1689年

イングランド・スコットランド・アイルランド王ウィリアム3世・メアリー2世が戴冠。

1689年4月11日、名誉革命後のイングランド・スコットランド・アイルランド王としてウィリアム3世とメアリー2世が共同で戴冠しました。
1688年の名誉革命を経て、ウィリアム3世とメアリー2世は同年の権利章典を承認し、1689年4月11日にウェストミンスター寺院でイングランド・スコットランド・アイルランドの王として戴冠しました。 この戴冠は王権の抑制と議会主権を確立した名誉革命の象徴とされます。 ウィリアム3世はオランダ出身のプロテスタント君主で、カトリックのジェームズ2世を追放した主要な功労者です。 メアリー2世はジェームズ2世の長女であり、共同統治者としての地位を得ました。 この共同戴冠はイギリス王政史において極めて異例であり、のちの立憲君主制確立の基礎となりました。
1689年 イングランド スコットランド アイルランド ウィリアム3世 メアリー2世
1713年

スペイン継承戦争・アン女王戦争の講和条約「ユトレヒト条約」を締結。

1713年、スペイン継承戦争とアン女王戦争の講和条約としてユトレヒト条約が締結されました。
1713年4月11日、スペイン継承戦争およびアン女王戦争の主要当事国が参加し、ユトレヒトで講和条約が調印されました。 この条約により、スペイン王位継承問題が解決され、大陸ヨーロッパの勢力均衡が図られました。 フランス王家のブルボン家とハプスブルク家の対立は一時的に緩和され、イギリスは地中海の要衝と北アメリカの植民地を獲得しました。 スペインはヨーロッパ大陸における勢力を縮小する一方で、南米における権益を維持しました。 ユトレヒト条約は18世紀ヨーロッパの国際政治構造を大きく変える転換点となりました。
1713年 スペイン継承戦争 アン女王戦争 ユトレヒト条約
1814年

フォンテーヌブロー宮殿でフランスとヨーロッパ諸国がフランス皇帝ナポレオンを退位させエルバ島に流刑とするフォンテーヌブロー条約に合意。

1814年、ナポレオンが退位し、エルバ島への流刑を定めたフォンテーヌブロー条約が合意されました。
1814年4月11日、フランス皇帝ナポレオン1世の退位とエルバ島流刑を規定するフォンテーヌブロー条約が締結されました。 ヨーロッパ諸国とフランス帝国はフォンテーヌブロー宮殿で会合し、ナポレオンの権力放棄に合意しました。 ナポレオンはマルキ・ド・モントブラン伯爵の監視下でエルバ島に送られ、生涯の余生を過ごしました。 この条約により、ナポレオン戦争は一旦終結し、ヨーロッパはウィーン会議に移行しました。 しかしナポレオンは1815年にエルバ島を脱出し、百日天下として知られる復活劇を演じました。
1814年 フォンテーヌブロー宮殿 ナポレオン エルバ島 流刑 フォンテーヌブロー条約
1899年

スペインがプエルトリコをアメリカ合衆国に割譲。

1899年、スペインがプエルトリコをアメリカ合衆国に割譲しました。
1898年の米西戦争終結後、1899年4月11日にスペインとアメリカ合衆国の間でプエルトリコ割譲の条約が調印されました。 この合意により、プエルトリコは正式にアメリカ領となり、米西両国間での領有権が移転しました。 プエルトリコ住民はアメリカの法体系と行政下に置かれ、その後の政治・経済・社会に大きな変化が生じました。 アメリカはプエルトリコを戦略的拠点として活用し、カリブ海地域への影響力を強化しました。 この譲渡は米西戦争後の国際秩序の再編を象徴する一連の領土交換の一つです。
1899年 スペイン プエルトリコ
1919年

国際労働機関(ILO)設立。

第一次世界大戦後、労働者の権利保護を国際的に推進するため、ILOがスイス・ジェネーブで設立されました。 各国の労働基準向上を図る画期的な国際機関です。
第一次世界大戦後、1919年4月11日にスイス・ジェネーブで国際労働機関が設立されました。 ILOは国際連盟の一機関として、労働基準の国際的整合性を図る役割を担います。 加盟国の労働条件や社会保障制度の改善を目指し、条約や勧告を採択します。 設立当初は42か国が加盟し、労働時間・賃金・児童労働など幅広い分野を扱いました。 現在は国連の専門機関として、180か国以上が加盟し、労働問題に関する世界的議論の中心です。
1919年 国際労働機関
1921年

イギリス委任統治領パレスチナを分割して委任統治領トランスヨルダンを設置。

イギリスはパレスチナ委任統治領を分割し、新たにトランスヨルダン委任統治領を設置しました。 アラブ人支配を実質的に認める形で中東の地政学を変化させました。
1921年4月11日、イギリスは国際連盟委任統治領パレスチナをヨルダン川東岸と西岸に分割し、トランスヨルダン委任統治領を設置しました。 この措置はアラブ人指導者アブドゥッラーの統治を認める形で行われ、中東地域の政治的地図を塗り替えました。 トランスヨルダンはイギリスの指導下で行政機構を整備し、1946年に独立王国となる礎が築かれます。 パレスチナ問題における民族間対立や、後のイスラエル建国に至る一連の歴史的背景とも深く関わっています。 当時の分割は、後の中東政治の複雑な構造を生む遠因となりました。
イギリス委任統治領パレスチナ 委任統治 トランスヨルダン
1925年

「陸軍現役将校学校配属令」公布。中学校以上の公立学校で軍事教練を開始。

中学校以上の公立学校に陸軍将校を配属し、軍事教練を導入する令が公布されました。
1925年4月11日、陸軍現役将校学校配属令が公布され、日本の中学校以上の公立学校で軍事教練が開始されました。 この令により、陸軍現役将校が教育現場に配置され、児童・生徒に基礎的な軍事訓練を施す制度が整備されます。 当時の国家主義的風潮が背景にあり、若年層への軍事的素養育成が社会的議論を呼びました。 軍事教練は国民精神統一や防衛力強化の観点で推進される一方、教育本来の学術自由とのバランスも問題視されました。 この制度は戦時体制下での国民総動員体制の一端を成す政策の先駆けとされています。
1925年 中学校 軍事教練
1951年

ダグラス・マッカーサーの解任: トルーマン米大統領がマッカーサー元帥を司令官から解任する。

トルーマン大統領が朝鮮戦争中のマッカーサー元帥を司令官職から解任した重大決定が下されました。
1951年4月11日、ハリー・S・トルーマン米大統領は朝鮮戦争指揮中のダグラス・マッカーサー元帥を解任しました。 マッカーサーは中国との直接攻撃など強硬策を主張し、政府との意見対立が深刻化していました。 大統領による文民統制の原則が重視され、軍と政府の権限分立が改めて国際社会で注目を集める契機となります。 解任後、マッカーサーは帰国後に上院軍事委員会で公聴会を行い、大統領の政策批判を展開しました。 この事件は米国の指導者間の権力関係や政策決定プロセスに対する国民の関心を高めました。
1951年 ダグラス・マッカーサーの解任 英語版 トルーマン マッカーサー
1952年

「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」公布・施行。

日本がポツダム宣言受諾に伴う命令の廃止を定める法律を公布・施行しました。
1952年4月11日、ポツダム宣言受諾に伴い発された日本政府や占領軍の命令を廃止する法律が公布・施行されました。 これにより、連合国指導下で発せられた命令や指示の法的効力が終了し、日本主権が回復されます。 同時に旧憲兵隊や特別高等警察の権限整理も進み、戦後体制からの脱却が促されました。 サンフランシスコ平和条約発効前後の法的整備の一環であり、国際社会への復帰に向けた重要な一歩です。 この法律は占領政策の終焉と新たな日本法治主義の確立を象徴しています。
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令
1952年

日本で夏時刻法廃止。

1952年4月11日、日本で夏時刻法が正式に廃止されました。
第二次世界大戦後の資源節約策として導入された夏時刻法は、1948年の施行以来日本全国で夏時間を採用していました。しかし国民の間で生活リズムの混乱や反発が強まり、1951年10月に運用を終了。1952年4月11日に法律そのものが廃止され、それ以降日本でのサマータイム導入は行われなくなりました。
夏時刻法
1955年

アインシュタインがラッセル=アインシュタイン宣言に署名。

1955年4月11日、アインシュタインとバートランド・ラッセルらが核兵器廃絶を訴える宣言に署名しました。
ラッセル=アインシュタイン宣言は、核兵器の脅威を訴え、国際的な平和と安全保障の枠組みを再構築する必要性を訴えた文書です。アルバート・アインシュタインとバートランド・ラッセルをはじめ、20名以上の著名な科学者・思想家が署名し、冷戦下の核軍拡に対して警鐘を鳴らしました。
アインシュタイン ラッセル=アインシュタイン宣言
1963年

ローマ教皇ヨハネ23世により回勅のパーチェム・イン・テリスが発表される。

1963年4月11日、教皇ヨハネ23世が平和を訴える回勅『パーチェム・イン・テリス』を発表しました。
『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』は、人権や市民の自由を尊重し、国際政治における平和と協力を呼びかけた回勅です。カトリック教会の社会的教義を明確に示し、冷戦下の世界に対して平和構築への道筋を提示しました。
1963年 回勅 パーチェム・イン・テリス