1241年
ワールシュタットの戦い。モンゴル帝国軍がポーランド・ドイツ軍を敗る。
モンゴル帝国軍がワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を破り、ヨーロッパ進出の危険性を示した。
1241年4月9日、現在のポーランド領ワールシュタット付近でモンゴル帝国軍とポーランド・ドイツ連合軍が衝突しました。
モンゴル軍は高度に機動性を備えた騎馬軍団を駆使し、重装歩兵を主体とする連合軍を攻略しました。
連合軍はシレジア公ヘンリク2世率いる騎士団やテンペル騎士団など多様な兵力を集めていましたが、組織的な連携が取れずに敗退しました。
この勝利によりモンゴル帝国は中央ヨーロッパへの進出を示し、各地に恐怖を植え付けました。
その後、モンゴル軍はオゴタイ・ハーンの死去を受けて引き揚げ、さらなる侵攻は中断されました。
1241年
ワールシュタットの戦い
モンゴル帝国
1782年
アメリカ独立戦争: セインツの海戦が始まる。
アメリカ独立戦争中のセインツの海戦が開戦し、イギリス海軍がフランス艦隊と戦闘を開始した。
1782年4月9日、カリブ海ドミニカ島沖でアメリカ独立戦争の一環としてセインツの海戦が勃発しました。
イギリス東インド艦隊司令官ジョージ・ロドニー提督率いる英艦隊は、コント・ド・グラス率いるフランス艦隊を迎え撃ちました。
激戦の末、英艦隊は火器射程の利を活かし、仏艦隊に大打撃を与えて混乱を誘発しました。
この勝利によりイギリスはカリブ地域での制海権を確保し、アメリカ側への補給路を断つ戦略的優位を得ました。
海戦は同年6月の趨勢を決定づける一因ともなり、独立戦争終結後の和平交渉に影響を与えました。
1782年
アメリカ独立戦争
セインツの海戦
1865年
アメリカの南北戦争で、南軍のリー将軍が降伏宣言し、戦争が終結。
南北戦争で南軍のロバート・E・リー将軍が降伏し、米国内戦が終結した。
1865年4月9日、バージニア州アポマトックス・コートハウスで南軍総司令官ロバート・E・リー将軍が北軍総司令官ユリシーズ・S・グラントに降伏文書に署名しました。
これにより、4年にわたる南北戦争は事実上の終結を迎えました。
戦争を通じて60万人以上の犠牲者を出し、国内は深い分断と荒廃を被りました。
戦後は再建時代(レコンストラクション)が始まり、南部社会の復興と黒人の権利問題が主要課題となりました。
アメリカ合衆国の歴史における転換点として位置づけられています。
1865年
南北戦争
リー将軍
1939年
天津イギリス租界事件。天津のイギリス租界で親日派の海関監督・程錫庚が抗日ゲリラにより暗殺される。
1939年4月9日、天津のイギリス租界で親日派海関監督・程錫庚が抗日ゲリラに暗殺された事件です。
1939年当時、天津には複数の外国租界が置かれ、日本の影響力も強まっていました。
程錫庚は清朝時代から続く海関監督の職に就いており、親日的な立場を取っていました。
4月9日、抗日ゲリラが租界内に潜入し、程の警備を突破して襲撃しました。
この暗殺は租界の治外法権を揺るがし、日中関係の緊張を一層高める結果となりました。
事件後、租界側は治安対策を強化し、抗日活動への弾圧を一段と厳しくしました。
1939年
天津
租界
1940年
第二次世界大戦: ヴェーザー演習作戦。ナチス・ドイツがノルウェー・デンマークへ侵攻。ノルウェー国王ホーコン7世がイギリスに亡命。
1940年4月9日、ナチス・ドイツがノルウェーとデンマークへの侵攻を開始した作戦です。
ヴェーザー演習作戦は第二次世界大戦中、ドイツが北欧への戦略的優位を確保するために実施した奇襲作戦です。
同日未明、ドイツ軍は空挺部隊と海上輸送部隊でノルウェーとデンマークの要地を同時に襲撃しました。
ノルウェー国王ホーコン7世と政府はイギリスへ亡命し、亡命政府を樹立して抵抗を続けました。
これにより、英国は北欧情勢に介入し、枢軸国の海上交通路を断つための大規模作戦を展開しました。
北欧侵攻はドイツ軍の初期戦果を大きく拡大し、戦局に重要な影響を与えました。
1940年
第二次世界大戦
ヴェーザー演習作戦
ナチス・ドイツ
ノルウェー
デンマーク
ホーコン7世
1942年
第二次世界大戦: 日本軍がフィリピンのバターン半島を占領。(バターン死の行進)
1942年4月9日、日本軍がフィリピンのバターン半島を制圧し、捕虜が過酷な行進を強いられました。
バターン半島の守備隊は約3カ月にわたり日本軍の猛攻を耐え抜き、4月9日についに降伏しました。
降伏後、約7万の捕虜は拷問や暴行を伴う『バターン死の行進』へと送られ、数千人が命を落としました。
行進は100kmを超え、食料や水の補給がほとんどない中で行われました。
この事件はアメリカやフィリピンの戦争捕虜処遇に対する世界的な非難を呼び起こしました。
戦後、この行進は戦争犯罪として裁かれる一因となりました。
1942年
日本軍
フィリピン
バターン半島
バターン死の行進
1945年
第二次世界大戦: キールに停泊中のドイツの重巡洋艦アドミラル・シェーアがイギリス空軍機の爆撃を受け沈没。
1945年4月9日、ドイツ重巡洋艦アドミラル・シェーアが英空軍機の爆撃で沈没しました。
アドミラル・シェーアはドイツ海軍の重巡洋艦で、第二次世界大戦序盤から活動していました。
戦局末期の1945年4月、キール湾に停泊中の同艦はイギリス空軍の爆撃目標となりました。
爆撃は主にランカスター爆撃機によって行われ、大型爆弾が命中し火災が発生しました。
船体は大破し沈没、乗組員にも多数の犠牲が出ました。
この攻撃はドイツ海軍の戦力低下を象徴する出来事となりました。
1945年
キール
アドミラル・シェーア
1948年
デイル・ヤシーン事件: エルサレム西部のデイル・ヤシーン村を、ユダヤ人特攻隊が攻撃、多数の住民が犠牲になる。
1948年4月9日、デイル・ヤシーン村でユダヤ人武装組織が住民を襲撃し、多数が犠牲となりました。
デイル・ヤシーン事件は第一次中東戦争期に発生した民間人虐殺事件です。
ユダヤ過激派組織イェヒュディ・ゾハムやレヒが村を襲撃し、100人以上の住民が死亡したとされます。
報道はパレスチナ難民の流出を加速させ、周辺地域にも恐怖と混乱を広げました。
この事件はアラブ世界で強い非難を浴び、戦争の過酷さを象徴する出来事となりました。
以降、中東和平交渉にも深刻な影響を及ぼしました。
1948年
デイル・ヤシーン事件
エルサレム
ユダヤ人
1989年
グルジア・ソビエト社会主義共和国(グルジアSSR・現ジョージア)のトビリシで4月4日以降本格化した抗議運動に対してソビエト連邦軍が攻撃、後に「4月9日の悲劇」と呼ばれる虐殺事件が起こる。
トビリシでの独立要求デモにソ連軍が武力鎮圧を行い、多くの死傷者を出した事件が起きました。
1989年4月9日、ソ連支配下のグルジアSSR首都トビリシで独立を求める市民デモが続く中、ソビエト連邦軍が実弾を用いて武力鎮圧を行い多数の死傷者を出しました。
当局側の発表では19名の死亡、数百名の負傷者が出たとされますが、市民団体はさらに多くの犠牲者がいたと訴えました。
この事件は「4月9日の悲劇」として記憶され、ソ連の権威主義的支配への反発が高まる契機となりました。
約2年後の1991年には、グルジアはソビエト連邦からの独立を果たし、自由化運動の象徴的出来事として位置づけられています。
1989年
グルジア・ソビエト社会主義共和国
ジョージア
トビリシ
4月4日
ソビエト連邦
4月9日の悲劇
2003年
イラク戦争: イラクの首都バグダードが事実上陥落。
イラク戦争で連合軍がバグダードを制圧し、サダム・フセイン政権の崩壊が決定的になりました。
2003年4月9日、アメリカなど多国籍軍によるイラク侵攻作戦でバグダードが事実上陥落しました。
連合軍は空爆と地上戦を経て首都中心部に進入し、フセイン政権の象徴であった大統領宮殿を制圧しました。
その後、フセイン像の破壊や臨時政権樹立へと進み、イラクは占領下での再建局面に入りました。
戦後のイラクでは治安悪化や反乱勢力の台頭など多くの課題が顕在化し、中東情勢に大きな影響を与えました。
2003年
イラク戦争
イラク
バグダード
2017年
エジプトのタンタとアレクサンドリアの教会で爆発事件があり、合わせて40人余りが死亡した。
エジプトの教会を狙った爆発事件で多数の死傷者が出る悲劇が発生。
2017年4月9日、エジプト北部のタンタとアレクサンドリアにあるキリスト教会で連続爆発事件が発生し、合わせて40人以上が死亡、百人以上が負傷しました。
犯行は過激派組織によるもので、聖週間のミサを狙ったテロと推定されました。
エジプト政府は非常事態宣言を発令し、治安部隊を強化してテロ対策を進めました。
国内外からの追悼や支援の声が寄せられ、宗教間の緊張緩和と安全確保の課題が浮き彫りになりました。
事件後、キリスト教徒コミュニティへの保護強化や対テロ法の見直しが議論されました。
2017年
エジプト
タンタ
アレクサンドリア