467年
アンテミウスが西ローマ帝国皇帝に即位。
467年、混乱する西ローマ帝国でアンテミウスが皇帝に即位し、帝国再建に挑んだ。
アンテミウスは将軍(magister militum)としての功績を背景に東ローマ皇帝レオ1世の支持を受け西ローマ皇帝に選出されました。
彼は即位後、ゲルマン傭兵部隊の反乱や財政難に対応しようと試みました。
財政改革や軍事再編を進め、西ローマ帝国の安定化を図りました。
しかし、内紛や外敵の侵攻が相次ぎ、帝国の影響力は衰退していきました。
467年の即位は、西ローマ帝国の最終期を象徴する出来事とされています。
467年
アンテミウス
西ローマ帝国
推古天皇9年3月5日
推古天皇が高句麗・百済に使いを送り任那の復興を要請。
推古天皇が高句麗・百済に使いを送り、任那復興を要請した外交展開。
推古天皇は日本の飛鳥時代の女帝として、外来文化や外交に積極的でした。
この年、高句麗・百済へ使節を派遣し、任那(みまなの)地域の復興支援を要請しました。
任那は古代日本と朝鮮との交易拠点であり、政治的にも重要な地域でした。
天皇の要請は、任那の自治回復と朝鮮半島との関係強化を目的としていました。
この出来事は、初期日本が対外政策を展開していた一端を示すものです。
601年
推古天皇
3月5日
高句麗
百済
任那
大化2年3月22日
薄葬令発布。
大化改新の一環として、豪華な葬儀を制限する薄葬令が発布された。
薄葬令は日本古代律令制度の一つで、故人の葬儀や喪礼の簡素化を定めました。
646年、孝徳天皇の時代に大化改新の改革政策として実施され、過度な仏具や副葬品を禁止しました。
これにより国家財政の負担軽減と身分による格差是正が図られました。
薄葬令の目的は、公平で節度ある葬儀を国家主導で推進することにありました。
儒教や仏教の影響下で葬儀の簡素化が求められ、後の律令制度にも影響を与えました。
646年
大化
3月22日
薄葬令
1204年
第4回十字軍によりコンスタンティノープルが陥落。
第4回十字軍がコンスタンティノープルを陥落させ、東ローマ帝国を分断した。
1204年、第四回十字軍の兵士たちは本来の目的を変更し、キリスト教国同士の抗争へと発展しました。
ヴェネツィア共和国の支援を受けた十字軍は、コンスタンティノープルを攻略・略奪し、ラテン帝国を樹立しました。
この事件は東西教会の対立を深め、ビザンツ帝国の衰退を決定的なものとしました。
コンスタンティノープルの豊かな財宝や美術品が西欧にもたらされ、文化交流にも影響を与えました。
第四回十字軍の異例の展開は、中世史における重大な転換点となっています。
1204年
第4回十字軍
コンスタンティノープルが陥落
1606年
イングランド・スコットランド同君連合の旗としてユニオン・フラッグが定められる。
イングランドとスコットランドの同君連合でユニオン・フラッグが制定された。
1603年、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として戴冠し、両王国は同君連合となりました。
その翌年にあたる1606年、両国を象徴する旗としてユニオン・フラッグが公式に定められました。
旗のデザインは、イングランドの聖ジョージ十字とスコットランドの聖アンドリュー十字を組み合わせたものです。
この旗は後にグレートブリテン及びアイルランド連合王国の国旗としても発展しました。
ユニオン・フラッグの誕生は、ブリテン諸島の政治的統合の象徴として歴史的意義を持ちます。
1606年
イングランド
スコットランド
ユニオン・フラッグ
1633年
ガリレオ・ガリレイの異端審問の正式な尋問が始まる。
ガリレオ・ガリレイが異端審問の正式尋問を受け、コペルニクス説と対峙した。
1633年、ガリレオ・ガリレイはローマ教皇庁の異端審問所で正式に尋問を受けました。
これは彼が地動説を支持し、コペルニクスの説を公に擁護したことが問題視されたためです。
教会は地動説を宗教的教義に反すると判断し、ガリレオに理論の撤回を迫りました。
尋問の結果、彼は地動説を放棄し、軟禁生活を余儀なくされました。
この事件は科学と宗教の衝突を象徴する歴史的出来事として知られています。
1633年
ガリレオ・ガリレイ
異端審問
寛永15年2月28日
島原・原城が落城し島原の乱が終結。
島原の乱が原城陥落により終結し、幕府の統制が強化された。
1637年に始まった島原の乱は、過重課税やキリスト教弾圧などを背景に農民とキリシタンが蜂起した事件です。
1638年2月28日、幕府軍は最後の拠点である原城を攻囲し、陥落させました。
これにより約半年にわたる大規模な反乱は鎮圧され、幕府の厳しい統制政策が強まります。
乱の死者は数万人に上り、参加者や民間人に対する処罰も厳格に行われました。
島原の乱は江戸時代の統治体制の特色とキリスト教弾圧の激しさを示す出来事です。
1638年
寛永
2月28日
原城
島原の乱
明暦3年2月29日
江戸幕府が、明暦の大火で亡くなった10万余人の霊を供養するため、本所牛島新田に回向院を建立。
明暦の大火の犠牲者を供養するため、回向院が創建された。
1657年の明暦の大火で江戸市街の大半が焼失し、多くの犠牲者が出ました。
江戸幕府は遺体の供養と慰霊を目的に、本所牛嶋新田に回向院を建立しました。
回向院は浄土宗の寺院で、霊を弔う法要が定期的に営まれました。
この建立により、幕府は火災対策や都市復興に加え、民衆の心の救済にも配慮を示しました。
回向院は後に江戸庶民の信仰を集める場として発展しました。
1657年
明暦
2月29日
明暦の大火
回向院
天明4年2月23日
筑前国志賀島にて「漢委奴国王印」が出土。
志賀島で漢委奴国王印が出土し、日本と古代中国の関係が裏付けられた。
1784年、福岡藩の調査で志賀島の砂浜から金印が発見されました。
この印には「漢委奴国王」と刻まれ、後漢時代に倭国王に贈られたものとされます。
発見により、古代日本が中国王朝との正式な国交を結んでいた証拠が明確になりました。
金印の実物は現在、東京国立博物館に所蔵され、国内外から注目を集めています。
この出土は日本考古学史上の大発見として知られています。
1784年
天明
2月23日
筑前国
志賀島
漢委奴国王印
1861年
南軍が北軍のサムター要塞(サムター要塞の戦い)を攻撃し、アメリカ南北戦争が開戦。
南北戦争の開戦を告げるサムター要塞の戦いが始まった。
1861年4月12日、アメリカ南北戦争の契機となるサムター要塞の砲撃が開始されました。
南軍は独立を宣言した後、連邦政府が保有する要塞の降伏を求めました。
北軍守備隊が応じず砲撃戦に発展し、要塞は陥落しました。
この戦いが両軍間の全面戦争の幕開けとなり、4年間にわたる熾烈な内戦へと繋がりました。
南北戦争はアメリカ合衆国の歴史を大きく変えた重要な転換点です。
1861年
サムター要塞
サムター要塞の戦い
南北戦争
1864年
南北戦争: ピロー砦の戦い
1864年、南北戦争中にテネシー州のピロー砦で起きた戦闘。南軍が要塞を攻略し、その後多数の捕虜が虐殺されたことで知られています。
南北戦争における重要な戦闘の一つであるピロー砦の戦いは、1864年4月12日に始まりました。
北軍の守備隊は黒人兵を多く含む約600名で構成されていましたが、南軍の大規模攻撃により防衛は崩壊します。
南軍の指揮官ベンジャミン・フランクリン・チェンバース将軍は要塞を占領した後、多くの黒人捕虜を殺害したとされています。
この事件は戦争犯罪として国際的に非難され、戦後の歴史研究において人種差別の象徴的な出来事とみなされました。
砦周辺の遺構は現在も保存され、戦争の悲劇を伝える史跡となっています。
1864年
ピロー砦の戦い
1877年
東京大学(後の帝国大学、東京帝国大学。現在の東京大学)が設立される。
1877年、日本初の帝国大学として東京大学が設立され、国立高等教育の基盤が築かれました。
明治政府は西洋式教育の導入を図り、1877年4月12日に東京大学を開学しました。
旧幕府の開成所と医学校を母体とし、多学部制を採用した初の近代的総合大学です。
創立当初は法学部・文学部・理学部・医学部の4学部で構成され、多彩な講師陣が招かれました。
その後、帝国大学制度の中心機関として日本の学術研究と人材育成を牽引し続けていきます。
現在の東京大学は世界的にも高い評価を受ける国立大学へと発展しました。
1877年
東京大学
東京大学