1034年

ロマノス3世アルギュロス

(968 - 1034)

東ローマ皇帝

東ローマ皇帝
東ローマ帝国の皇帝として在位し、教会建築や財政改革を推進した皇帝。宮廷の陰謀に巻き込まれ、退位後に非業の最期を迎えた。
ロマノス3世アルギュロス(968-1034)は、1028年に即位した東ローマ帝国の皇帝で、アルギュロス家の出身です。在位中は教会建築や税制改革など様々な政策に取り組み、帝国内の財政基盤強化を図りました。しかし、貴族や宮廷内派閥との対立が激化し、1034年に退位を余儀なくされます。退位後は修道院に隠棲させられ、最終的に宮廷の陰謀により暗殺されました。政争の犠牲となった皇帝の一人として知られ、その治世と悲劇的な最期は後世にも語り継がれています。
1034年 ロマノス3世アルギュロス 東ローマ皇帝 968年
1079年

シュチェパヌフのスタニスラウス

(1030 - 1079)

キリスト教の聖人

キリスト教の聖人
ポーランドのクラクフ司教として教会の自立を守り、王権と対立して殉教したカトリック教会の守護聖人。
シュチェパヌフのスタニスラウス(1030-1079)は、ポーランド王国のクラクフ司教に任命され、教会の自律と精神的指導を重視しました。王の介入に反対し、教会財産保護を主張した結果、王権と深刻な対立を招きます。1079年、国王ボレスワフ2世の命令により処刑され、殉教者として崇敬を集めました。彼の死後、カトリック教会は彼を守護聖人に列し、ポーランドの信仰と文化に大きな影響を与えました。現在も彼の聖遺物はクラクフ大聖堂に安置され、多くの巡礼者が訪れています。
1079年 シュチェパヌフのスタニスラウス キリスト教 聖人 1030年
1313年

ギヨーム・ド・ノガレ

(1260 - 1313)

フランス王フィリップ4世の法律顧問

フランス王フィリップ4世の法律顧問
フィリップ4世に仕え、テンプル騎士団解散などを主導したフランス王国の法律顧問。
ギヨーム・ド・ノガレ(1260-1313)は、フランス王フィリップ4世(賢明王)の信任を受けた法学者・顧問で、王権強化に貢献しました。1307年にはテンプル騎士団の資産没収と解散を主導し、教皇権と対立する王権の象徴的存在となります。行政・司法制度の整備にも携わり、中央集権化を推進しました。しかし、教皇クレメンス5世との確執から聖職者の権威を巡る争いが続き、生涯を政治的な駆け引きの中で送りました。晩年は国外での外交交渉にも従事し、1313年に死去しました。
1313年 ギヨーム・ド・ノガレ フランス王フィリップ4世 1260年
延元3年/暦応元年3月21日

坊門清忠

公卿

公卿
鎌倉後期から南北朝時代にかけて活躍した日本の公卿。
坊門清忠(生年不詳-1338)は、藤原北家庶流に連なる名門坊門家の出身で、鎌倉幕府末期から南北朝時代にかけて公卿として朝廷で重職を歴任しました。後醍醐天皇の信任を得て、政治や宮廷儀式の運営に携わるとともに、南朝と北朝の対立期には宮廷内の調停にも尽力しました。その功績は後世の公家社会にも影響を残しました。詳細な活動記録は限られるものの、動乱の時代において朝廷の安定化に貢献した人物として評価されています。1338年に崩御し、公卿としての役割を終えました。
1338年 延元 暦応 3月21日 坊門清忠 公卿 1283年
1512年

ガストン・ド・フォワ

(1489 - 1512)

フランスの軍人

フランスの軍人
イタリア戦争で活躍し、史上最年少の総司令官を務めたフランスの若き軍人。
ガストン・ド・フォワ(1489-1512)は、フランス王ルイ12世の甥にあたる軍人で、イタリア戦争において22歳にして総司令官に任命されました。迅速な行軍と大胆な戦術で敵軍を圧倒し、1503年のフォルノヴォの戦いや1512年のラヴェンナの戦いで顕著な戦果を挙げました。特にラヴェンナの戦いでは戦死し、その若さにもかかわらず戦術的才能を遺憾なく発揮しました。わずか23歳で迎えた最期は、ルネサンス期の軍事史における伝説として語り継がれています。その勇猛さと指揮力は同時代の文学や絵画にも描かれ、後世の軍人にも影響を与えました。
1512年 ガストン・ド・フォワ フランス 1489年
永正9年3月25日

朝倉貞景

(1473 - 1512)

戦国大名

戦国大名
越前国を治めた戦国大名。
朝倉貞景(1473-1512)は、越前国の戦国大名朝倉氏の当主として領国統治を行いました。家臣団の結束を図り、城郭の整備や農業振興に努めて地域社会の安定化を推進しました。周辺勢力との抗争にも積極的に関与し、越前の防衛体制強化に尽力しました。1512年、戦乱の中で戦死し、その統治の多くは後継者に引き継がれました。地域を支えた手腕と壮絶な最期は、越前の戦国史に名を刻んでいます。
永正 3月25日 朝倉貞景 戦国大名 1473年
永禄11年3月14日

寿桂尼

今川氏親正室、今川義元の母親

今川氏親正室 今川義元の母親
今川氏親の正室で、義元の母として朝廷や家中で影響力を行使した女性。
寿桂尼(生年不詳-1568)は、戦国大名今川氏親の正室として婚姻政治を担い、没後は嫡男義元の後見役として家中の実権を握りました。駿河・遠江の統治において内政面を支え、甲相駿三国同盟の形成にも関与したと伝えられます。義元の死後も今川氏の権威維持に努め、寺社との関係強化や文化事業を推進しました。その政治的手腕は家臣団の結束を高め、今川氏の最盛期を支えた立役者として評価されています。1568年に隠退し、晩年を静かに過ごしました。
1568年 永禄 3月14日 寿桂尼 今川氏親 今川義元 生年不詳
慶長20年3月14日

奥平信昌

(1555 - 1615)

戦国武将、加納藩主

戦国武将 加納藩主
徳川氏に仕え、加納藩主として藩政改革に取り組んだ戦国武将。
奥平信昌(1555-1615)は、徳川家康に仕えた戦国武将で、関ヶ原の戦いや大坂夏の陣で活躍しました。戦功により美濃加納藩初代藩主に任じられ、藩政改革や城下町整備を推進しました。農業振興や商工業の発展に注力し、領民の暮らし向上に取り組みました。江戸幕府成立期には幕府の重臣としても重用され、政治・軍事両面で重要な役割を果たしました。1615年に隠居し、その年に没しました。
1615年 慶長 奥平信昌 戦国武将 加納藩主 1555年
元和3年3月6日

最上家親

(1582 - 1617)

山形藩主

山形藩主
江戸初期に山形藩を治めた大名。
最上家親(1582-1617)は、最上氏第15代当主として羽州山形藩を統治しました。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後に領地を安堵されて藩政基盤を固めます。家臣団の再編や年貢制度の見直しで財政再建に努め、城下町の整備も推進しました。学問や芸能の保護に力を入れ、山形藩の文化的発展に寄与しました。1617年に死去し、その功績は後世に受け継がれています。
1617年 元和 3月6日 最上家親 山形藩主 1582年
万治2年2月20日

松平忠国

(1597 - 1659)

播磨国明石藩大名

播磨国明石藩大名
明石藩初代藩主として藩政改革を進めた江戸時代前期の大名。
松平忠国(1597-1659)は、播磨国明石藩の初代藩主として藩政基盤の確立に努めました。幕府の重臣として海運政策や朱印船貿易に貢献し、藩財政の安定を図りました。城下町の復興や教育振興を推進して領民の生活向上に尽力しました。学問や文化事業を支援し、播磨明石地域の学術・芸能の発展に貢献しました。1659年に死去し、明石藩の礎を築いた人物として知られています。
1659年 万治 2月20日 松平忠国 播磨国明石藩 大名 1597年
1853年

ルイ・エマニュエル・ジャダン

(1768 - 1853)

作曲家

作曲家
フランスの作曲家・ピアニスト。オペラや室内楽作品など多彩な楽曲を残した。
1768年にフランスのヴェルサイユで生まれる。 パリ音楽院で学び、作曲とピアノ演奏を修めた。 オペラや交響曲、室内楽、ピアノソナタなど幅広いジャンルで作品を発表。 ピアニストとしても演奏活動を行い、当時の音楽界で高い評価を得た。 パリ音楽院で教壇に立ち、多くの弟子を育成した。 19世紀前半のフランス音楽界を代表する一人として知られる。 1853年4月11日に没。
1853年 ルイ・エマニュエル・ジャダン 作曲家 1768年
1875年

ハインリッヒ・シュワーベ

(1789 - 1875)

天文学者

天文学者
ドイツの天文学者。太陽黒点の11年周期を発見し、後の太陽研究に大きな影響を与えた。
1789年にドイツ生まれ。薬剤師として働きながら天文学を研究。 1826年から観測を開始し、太陽黒点の定期的な変動を記録。 1843年に太陽黒点の約11年周期を発見し、太陽活動周期の概念を確立。 この成果は後の太陽物理学や宇宙天気予報の基礎となる。 ライプツィヒ大学などで講義を行い、多くの天文学者に影響を与えた。 1875年4月11日に没し、その功績はシュワーベ周期とも呼ばれる。
1875年 ハインリッヒ・シュワーベ 天文学者 1789年