この事件は科学と宗教の衝突を象徴する歴史的出来事として知られています。
1633年 ガリレオ・ガリレイ 異端審問
天明4年2月23日

筑前国志賀島にて「漢委奴国王印」が出土。

志賀島で漢委奴国王印が出土し、日本と古代中国の関係が裏付けられた。
1784年、福岡藩の調査で志賀島の砂浜から金印が発見されました。 この印には「漢委奴国王」と刻まれ、後漢時代に倭国王に贈られたものとされます。 発見により、古代日本が中国王朝との正式な国交を結んでいた証拠が明確になりました。 金印の実物は現在、東京国立博物館に所蔵され、国内外から注目を集めています。 この出土は日本考古学史上の大発見として知られています。
1784年 天明 2月23日 筑前国 志賀島 漢委奴国王印
1955年

東京大学生産技術研究所が、国分寺にてペンシルロケットの公開試射実験を行う。

東京大学生産技術研究所が国分寺で日本初のペンシルロケット公開試射実験を行いました。
この試射は1955年4月12日に東京大学生産技術研究所が実施した。ペンシルロケットは全長数十センチの小型実験モデルで、固体燃料による推進を特徴とする。国分寺の野外実験場で一般公開され、国内外の注目を集めた。以降、同研究所の取り組みは日本の宇宙開発研究の礎となり、後の人工衛星打ち上げ成功に繋がった。研究を主導した糸川英夫らは「日本の宇宙開発の父」と称され、その功績は高く評価されている。
1955年 東京大学生産技術研究所 国分寺 ペンシルロケット
1957年

西ドイツの18人の物理学者が原子兵器の生産・実験・使用に協力しないことを宣言したゲッティンゲン宣言を発表。

西ドイツの物理学者18人が核兵器開発・実験・使用協力を拒否するゲッティンゲン宣言を発表しました。
1957年4月12日、ハイゼンベルクやボルンら著名な物理学者18人がゲッティンゲンで「原子兵器の生産・実験・使用に協力しない」と宣言した。この声明は第二次世界大戦後の核拡散に対する科学者の良心表明として世界的に注目を集めた。科学技術の社会的責任を問い、人類と地球の安全保障を最優先する姿勢を示した点が特徴である。声明は反核運動や核軍縮交渉に精神的支柱を提供し、非核地帯条約の成立にも影響を与えた。科学者の倫理観が政策形成に影響を与えた象徴的な出来事とされる。
1957年 西ドイツ ゲッティンゲン宣言
1961年

ソ連が、ユーリイ・ガガーリンが乗った人類初の有人宇宙船「ボストーク1号」を打ち上げ。

ソ連がユーリイ・ガガーリンを乗せた世界初の有人宇宙船ボストーク1号を打ち上げました。
1961年4月12日、ソ連はバイコヌール宇宙基地からボストーク1号を打ち上げ、人類初の宇宙飛行を実現した。乗組員のユーリイ・ガガーリンは地球を1周し、約108分の飛行を安全に完了した。ガガーリンは『地球は青かった』と感動的な言葉を残し、無事着陸した。その偉業は米ソ宇宙開発競争においてソ連に大きな勝利をもたらし、世界中に衝撃と感動を与えた。以降、毎年4月12日は『国際宇宙飛行の日(Yuri’s Night)』として宇宙探査への敬意を表す日となっている。
1961年 ソ連 ユーリイ・ガガーリン ボストーク1号
1981年

初のスペースシャトルミッションSTS 1でスペースシャトル「コロンビア」を打ち上げ。

NASAの初のスペースシャトルミッションSTS-1で、宇宙往還機「コロンビア」が打ち上げられた日。
1981年4月12日、アメリカ航空宇宙局(NASA)はスペースシャトル計画の最初のミッションとなるSTS-1を開始しました。オービタ「コロンビア」はエンデバーやチャレンジャーに先駆けて初の再使用宇宙機として設計されました。打ち上げはケネディ宇宙センターから行われ、2人の乗組員が搭乗。機体は成功裏に周回軌道に到達し、無事に地球帰還を果たしました。このミッションは再使用可能なロケット技術の実現に向けた歴史的な一歩となりました。
1981年 スペースシャトル STS-1 コロンビア