879年

ルイ2世

(846 - 879)

西フランク王

西フランク王
カロリング朝の西フランク王。父シャルル2世の跡を継ぎ、在位は約2年間に及んだ。
846年、シャルル2世(シャルル禿頭王)とエルムンスブルに生まれる。 877年に父の死去に伴い西フランク王として即位。 在位中は諸侯の権力拡大に苦慮し、安定した統治を実現できなかった。 アンスガルダ・ブルゴーニュと結婚し、2人の王子をもうける。 879年4月10日に崩御。死後、息子ルイ3世とカールマーニュ2世が王位を継承した。
879年 ルイ2世 西フランク 846年
治承3年3月2日

俊寛

(1143 - 1179)

真言宗の僧

真言宗の僧
平安時代末期の真言宗の僧。鹿ヶ谷の陰謀に関与し、鬼界ヶ島へ流罪となった。
1143年に生まれ、京都の三井寺で出家したとされる。 治承元年(1177年)、平清盛打倒を目指した鹿ヶ谷の陰謀に関与。 計画が露見し、同年に藤原成経・平重衡らとともに流罪を言い渡された。 流罪先の鬼界ヶ島(現在の鹿児島県近海)で厳しい環境に苦しみながら過ごす。 治承3年(1179年)3月2日、過酷な暮らしの中で没した。 その悲劇的な最期は後世の文学や演劇で取り上げられた。
1179年 治承 3月2日 俊寛 真言宗 1143年
1533年

フレゼリク1世

(1471 - 1533)

デンマーク王

デンマーク王
デンマーク王(在位:1523年–1533年)。カルマル同盟崩壊後の新王として選出された。
1471年にデンマーク王クリスチャン1世の次男として生まれる。 1523年、叔父クリスチャン2世の退位後にデンマーク王に選出される。 即位後、ノルウェー王及びシュレースヴィヒ公も兼任し、北欧諸国の安定を図った。 宗教改革の波が近づく中で諸侯との協調を重視し、内政に注力した。 1533年4月10日に没し、息子クリスチャン3世が王位を継承した。
1533年 フレゼリク1世 デンマーク 1471年
天文15年3月10日

龍造寺家兼

(1454 - 1546)

肥前国の戦国大名

肥前国の戦国大名
肥前国を拠点とした戦国大名。龍造寺氏の基礎を築いた人物。
1454年に肥前国(現在の佐賀県)で生まれる。 領地の統治と拡大に努め、龍造寺氏の勢力基盤を確立した。 当初は有力な地侍として活躍し、次第に大名としての地位を固めていった。 家業を子の兼房らに引き継ぎ、後の代に隆盛をもたらした。 天文15年(1546年)3月10日に逝去。享年93と伝えられる。
1546年 天文 3月10日 龍造寺家兼 肥前国 戦国大名 1454年
1585年

グレゴリウス13世

(1502 - 1585)

ローマ教皇

ローマ教皇
教皇(在位:1572年–1585年)。グレゴリオ暦を制定したことで知られる。
1502年、イタリアのボローニャで出生。本名はウゴ・ボンコンパーニ。 1572年にローマ教皇に選出され、宗教改革への対抗を推進。 1582年にユリウス暦の改良版としてグレゴリオ暦を発布し、現在の暦の基礎を築いた。 学術や芸術の保護者としても活動し、ローマにアカデミーや研究機関を設立した。 1585年4月10日に没し、後継教皇シクストゥス5世が選出された。
1585年 グレゴリウス13世 ローマ教皇 1502年
承応元年3月2日

栗山利章

(1591 - 1652)

福岡藩士

福岡藩士
江戸時代前期の福岡藩士。黒田氏に仕え、藩政に携わったと伝えられる。
1591年に生まれ、福岡藩初代藩主黒田長政に仕える家臣の一人とされる。 藩内の行政や兵制の整備に関与し、藩政運営を支えた。 承応元年(1652年)3月2日(旧暦)、高齢を迎えた藩士として晩年を過ごす。 同年4月10日に亡くなり、福岡藩士としての生涯を閉じた。 詳細な記録は乏しいが、藩士団の一員として忠義を尽くした。
1652年 承応 栗山利章 福岡藩士 1591年
宝永6年3月1日

大石吉之進

(1691 - 1709)

赤穂藩家老大石良雄の次男

赤穂藩家老大石良雄の次男
赤穂藩家老大石良雄の次男。父の切腹後に家族を支えたが、若くして死去。
1691年に赤穂藩家老大石良雄の次男として生まれる。 元禄時代の赤穂事件で父や兄が処罰された後、家族は困難な状況に置かれた。 幼少期から藩主側近の家系として成長し、家名の救済に努めた。 宝永6年(1709年)3月1日(旧暦)に18歳で世を去った。 その短い生涯は、父子二代にわたる赤穂藩の動乱を象徴している。
1709年 宝永 3月1日 大石吉之進 赤穂藩 家老 大石良雄 1691年
1752年

ウィリアム・チェゼルデン

(1688 - 1752)

外科医、解剖学者

外科医 解剖学者
イギリスの外科医・解剖学者。骨学と眼科手術の分野で先駆的業績を残した。
1688年にイングランド南部で生まれ、外科と解剖学の研鑽を積んだ。 1718年に王立外科医師会の会員に選ばれ、その後ロンドンのセント・トーマス病院に赴任。 1733年に刊行した『Osteographia』は骨格の詳細図譜として高く評価された。 尿路結石摘出術(単孔式結石摘出術)の技法を確立し、手術成績を大きく向上させた。 1752年4月10日に没し、近代外科学の発展に大きく寄与した。
1752年 ウィリアム・チェゼルデン 外科医 解剖学者 1688年
1756年

ジャコモ・アントニオ・ペルティ

(1661 - 1756)

作曲家

作曲家
イタリアの作曲家。バロック音楽の発展に貢献し、多数の宗教曲やオペラを残した。
1661年にボローニャで生まれ、幼少期から音楽の英才教育を受けた。 1688年にサン・ペトローニオ大聖堂の合唱長に就任し、長年にわたり楽壇を牽引。 オペラやオラトリオ、宗教作品を数多く作曲し、バロック音楽の多様性を示した。 特にカンタータやモテットは当時のイタリアで高い評価を得た。 1756年4月10日に没し、その作品は後世の作曲家にも影響を与え続けた。
1756年 ジャコモ・アントニオ・ペルティ 作曲家 1661年
安永8年2月24日

徳川家基

(1762 - 1779)

徳川家治の子

徳川家治の子
江戸幕府第10代将軍徳川家治の子。夭折した将軍家の一員。
1762年に江戸城にて誕生し、第10代将軍徳川家治の嫡子として期待された。 幼少期より将軍家の後継者として教育を受け、藩校などで学問に励んだ。 しかし体弱であったとされ、成長途上で健康を損ねた。 安永8年(1779年)2月24日(旧暦)に17歳で病没し、その短い生涯を閉じた。 将軍家の安定後継を担うはずだった存在の早逝は、幕府内にも大きな衝撃を与えた。
1779年 安永 2月24日 徳川家基 徳川家治 1762年
1786年

ジョン・バイロン

(1723 - 1786)

海軍士官、世界一周航海者

海軍士官 世界一周航海者
イギリス海軍の士官で、1764年から1766年にかけて世界一周航海を行った人物。 詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの祖父でもある。
1723年8月8日に生まれ、ロイヤルネイビーに入隊し七年戦争などの遠征に参加した。 1764年にはフリゲート艦『ドルフィン』の艦長として世界一周航海を指揮し、未踏の海域の測量に貢献した。 過酷な航海条件から『荒天のジャック』と呼ばれ、勇敢かつ厳格な航海士として知られる。 帰国後も海軍で要職を歴任し、英国海軍の基礎的地図作成に寄与した。 孫に詩人バイロン卿ことジョージ・ゴードン・バイロンを持ち、家族の文学的才能に影響を与えた。 1786年4月10日に没した。
1786年 ジョン・バイロン 1723年
1813年

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ

(1736 - 1813)

数学者

数学者
イタリア生まれでフランスを拠点に活躍した数学者。 解析力学や数論に革新的な業績を残した。
1736年1月25日にトリノで生まれ、若くして数学と天文学の才能を発揮した。 1772年にラグランジュ未定乗数法を発表し、解析力学の基礎を確立した。 数論や微分方程式においても多くの定理を証明し、『ラグランジュの定理』として知られる業績を残した。 ベルリン王立科学アカデミーとフランス科学アカデミーの会員を務め、ナポレオンに招かれてÉcole Polytechniqueの教授を歴任した。 後進の育成に尽力し、科学界に多大な影響を与えた。 1813年4月10日にパリで逝去した。
1813年 ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 数学者 1736年