延暦19年3月14日

富士山延暦噴火。この日から約1カ月間、活発な噴火活動があった。

800年、富士山が延暦19年3月14日に噴火を開始し、約1か月間にわたって活発な活動が続いた歴史的な大噴火です。
日本の富士山で延暦19年3月14日(現代暦では800年4月11日)に大規模な噴火が発生しました。 溶岩流や噴煙が活発に噴出し、約1か月間にわたって活動を続けました。 当時の史料には噴火の激しさが記録され、江戸時代以前の代表的な噴火事象として知られています。 噴火による具体的な被害の記録は乏しいものの、周辺地域に一定の影響を及ぼしたと考えられています。 この噴火は富士山の火山活動史を考察する上で重要な事例とされています。
800年 延暦 3月14日 富士山
1241年

モヒの戦い。モンゴル帝国がハンガリー王国に圧勝。

1241年、モンゴル帝国軍がハンガリー王国軍をモヒ近郊で撃破し、東欧への侵攻を加速させた決定的な戦いです。
1241年4月11日、モヒ(現在のハンガリー領)近郊でモンゴル帝国軍とハンガリー王国軍が衝突しました。 モンゴル軍は優れた騎馬戦術と機動力を発揮し、ハンガリー軍を壊滅状態に追い込みました。 この圧勝によりモンゴル帝国は東欧進出を一層加速させました。 ハンガリーは大きな人的・経済的損失を被り、西方への防衛体制が壊滅的な打撃を受けました。 モヒの戦いは中世ヨーロッパにおけるモンゴルの脅威を決定づける戦闘とされています。
1241年 モヒの戦い モンゴル帝国 ハンガリー王国
1512年

カンブレー同盟戦争: ラヴェンナの戦い。

1512年、カンブレー同盟戦争中に北イタリアのラヴェンナ近郊で行われ、フランス軍が勝利を収めた一方で総司令官が戦死した戦闘です。
1512年4月11日、北イタリアのラヴェンナ近郊でカンブレー同盟戦争の主要戦闘が勃発しました。 フランス王国軍と神聖ローマ帝国・スペイン連合軍が激しく衝突し、フランス軍は戦術的に勝利しました。 しかし、総司令官であったガストン・ド・フォワ公爵が戦死したため、戦果を十分に活かせませんでした。 この戦いはイタリア戦争における重要な転機とされ、続く戦局に大きな影響を与えました。 ラヴェンナの戦いは戦術・火砲運用の面でも評価されており、中世末期の戦争様式を象徴します。
1512年 カンブレー同盟戦争 ラヴェンナの戦い
1689年

イングランド・スコットランド・アイルランド王ウィリアム3世・メアリー2世が戴冠。

1689年4月11日、名誉革命後のイングランド・スコットランド・アイルランド王としてウィリアム3世とメアリー2世が共同で戴冠しました。
1688年の名誉革命を経て、ウィリアム3世とメアリー2世は同年の権利章典を承認し、1689年4月11日にウェストミンスター寺院でイングランド・スコットランド・アイルランドの王として戴冠しました。 この戴冠は王権の抑制と議会主権を確立した名誉革命の象徴とされます。 ウィリアム3世はオランダ出身のプロテスタント君主で、カトリックのジェームズ2世を追放した主要な功労者です。 メアリー2世はジェームズ2世の長女であり、共同統治者としての地位を得ました。 この共同戴冠はイギリス王政史において極めて異例であり、のちの立憲君主制確立の基礎となりました。
1689年 イングランド スコットランド アイルランド ウィリアム3世 メアリー2世
1713年

スペイン継承戦争・アン女王戦争の講和条約「ユトレヒト条約」を締結。

1713年、スペイン継承戦争とアン女王戦争の講和条約としてユトレヒト条約が締結されました。
1713年4月11日、スペイン継承戦争およびアン女王戦争の主要当事国が参加し、ユトレヒトで講和条約が調印されました。 この条約により、スペイン王位継承問題が解決され、大陸ヨーロッパの勢力均衡が図られました。 フランス王家のブルボン家とハプスブルク家の対立は一時的に緩和され、イギリスは地中海の要衝と北アメリカの植民地を獲得しました。 スペインはヨーロッパ大陸における勢力を縮小する一方で、南米における権益を維持しました。 ユトレヒト条約は18世紀ヨーロッパの国際政治構造を大きく変える転換点となりました。
1713年 スペイン継承戦争 アン女王戦争 ユトレヒト条約
嘉慶元年3月4日

白蓮教徒の乱。清で農民による弥勒信仰結社・白蓮教徒が叛乱。

1796年、清朝末期において弥勒信仰を掲げた白蓮教徒が蜂起し、大規模な農民反乱が発生しました。
1796年(嘉慶元年)4月11日、清朝で農民を中心とする白蓮教徒が弥勒菩薩の再臨を信じ蜂起しました。 彼らは重税や官僚の腐敗に反発し、華北各地で反乱を拡大しました。 清政府は討伐軍を派遣し、制圧に数年を要して多大な犠牲が出ました。 白蓮教徒の乱は清末期の社会不安を象徴する事件で、各地の農村社会に深刻な影響を与えました。 この反乱は中国の近代大規模反乱の先駆けと位置づけられています。
1796年 嘉慶 3月4日 白蓮教徒の乱 白蓮教
1814年

フォンテーヌブロー宮殿でフランスとヨーロッパ諸国がフランス皇帝ナポレオンを退位させエルバ島に流刑とするフォンテーヌブロー条約に合意。

1814年、ナポレオンが退位し、エルバ島への流刑を定めたフォンテーヌブロー条約が合意されました。
1814年4月11日、フランス皇帝ナポレオン1世の退位とエルバ島流刑を規定するフォンテーヌブロー条約が締結されました。 ヨーロッパ諸国とフランス帝国はフォンテーヌブロー宮殿で会合し、ナポレオンの権力放棄に合意しました。 ナポレオンはマルキ・ド・モントブラン伯爵の監視下でエルバ島に送られ、生涯の余生を過ごしました。 この条約により、ナポレオン戦争は一旦終結し、ヨーロッパはウィーン会議に移行しました。 しかしナポレオンは1815年にエルバ島を脱出し、百日天下として知られる復活劇を演じました。
1814年 フォンテーヌブロー宮殿 ナポレオン エルバ島 流刑 フォンテーヌブロー条約
1888年

アムステルダムのコンサートホール・コンセルトヘボウが開場。

1888年、アムステルダムに名高いコンサートホール・コンセルトヘボウが開場しました。
1888年4月11日、オランダ・アムステルダムに新たなコンサートホールであるコンセルトヘボウがオープンしました。 建築家アドルフ・レオナード・ファン・ヘントによるネオ・クラシック様式の設計が特徴です。 開場当初からヨハネス・ブラームスやエドワード・エルガーなど著名作曲家の演奏会が開催されました。 コンセルトヘボウは優れた音響効果で知られ、世界的な音楽ホールとして高い評価を得ています。 現在もロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地として多くの名演奏を生み出し続けています。
1888年 アムステルダム コンセルトヘボウ
1889年

甲武鉄道(現在の中央本線)が新宿駅 立川駅間で開業。

1889年、新宿駅から立川駅までの甲武鉄道(現在の中央本線)が開業しました。
1889年4月11日、明治時代の鉄道建設事業の一環として甲武鉄道が新宿駅から立川駅間で営業を開始しました。 この路線は現在のJR中央本線の一部にあたり、東京西部と武蔵野地域を結ぶ重要な交通網となりました。 当時は蒸気機関車が牽引し、旅客と貨物輸送の両面で地域経済の発展に寄与しました。 路線開通により東京郊外の都市化が促進され、住宅地や工業地帯の拡大につながりました。 その後も徐々に延伸と改良が重ねられ、日本の近代化を支えるインフラの一つとなっています。
1889年 甲武鉄道 中央本線 新宿駅 立川駅
1899年

スペインがプエルトリコをアメリカ合衆国に割譲。

1899年、スペインがプエルトリコをアメリカ合衆国に割譲しました。
1898年の米西戦争終結後、1899年4月11日にスペインとアメリカ合衆国の間でプエルトリコ割譲の条約が調印されました。 この合意により、プエルトリコは正式にアメリカ領となり、米西両国間での領有権が移転しました。 プエルトリコ住民はアメリカの法体系と行政下に置かれ、その後の政治・経済・社会に大きな変化が生じました。 アメリカはプエルトリコを戦略的拠点として活用し、カリブ海地域への影響力を強化しました。 この譲渡は米西戦争後の国際秩序の再編を象徴する一連の領土交換の一つです。
1899年 スペイン プエルトリコ
1919年

国際労働機関(ILO)設立。

第一次世界大戦後、労働者の権利保護を国際的に推進するため、ILOがスイス・ジェネーブで設立されました。 各国の労働基準向上を図る画期的な国際機関です。
第一次世界大戦後、1919年4月11日にスイス・ジェネーブで国際労働機関が設立されました。 ILOは国際連盟の一機関として、労働基準の国際的整合性を図る役割を担います。 加盟国の労働条件や社会保障制度の改善を目指し、条約や勧告を採択します。 設立当初は42か国が加盟し、労働時間・賃金・児童労働など幅広い分野を扱いました。 現在は国連の専門機関として、180か国以上が加盟し、労働問題に関する世界的議論の中心です。
1919年 国際労働機関
1921年

日本で改正度量衡法公布。尺貫法・ヤード・ポンド法との併用からメートル法への一本化を目指したが、反対運動により施行は無期延期に。

改正度量衡法が公布され、尺貫法やヤード・ポンド法からメートル法への一本化が法制化されました。 しかし反対運動により実施は無期延期となりました。
1921年4月11日に日本政府は度量衡法を改正し、メートル法導入への法的枠組みを整備しました。 従来の尺貫法やイギリス式ヤード・ポンド法からの移行を図ることで、国際的な取引や産業発展を促進しようとしました。 しかし、地方の商人や技術者らを中心に伝統的な測量単位への愛着と混乱への不安から強い反対運動が起こります。 これを受けて法の施行は無期限延期となり、実質的なメートル法への移行はさらに後年まで先送りされました。 この出来事は日本の近代化過程における伝統と新制度の衝突を象徴しています。
1921年 度量衡法 尺貫法 ヤード・ポンド法 メートル法