弘仁14年2月26日
嵯峨天皇の勅により比叡山寺の寺号を延暦寺に改める。
嵯峨天皇の勅により比叡山の寺号が正式に『延暦寺』と改称され、天台宗の総本山としての地位が確立しました。
823年、嵯峨天皇は比叡山寺の寺号を『延暦寺』に改める勅令を発しました。比叡山寺は伝教大師最澄が開創した天台宗の根本道場で、改称により皇室の保護を受ける正式な寺院として認められました。延暦寺は以後、天台宗の総本山として僧侶の教育や経典の研究を担い、日本仏教史に大きな影響を与えました。平安時代から鎌倉時代にかけて政治的・文化的な拠点となり、多くの寺院や修行道場を指導しました。現在まで続く延暦寺の名称と伝統は、この勅令によって確立されました。
823年
弘仁
2月26日
嵯峨天皇
延暦寺
879年
ルイ3世が西フランク王に即位。
ルイ3世が西フランク王に即位し、弟カルロマーニョとの共同統治を開始しました。
879年、カロリング朝の血筋を引くルイ3世(カール3世)が西フランク王に即位しました。彼は弟カルロマーニョと共同して王国を支配し、ヴァイキングの襲来に対抗して防衛策を講じました。ルイ3世の治世は短命であり、880年に戦闘中の怪我がもとで急逝しました。即位期間中の功績は限られるものの、共同統治の試みや国防強化の動きが評価されています。後継には弟が単独で王位を継承しました。
879年
ルイ3世
西フランク
寛元4年3月23日
鎌倉幕府執権・北条経時が重病のため、弟の時頼が5代執権に就任。
鎌倉幕府第4代執権・北条経時の病没に伴い、弟の北条時頼が第5代執権に就任しました。
1246年(寛元4年3月23日)、鎌倉幕府の執権として実権を握っていた北条経時が重病に陥り病没しました。跡を継いだ弟の北条時頼は第5代執権となり、執権政治の体制を安定させる改革を進めました。時頼は評定衆の整備や恩給率法の導入などを行い、武士の統制や訴訟制度の強化に努めました。彼の治世により幕府の統治機構はより効率的となり、北条氏の権力基盤が確固たるものになりました。時頼の改革は鎌倉幕府の最盛期を支える重要な契機となりました。
1246年
寛元
3月23日
執権
北条経時
時頼
1302年
フランス王フィリップ4世が初の三身分合同会議(三部会)を開催。
フランス王フィリップ4世が第三身分を含む初の三部会を招集し、議会制度の礎を築きました。
1302年、フランス王フィリップ4世(美男子王)は財政難を背景に貴族・聖職者・平民の三身分から代表を選出する『三部会』を招集しました。これはフランスにおける初の全国的な身分代表制議会であり、国王が課税を承認させるための手段として利用されました。第三身分の参加はそれまでの王権支配に変化をもたらし、後の議会制度発展の道を開く重要な契機となりました。会議では戦費調達や教会権力との駆け引きが行われ、国政への市民参加の意識が芽生えました。三部会の概念は後のヨーロッパ各国の議会制度にも大きな影響を与えました。
1302年
フィリップ4世
三部会
1827年
ジョージ・カニングがイギリスの第23代首相に就任。
ジョージ・カニングがイギリス第23代首相に就任しました。短命政権はわずか4か月で終わります。
1827年4月10日、ジョージ・カニングがイギリスの第23代首相に就任しました。元外相として南アメリカ独立諸国の支援を行い、自由貿易思想を推進した政治家です。しかし就任からわずか4か月後に健康を崩し、同年8月に在任中に急逝しました。短命政権ながら、彼の対外政策や国内での経済自由化への意欲は評価されています。カニングの死後、次のリーダーが政権を継ぎ、彼の政策の一部は後任にも受け継がれました。
1827年
ジョージ・カニング
1848年
ロンドンのケニントン・コモン広場でのチャーティスト集会と第三回国民請願
1848年4月10日、ロンドンのケニントン・コモン広場でチャーティストが集会を開き、労働者階級の参政権拡大を求める第三回国民請願を提出しました。
チャーティスト運動は19世紀半ばのイギリスで、労働者階級の参政権拡大を求めた政治運動です。1848年4月10日、ロンドンのケニントン・コモン広場に約8万人が集まり、国会への第三回国民請願を携えて行進しました。請願書には選挙権の拡大や秘密投票制など6項目の要求が盛り込まれていました。集会後、代表団はホイッグ政権に嘆願しましたが、採択は見送られました。警察は集会を厳重に監視し、一部で小競り合いが発生しました。チャーティスト運動はその後も継続し、後の選挙改革に影響を与えました。
1848年
ロンドン
チャーティスト
1864年
オーストリアのマクシミリアン大公がメキシコ帝国皇帝に就任。
1864年4月10日、オーストリアのマクシミリアン大公がフランスの後ろ盾を受けてメキシコ帝国の皇帝に就任しました。
第二帝政期のメキシコでは、フランスを中心とした欧州列強が保守派政権樹立を目指して介入しました。ナポレオン3世の計画により、傀儡政権の皇帝としてオーストリア大公マクシミリアンが擁立されました。彼はメキシコのカトリック教徒の支持を受けて皇位に就きましたが、共和派のベニート・フアレス政権と対立しました。マクシミリアンは統治改革や土地再分配などの近代化政策を試みましたが、民衆の支持は限定的でした。1867年にフランス軍支援が撤退すると、彼の立場は急速に弱体化しました。最終的に共和国軍により捕えられ、同年に処刑されました。メキシコ帝国の短命な歴史は、外国勢力の介入と国内対立の象徴となっています。
1864年
マクシミリアン大公
メキシコ帝国
1874年
板垣退助らが高知で日本初の政治結社「立志社」を結成。
1874年4月10日、板垣退助らが高知で日本初の政治結社『立志社』を結成し、自由民権運動の拠点となりました。
立志社は明治時代初期の自由民権運動を推進する政治団体として設立されました。自由党結成前の先駆的組織で、地方主体の政治活動を展開しました。会員は地方議会の設立や言論・出版の自由を訴え、中央政府に改革を求めました。板垣退助をはじめとする指導者は、欧米の憲法や議会制度に学びながら日本の民主化を目指しました。立志社の活動は後の国会開設運動や憲法制定運動に大きな影響を与えました。
1874年
板垣退助
立志社
1886年
師範学校令・小学校令・中学校令公布。
1886年4月10日、明治政府は師範学校令・小学校令・中学校令を公布し、近代的な学校制度の整備を進めました。
師範学校令は教師養成機関の制度を定め、小学校令と中学校令は義務教育と中等教育の基本的枠組みを規定しました。これらの法令公布により、全国で官立および私立の学校が組織的に整備されました。生徒の教育課程や科目、教員資格などが明文化され、教育の標準化が図られました。特に小学校令は全国民の基礎教育を普及させる契機となり、識字率の向上に寄与しました。中学校令の施行により、高等教育への進学ルートが明確化されました。これらの教育令は近代日本の人材育成基盤を築きました。
1886年
師範学校令
小学校令
中学校令
1916年
大蔵省銀行局を設置。
1916年4月10日、明治期の大蔵省に金融行政を担う銀行局が新たに設置されました。
大蔵省銀行局は、日本銀行や民間銀行の監督・検査を行うために創設されました。設置により金融政策や通貨流通の管理が一元化され、経済の安定化を図る体制が整えられました。銀行局は銀行業務の許認可や清算事務、銀行統計の作成など多岐にわたる業務を担いました。当時は第一次世界大戦による経済変動への対応が求められており、銀行局の役割は重要視されました。近代金融制度の基盤構築に向けた一歩として位置付けられています。
1916年
大蔵省
1919年
李承晩らが上海に亡命政権である大韓民国臨時政府を樹立も承認得られず。
大韓民国臨時政府が上海に樹立されたものの、国際的な承認を得ることはできなかった。
1919年4月10日、韓国の独立運動家である李承晩らが上海に亡命政権として大韓民国臨時政府を樹立しました。三・一運動の高まりを受けて組織されたこの政府は朝鮮の独立権を主張しましたが、当時の列強からの正式な承認は得られませんでした。財政基盤や軍事力の不足もあり、内部対立や資金難に直面します。その後、臨時政府はソウルに移転を試みるなど活動を続け、後の韓国独立運動に大きな影響を与えました。
1919年
李承晩
大韓民国臨時政府
1928年
治安警察法により労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散命令。
治安警察法に基づき、複数の労働・農民団体に解散命令が下された。
1928年4月10日、治安警察法を根拠として労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟に解散命令が出されました。政府は共産主義勢力の弾圧を強化し、左派運動への締め付けを図ります。これにより多くの活動家が検挙され、運動は地下に追いやられることになります。国内の政治情勢や国際的な共産主義運動との関係も深く、後の治安維持法制定に至る流れの一端となりました。
治安警察法
労働農民党
日本労働組合評議会
全日本無産青年同盟